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第八話 探偵

広げていた手紙を、上総さんは目を伏せて丁寧にたたみ直した。

「そう悲壮な顔をするもんじゃありません。こうやって脅しをかけてきたということは、まだ手遅れだというわけじゃない」
「……いえ、手遅れかもしれません」
「どういうことです?」

鳴海さんの眉間にわずかにしわが寄る。
私は口を挟むこともできず、ただ二人の顔を見比べるばかりだ。

「もちろん、父には中止を……それが難しい場合は延期を進言するつもりです」
「まだ一ヶ月くらいあるんだからどうにかなるだろ」

何を大げさな、と克己くんもまた、眉根を寄せた。
しかし上総さんは無言のまま首を横に振る。

「パーティー自体を取り止めることはできるかもしれないけれど、問題はそこじゃないんだよ」
「……つまり、すでに招待状を?」
「ええ。随分前から決めていたことですし、招待客からの返事もほぼ全員から来ています」
「なるほど。そうなると……厳しいか」
「え、どうしてです? そりゃ、中止になりましたよーって手紙書くのは大変でしょうけど、無理ってわけでもないですよね?」

高橋さんと同じ疑問を抱いていたので、思わず頷きそうになる。
けれど、私のせいで起こっている問題だけに気軽に同意することもできず、みんなの顔色を伺った。

「あのね、洋くん。それで済むのは俺たち庶民の話でしょ。華族社会ってのはそういう自由さがないわけだ」
「延期でも、ですか?」
「問題は中止か延期かってことじゃなくて、どうして期日通りに開催できないか、になっちゃうんだなぁ。何か問題があったんじゃないかとあることないこと騒がれるのは、九条家としては非常に困る。……でしょう?」

鳴海さんの解説に、上総さんが困ったように眉尻を下げる。その表情だけで、鳴海さんの予想が当たっているのだとわかった。
──華族。
自分もその一員なのだと言われてはいても、やはりぴんと来ない。そもそも、自分のお披露目会だってまだどういうものなのかわかっていないのだから、無理もないのかもしれないけれど。

「……華族って大変なんですね」
「誰だって痛くもない腹は探られたくないでしょ? まぁ、今回は探られると非常に痛いわけだけど」

一瞬、室内に沈黙が落ちる。
その空気を厭うように克己くんが口を開いた。

「んなこと言っても、このまま開催したらその手紙を出して来た奴らが来るんじゃないのか。そうしたらまた、こいつが襲われる。そんな危険を犯してまで開くもんじゃないだろ」

生まれは違うとはいえ、克己くんも華族社会には慣れているはずだ。少なくとも私よりはずっと。
それでも、こうして私のことを心配してくれることが嬉しかった。

「……そうだね。克己の言う通りだ。忍、父に連絡はつくかい?」
「今のお時間は会議中かと思いますので、少々お待ちいただくことになると思います。直接向かわれますか?」
「そうしよう」

上総さんが立ち上がるのに合わせて、空気を読んだように鳴海さんも席を立つ。それを見て、高橋さんも慌てたように続いた。

「鳴海さん、申し訳ございませんが……」
「ああ、はいはい。ご当主と話がついたらまた呼んでください」

ひらひらと手を振って歩き出そうとした鳴海さんを、上総さんがすかさず止める。

「このまま、ここでお待ちいただくことはできませんか?」
「……どういうことです?」
「父はもとより午後には帰る予定でしたし、それに……」

心配げな視線を向けられ、ちくりと胸に痛みが走る。上総さんにはずっと心配をかけっぱなしだ。誘拐されてしまってからも、そして戻って来た今も。
この優しい兄は、心を平穏にしていた時はあるのだろうかと、自分のせいだとわかっていても胸が痛んだ。

「これから父のところに行ってこようと思います。忍を連れて行きますので、できればここで千佳の傍にいてもらえませんか」
「……はぁ、屋敷に誰もいなくなる予定でも?」
「ああ、克己はいますが人数はいた方が安心なので。こんな手紙を送られたばかりですし……」

ほんの少し、克己くんが不満そうな顔をしたのが見えた。けれど、文句を言うわけでもなく強い視線を鳴海さんの横顔に向けている。まるで、品定めでもするかのように。
鳴海さんもその視線に気づいているだろうに、まるで気にした様子はない。探偵という珍しい職業についていると、こういった視線にも慣れっこなのかもしれない。

「そういうことならかまいませんよ。お嬢さんの今日のご予定は?」
「本当なら語学の授業の予定でしたが……」
「ああ、その執事さんが先生だった、と。それなら、俺が代わりを勤めておきましょう」
「え……」
「ちょっと鳴海さん、なに適当なこと言ってるんですか! きっと英語じゃなくてフランス語とかですよ!?」
「あのねぇ、洋くん。こう見えて俺けっこう博学よ?」
「こんなところで見栄を張るのはやめてください」
「信用ないねぇ」

気のおけない二人のやりとりに、少し固い表情をしていた上総さんがふっと笑う。もしかしたら、このために軽口を叩いてくれたのかもしれない。そう思うと、途端に鳴海さんと高橋さんがいい人に見えてしまうのだから、私も現金だと思う。

「そうですね。授業を代行していただけると非常に助かります。千佳はそれでいいかい?」
「私は……ご迷惑でなければ」

そうして、急に先生が変わっての語学授業を受けることになったのだけれど……。

***

「あの……鳴海さん?」
「はいはい、なんですかお嬢さん」

なんですか、と言うか先ほどから授業らしい授業が全く始まらない。
上総さんと忍さんが家を出てしまうと、鳴海さんはすぐに授業を開始しようと場所を移動した。そして何故か、克己くんも私の机の横に机を並べている。
課題をやるからと言っていたけれど、たぶん心配してくれているのだろう。
授業とはいえ鳴海さんと二人きりは緊張すると思っていたので、正直克己くんがいてくれてほっとした。これで余計なことを気にせず授業に打ち込めると思ったというのに、今の状況はどういうことだろう。
鳴海さんは窓際に椅子を置き、ずっとそこで手持ちの本を読んでいた。その本も語学の本というわけではなく、鳴海さん自身が元々持っていたものだ。

「なんですか、じゃないだろ。あんた、いつになったら授業始める気なんだ?」
「んー? 俺が請け負ったのはお嬢さんの授業であって、弟くんのではなかったと思いますが?」
「……その呼び方はやめろ」
「これは失礼」
「別に俺に教えろだなんて言ってない。こいつ相手にもさっきから何もしてないだろ」
「真面目だねぇ」
「あんたな……」
「か、克己くん。大丈夫だよ。自習してればいいんだし」
「そうそう。お嬢さんの方がよっぽどわかってる。お兄ちゃんだって何も本気で俺が授業を代行するとは思ってないでしょうよ」
「初めからやる気なかったのか」
「やー、だって本当の先生はあの執事さんでしょー? 方針とか色々ありそうだしねぇ」
「忍は一度了承したことに文句を言わない。それに、今日だけならそんな問題ないだろ」
「へぇ、見た目より柔軟な対応をするわけですか、あの執事さんは」
「……馬鹿にしてるのか」
「いーえ?」
「…………」

どうも、克己くんと鳴海さんの相性はよくない。
それでも喧嘩にならないのは克己くんが抑えているからか、鳴海さんが一歩引いてくれているからか……。ここに高橋さんがいてくれればもう少し温和な雰囲気になった気がするけれど、その彼は先ほどから姿が見えなかった。

「ところで、高橋さんはどちらに行かれたんですか?」

話題を逸らそうと口を挟むと、ああそれねと鳴海さんが窓の外に視線を向ける。

「もちろんお仕事ですよー、お仕事。見える? この屋敷の作りを把握しておきたいって、今からお披露目会が中止されなかった時の準備までして偉いねぇ」
「あんたも見習ったらどうだ」
「おっと、とんだとばっちりだ。まぁ、でもそこまで言うなら少しくらい真面目に授業をしましょうか。……ああ、やれと言ったのは克己くんなんでそこんとこ忘れずに」
「は?」

どういう意味だろうと克己くんと私は二人して首を傾げる。それに薄い笑みを向けてから、鳴海さんは何故か私をじっと見つめた。
あまりに真っ直ぐな視線に、他意はなくともどきりとする。

「Je t'aime a la folie. J'ai eu le coup de foudre pour toi.Je t'aime dans toutes les langues.」

低く、しっとりとした声音が紡ぐのは流暢なフランス語。
あまりに滑らかな発音に驚いて、何を言っているのか聞き取ろうとかそんなことに気づきもしなかった。

「え、え……」
「Oeil tout a fait beau.Je t'aime a ……」
「……待った」

まだ続けようとしていた鳴海さんの言葉を、克己くんがぶっきらぼうな声で遮る。驚いて横を見ると、なぜかほんのりと頬が赤かった。

「うん? どうかした、克己くん?」
「あんたわざとだろ」
「何が」
「だから……っ」
「生憎と俺が教えられるのはこういった会話だけなんで?」
「えっと……すみません。私聞き取れなくて……」

なんて言ってたんですか、と聞くよりも早く、克己くんがきっと瞳をつり上げて私を見る。

「わからなくていい。千佳は自習にしてとけ」
「え、でもせっかく……」
「こいつに習うなら、俺が教えた方がまだましだ」

確かに克己くんは語学が堪能だと綾崎さんも言っていた。鳴海さんのフランス語はとても綺麗な発音だったけれど、もしかしたら文法などが間違っていたのだろうか。

「まぁ、そういうわけで俺は大人しく読書でもしてるから、千佳ちゃんは自習な?」
「はい……」
「さりげなくちゃん付けかよ」
「なに、お前も克己ちゃんの方がよかった?」
「……あんたもう黙ってろ」
「そうさせてもらいます」

再び鳴海さんは手元の本に視線を落とし、克己くんも自らの課題に戻っていく。柱にかけられた時計だけが、カチカチとやけに大きな音で鳴っていた。
私もしばらく真面目に自習をしていたのだけれど、どうしても気になることがあって……。

「……鳴海さん」
「んー?」

本から視線を上げないまま、気のない返事をされ続きを言おうか逡巡する。けれど、やはり気になってしまって思い切って聞いてみた。

「……さっきから、一体何を読んでるんですか?」

鳴海さんが持っている本にはカバーがつけられていて、題名は見えない。小説らしいことはわかるのだけれど、私のいる場所からは残念ながら中身を見ることはできなかった。それでも気になってしまうのはきっと、鳴海さんが真剣な顔をしていたから。
ページを捲る手は一定の速度で動き、視線はやや早いくらいで上下していた。声をかけるのが躊躇われるような集中力に、逆に興味を引かれてしまう。
一体、何にそんなに夢中になっているのだろう、と。

「気になる?」
「はい、とっても」
「千佳ちゃんは素直だねぇ。けど、ちょーっと教えらんないかな」
「え」
「この本、大人向けだから」

ガタ、と音を立てて克己くんが椅子から立ち上がる。顔は伏せられていたけれど、怒っていることだけは確かだ。

「あ、克己ちゃんもお子様だから却下な。あと三年くらいしたら……って、睨まない睨まない。ちょっとした冗談でしょ?」
「あんたのは質が悪い」
「やー……でも、嘘はついてないけど。なんなら見る?」

本の内側を向けられ目を凝らそうとした瞬間、

「っ!?」
「千佳は見るな」

目を手で覆われ、目の前が暗くなった。

「おー、思ったよりもしっかりナイトなわけだ」
「あんたは思ったよりも性格が悪い」
「よく言われる」

本が閉じられる音が聞こえた少し後に、克己くんの温かい手が離れていく。その時には鳴海さんは再び読書に戻っていて、克己くんも何事もなかったかのように椅子に座り直してペンを手に取っていた。
私だけが、何もわからないまま取り残された感じが少し切ない。一体、鳴海さんは何を読んでいるのだろう。
悶々とした気持ちを抱えたまま仕方なく自習に戻ろうとすると、

「千佳ちゃんはユーリと知り合いなんだって?」

今度は鳴海さんの方から声をかけられた。しかし、顔を向けるとやはり視線は本に落とされたままで。
じっと目を見たかと思えば、こうして顔すら見ようとしない。探偵という職業についている人は、みんなこうなのだろうか。

「知り合いというか……助けていただいたんです」
「ああ、組織の人間に追われてる時に逃げ込んだんだっけ」
「……はい」

組織、という言葉にまた違和感を覚える。
確か、神父さまも同じ言葉を使っていた。神父さまから聞いたからなのか、それとも鳴海さんも何かを知っているのか。
間が空いたせいか、鳴海さんが顔を上げる。飄々とした印象の強い人だけれど、笑みを浮かべていないと存外瞳が鋭いのだとふいに感じた。

「何が聞きたい?」

焦れたように、克己くんが口を挟む。鳴海さんの口元にはすでに見慣れた軽い笑みが浮かんでいる。そのことになぜか、少しだけほっとした。

「何がってわけじゃないけど、何か聞いたかなと思ってね」
「いえ、特には……。教会にはもう来ないようにとおっしゃってましたけど、どうしてですか?」
「んー……」
「まさかあんた、ユーリ神父を疑ってるのか。ロシア人だからってそれは短絡すぎるだろ」

外国の人だとは見た目からしてわかっていたけれど、神父さまがロシア人だとは初めて知った。
克己くんの言う通り、それだけで私を追っている人たちと何か関係しているだなんて思わない。けれど、鼓動が一瞬小さく跳ねた。そして、そのことにすぐ苦いものが広がる。

「誰もそんなこと言ってないでしょうに」

鳴海さんが微苦笑を浮かべた時、話を終わらせるかのようにノックの音が響いた。
席を立とうとすると、克己くんが先にドアへと向かってくれる。

「あ、勉強の邪魔をしてすいません」

顔を覗かせたのは高橋さんで、鳴海さんの手元にある本を見つけると瞬時に顔を曇らせた。

「……あの人、ちゃんと授業してました?」

あの人、と指差すのはもちろん鳴海さんだ。

「洋くん、人のことは指差しちゃだめって教えたでしょ。お母さん悲しい」
「誰がお母さんですか。もう、授業なんてできないなら最初から引き受けなければいいのに。ほんとすいません」

高橋さんは私と克己くんにぺこぺこと頭を下げながら、後ろ手にドアを閉めて室内へと入る。様子見をしにきただけではなく、何か用があるようだ。
授業をしていないとわかったからか、高橋さんは鳴海さんの近くへと歩いて行くとやや声を低めて会話を始めた。
私は手元に視線を戻しながらも、なんとなく耳で二人の会話を拾っていた。

「敷地内は大体把握しました。簡単な地図も作りましたけど、鳴海さんもいりますか?」
「あー……ん、大丈夫。ありがとな」
「……そうですよね」
「洋くんがいてほんと助かるわ」
「はは。それで、ご当主はまだですか? そろそろ昼になりますけど」
「時間的には……っと、噂をすれば」
「え?」

バタン、と少し遠くから車のドアが閉められた音が聞こえた。
鳴海さんは窓の外を見つめてから、そっと手元の本を胸元へとしまう。どうやら、上総さんたちが帰って来たようだ。

「さて、お兄ちゃんはお父さんを説得できましたかね……」

ひとり言のような鳴海さんの声に答えるように、ほどなくしてノックの音が再び響く。
九条さんかもしれないと、無意識のうちに背筋が伸びた。大分慣れてきたとはいえ、まだ緊張してしまう。
けれど、外から聞こえたのは上総さんの声だった。

「失礼します」

ドアを開けた上総さんの表情は暗い。背後に視線を向けたけれど、そこには誰もいなかった。

「その様子だど……」
「……はい。やはり中止はできないとのことです。延期も、難しいと……」
「まぁ、そうでしょうねぇ。九条家ともなるとちょっとしたことで足下をすくおうとする輩も多いだろうし」

華族、と一言でまとめてしまうけれど、その中にも上下関係や派閥といったものがあることは、綾崎さんから習って知っていた。
九条家にも、迷惑ばかりかけている。私が責任を感じる必要はないと、ことあるごとに上総さんも克己くんも……みんな言ってくれる。けれど、どうしても申し訳なさは募った。

「中止も延期もなしって、あの人は何考えてるんだ?」
「父さんも、悩んではいたよ。けれど今回ばかりは招待した人数も多いしね……」
「それで、対策の方はどうすると?」
「その件なんですが……」

言いづらそうに口ごもり、上総さんがちらりと私に視線をやった。

「鳴海さん」
「はい?」
「今日から、この屋敷に住んではもらえませんか」
「……うん?」

薄い笑みを浮かべたまま、鳴海さんはわずかに首を傾げた。

つづく

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