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第十三話 思い出の海

「忍、どうだった」

パーティー会場の様子を確認し戻って来た綾崎に気づき、上総が周りの来賓に断ってから早足に歩み寄った。
綾崎は素早く辺りを窺ってから、表情を変えないままに頷く。

「やはり、お姿が見えません」

「……そうか」

誰が、とはどちらも口にはしなかった。
声を潜めているとはいえ、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。
状況が状況だけに、注意しすぎるくらいでちょうどいいだろう。
避難誘導した来賓たちは落ち着きを取り戻しているように見えたが、それは虚栄心によるところが大きい。
そんな危うい均衡の上でようやく成り立っている今、不穏な発言を耳に入れるわけにはいかなかった。
パーティー会場から別室へ全員を移動させるだけでも、かなりの時間を要したのだ。ここでまた混乱が生じれば、そちらにまた手を割かなければいけなくなってしまう。
それは、今は何よりも避けたいことだった。

──九条家のひとり娘が連れ去られた今は。

「現在、夏目様と音羽様に室内の詳しい捜索をお願いしております。屋敷の者は古参の一部の者のみ、そちらに」
「そうだね。それがいい。……僕はまだ来賓対応から離れられそうにないし、克己も……」

つきかけた溜息を呑み込むようにして、上総は部屋の片隅に視線をやる。
そこには、外国からの来賓対応をしている克己の姿があった。
無愛想は相変わらずではあったけれど、それがかえって落ち着いて見えるのか来賓たちは笑顔を浮かべている。
頼もしいものだと、上総の唇にもわずかに笑みが浮かんだ。

「……克己様は落ち着いてらっしゃいますね」

声に顔を上げると、すでに綾崎は視線を上総に戻している。その目が、克己には伝えないのかと問いかけてきていた。
上総は逡巡ののちに、静かに首を横に振る。

「状況がはっきりわかってからにしようと思うよ。鳴海さんたちが戻っていないことだしね」

探偵である鳴海の不在が、淡い希望を上総に持たせていた。

「それが、上総様。給仕をしていた女中のひとりが気になることを言っていたのですが……」

潜めていた声をさらに低めた綾崎に、上総がいぶかしげに眉を寄せる。

「煙が上がった時、外に向かう姿を見たそうです」
「! 本当かい?」
「はい。その際……鷹司様に手を引かれているように見えた、と」
「え……?」

瞬きほども間の後、上総ははっと室内に視線を巡らせた。
飲み物や食べ物が提供され始めた室内は、第二の社交場と化している。その中に、晴臣の姿を見つけることはできなかった。
晴臣の叔父であり、鷹司家の当主代理である鷹司勝久の姿はある。
ということは、晴臣もまだ帰ってはいないということだろう。
しかし、それならば何故、彼らは九条家に晴臣の所在を確かめようとしないのかが疑問になってくる。
あの騒ぎの後だ。普通に考えれば、次期当主の無事を一番に確認するものだと思うのだが。

「……外に向かったと言っていたんだね?」
「はい」
「外に向かう者が大勢いた中で、どうしてその二人に注目したんだと思う?」

パーティー会場の中央で煙が上がり、室内は完全に混乱に陥っていた。
我れ先にと外へ出ようとする者たちの中、千佳と晴臣がいてもそう気づけるものではない。たとえ、いくら自分が仕える屋敷の娘と言っても、何か理由があるはずだと上総は踏んでいた。
そしてそれが、決して良い方向の理由ではないこともまた、どこかで感じていた。

「確認のため、女中を連れてまいります」
「そうだね。頼むよ」
「かしこまりました」

すぐに歩き出そうとした綾崎はしかし、廊下を覗いたところで足を止めた。

「上総様」

小さく、けれど急を要する呼び方に、上総はさっと辺りを見回す。
部屋の遠くから強い視線を感じて顔を向けると、克己と目が合った。
すぐに戻るからこの場は任せてもいいか。そういった気持ちを込めて見つめ返すと、小さく頷きが返る。
正確に意図が通じたかはわからない。けれど、以前にはなかった信頼感のようなものがそこにはあり、こんな時だというのに上総は胸がじわりとあたたかくなるのを感じた。

「上総様」

もう一度、綾崎に促され今度は周りに愛想笑いを振りまいてから部屋を出る。
廊下に出ると、誰かが別室に入る背中が見えた。見覚えのある茶の背広に、息を詰める。

「晴臣君かい?」

問いかけておいて、綾崎が半分も頷かないうちに別室へと入った。

「何をしていた」

上総が室内に入るとすぐに、晴臣が鋭い視線を投げて寄越す。
シャツの片袖を抜き、むき出しになったその腕は血に染まっていた。
その怪我を見ただけで、晴臣がただ悪戯に千佳を外へ連れ出したわけではないことがわかる。
上総が無言のままに頭を下げると、晴臣はそれ以上責めるようなことは口にしなかった。

「そんな顔もできるんだな」

晴臣に不適に笑われたが、上総自身は自分がどんな顔をしているのかわからない。
苦笑するに留め、それで、と話を促した。

「室内で煙が上がった時、千佳と一緒にいたというのは本当ですか」
「ああ、いた」

話をしている間も、捜索から戻っていた怜ニが手際良く晴臣の腕の血を拭き取っている。もしかしたら、晴臣のことを見つけたのも、怜二なのかもしれない。
怜ニは表情に出すまいとしているが、わずかに寄った眉根からそこそこ傷が深いことが知れた。
本来ならば客人にさせることではないが、ことがことだ。話を内輪に抑えておくために、人を呼ぶことはできない。綾崎の到着を待つ間に、怜ニが治療役を請け負ってくれたのだろう。
その慣れた手つきを見て、綾崎も役目を代わるのではなく補助に回っていた。
傷に触れられると痛むらしく、晴臣はしかめっ面のまま話を続ける。

「外国の男に追われていたようだったから、手を引いて外に出た」
「その男は黒いスーツを……?」
「着ていた。ロシア語を話していたから……いや、説明するより直接本人に聞いた方が早いな」
「え?」

まさか捕らえたとでも言うのだろうか。
驚きに目を見開いていると、ちょうど部屋に鳴海が顔を出した。
晴臣ほどではないが、その背広は少しよれている。

「やー、さっぱりさっぱり。鷹司さんの治療が終わるのを待った方が……おっと、上総さんが捕まったんですね」

上総がいるのを見てとると、鳴海は唇に薄い笑みを浮かべた。状況にそぐわないその軽い笑顔に、怜ニがむっとしたように口を開く。

「……今の状況、わかってんのか?」

険のある物言いに、鳴海は軽く肩を竦めた。まともにやり合う気はないらしい。
怜ニもそれ以上突っかかろうとはせず、口を噤むと晴臣の治療に戻った。

「鳴海さん、相手を捕らえたんですか」
「ひとりだけですけどね。あんまり暴れるんで、夏目さん借りてますよ」
「彰雄なら、大丈夫でしょう。それで、何か言いましたか」
「いや、まったく。言葉が通じないのか黙秘してるだけなのか、何も話しません」
「それじゃあ、千佳の行方も……」

捕らえられたのはひとりのみ。相手方が単独で乗り込んで来るとは思えない。
とすると、逃げた男たちによって千佳は連れ去られてしまった可能性が高い。
無意識に落ちた上総の声に、鳴海がひらひらと手を振った。

「ああ、お嬢さんならうちの高橋と一緒だと思いますよ」

予想外の返答に、驚く以上にいぶかしむ。
高橋と一緒にいると言うのなら、この場にいない理由がわからない。
上総の困惑を汲んだように、鳴海が一度頷いた。

「ひとまず、車を貸してもらえますか」
「じゃあ、高橋君は鳴海さんの車で千佳と……?」
「車が見当たらないんで、おそらくは。あと、捕らえた男の方に誰かロシア語のできる人間を。鷹司さんでもいいとは思いますが……」
「言っておくが、ロシア語は教養程度にしかわからないからな」
「ということなので、他に誰かいるなら、その方がいいでしょう」
「……わかりました。忍、克己を呼んで来てくれ」

躊躇うように、綾崎が上総の顔を見る。
今、克己は外国からの来賓の相手で手一杯だ。そして、克己の代わりを務められるような人材は、上総と綾崎を除いてしまうと他にいない。それは上総もわかっていた。
けれど、一時的に来賓を放置する形になろうとも、今はこちらの方が優先されるべき出来事だろう。たとえそれが、後々九条家にとって不利益に繋がろうとも。
確認するように頷こうとすると、治療を終えたらしい晴臣が包帯を巻いた腕をぐるぐると回しながら立ち上がった。

「まったく、九条家はいくつ借りを作れば済むつもりだ」

どういうことだと顔を見つめていると、晴臣は綾崎に視線を向ける。

「新しいシャツと背広くらいは用意してもらう。さすがに血だらけの服で客の相手をするわけにはいかないからな」
「……すぐにお持ちします」
「そこの芸者。お前も一緒に来い」
「はっ? なんでお前に命令されなきゃいけないんだよ」
「いちいちうるさい奴だ。暇を持て余した客の相手もできないのか?」
「……そういうことか。少なくとも、お前より客を楽しませられることだけは確かだ」
「言ったな。どの程度のものか見せてもらおう」

綾崎が用意した新しい服を身につけると、晴臣は怜ニを引き連れて隣の部屋へと向かう。
その背中に、上総は深く頭を下げた。

「ただの偉そうな坊ちゃんかと思ってたけど、これは考えを改めた方が良さそうだ」

感心したようにひとりごちていた鳴海だったが、すぐに上総へと向き直る。

「使える車はありますかね。高橋と一緒にいるとは言え、今も追われていない保証はありません。すぐに出たい」
「僕の車を使いましょう。忍、あとは任せたよ」

上総がすぐにでも出ようとすると、鳴海が慌てたようにその腕を掴んだ。

「待った待った。車さえ貸してもらえれば、追跡は俺だけで充分だ」
「追っ手がいる可能性があるのでしょう? 今度はひとりを捕まえればいいという問題じゃない。千佳を無事に連れ帰る必要があります」
「……はあ。どうしても、ついて来ると」

当たり前だと頷くと、鳴海はがしがしと頭をかき乱す。

「九条家の次期当主でしょう、あなた。何かあっても責任が取り切れませんよ」
「妹が連れ去られている時点で、同じことです」
「はは、そりゃそうか」

上総がわかりやすい嫌みをぶつけると、観念したように鳴海が大きく息をついた。

***

車の中から眺める風景が、徐々に知らないものへと変わっていく。
どうして、こんなことになっているのだろう。
そっと、ハンドルを握る高橋さんの横顔を盗み見る。その気配に気づいたのか、高橋さんが前を向いたまま口を開いた。

「……怖いですか」

温度を感じさせない平坦な口調に、震えが走る。
けれど、いくら雰囲気が違えど横に座っているのは本当に知らない人というわけじゃない。
鳴海さんと兄弟のように笑い合い、仕事で依頼されただけの私のことを心から心配してくれるあの、高橋さんだ。
今のこの行動も、きっと何か理由があるに違いない。
そう信じて、「いいえ」と首を横に振った。声は、震えていなかったと思う。

「さすがは九条家のお嬢様ですね。度胸が据わってる」
「そんなことありません。隣にいるのが高橋さんだからです」
「…………」

高橋さんの手が、きつくハンドルを握りしめた。その横顔に苦い色が浮かぶ。

「どこに、向かっているんですか……?」

答えは期待していなかった。それだけに、「海です」とあっさりと返された時には少し驚いた。

「海……ですか」

海に、一体何があると言うのだろう。
昔話をしたいと言っていたから、その昔話と何か関係している場所なのだろうけれど、生憎と私は海と縁がない。
海であの黒いスーツを着た男たちが待ち構えている、ということもなさそうだ。もし、高橋さんが彼らの仲間ならば、こんな面倒なことをしなくても、屋敷の近くで私を引き渡せただろうから。

「この辺り、案外海が近いんだって知ってました?」
「……いえ、車に乗ることもそうないので」
「へえ。ああ、そうか。あなたはつい最近までは普通の人でしたもんね」

何をもって普通というのかはわからないけれど、今言われたのは庶民という意味だと思う。
高橋さんの言う『普通の人』という言葉には卑下するような響きはなく、どちらかと言うと愛着があるように聞こえた。

「高橋さんは……華族の人たちが嫌いなんですか?」

なんとなく口にしただけだったのに、高橋さんが驚いたように一瞬だけ私の方を見る。

「……そう見えましたか」
「前からそう感じていたわけじゃありませんけど、今は少しだけ」
「そうですか……。これでも、探偵助手なんですけどね。顔に出てるようじゃまだまだだ」

苦笑を漏らす様子に、ほっとした。やはり、この人は私の知っている高橋さんだ。
しかし、遠くに海が見えてくるとまた、高橋さんの顔から表情が消えてしまった。

「ここで降りてください」

辿り着いた先は、大きな倉庫が立ち並ぶ波止場だった。
車のドアを開けると、濃い潮の匂いがする。
先に降りていた高橋さんは、波でも見ようというのか海へと歩いて行く。
今ここで背を向けて走り出せば、逃げられるかもしれない。
そう思わないでもなかったけれど、私はそうはしなかった。
あまりにも、高橋さんの背中が寂しそうで、ひとり置いて行くことなんてできなかった。
湿った風に煽られる髪を片手で押さえながら、高橋さんの後ろへと歩み寄る。
高橋さんは私を振り返らないまま、防波堤ぎりぎりから海を覗き込んだ。

「ちょうど、この辺りだったそうです。海藻がたくさんあるから、それに引っかかって流されなかったんでしょうね。静かに浮いていたそうですよ」

私の返事を待つどころか、私の存在すらどうでもいいような口調で、高橋さんが言う。
返事を期待されていないことはわかっていたけれど、高橋さんをひとりにしたくなくて口を挟んだ。

「何が、ですか……?」

ようやく私と一緒だったことを思い出したように、高橋さんが振り返る。
高橋さんはもう一度、白い飛沫を上げる波に視線をやってから、私を見て笑った。

「おれの、姉です」

***

上総は綾崎に車を裏に回させ、鳴海と共に乗り込んだ。
綾崎も共に行くと言ってはくれたが、克己の方についていてほしいと頼んだ。
彰雄がいてくれるとは言え、いつ男の仲間が救出のためにやってくるかわからなかったからだ。
車の運転は鳴海に任せ、上総は助手席から通りの様子を窺った。
道路は空いていて、上総たちの乗る車の他はちらほらとしか車がない。その中に、鳴海の車はないようだった。
通りに停めてある車にも注意深く目を走らせたが、臙脂色の車は見当たらない。

「行き先を知ってるんですか」
「いや、生憎と」

知らないと言うわりに、鳴海の運転には迷いがない。
何故、高橋が千佳を連れて行ったのか、鳴海は知っているのではないか。二人がいなくなったとわかった時から、鳴海が曇った顔をしていることが気になっていた。
人目のある場では敢えて聞かなかったが、今は二人しかいない。
上総は鳴海の横顔へと問いかけた。

「どうして高橋君が千佳を連れて行ったのか。……心当たりがあるんじゃないですか?」
「……まあ」

鳴海はちらと、横目に上総を見る。
プライベートなことに関わってくるのだろうが、そんなことは知ったことではない。
無言のまま睨みつけていると、溜息混じりに鳴海が口を開いた。

「どうしてお嬢さんなのかはちょっとわかりかねますが、でも結果として俺が困った状況に追い込まれてるってことは、十中八九……俺への当てこすりでしょうね」
「どういう意味ですか?」
「あれは……俺を恨んでるので」

およそ、二人の関係性からは想像できない言葉に、眉根が寄った。
あれだけ仲が良く振舞っておいて恨まれているとは、さすがに高橋に失礼ではないのか。
上総の無言の非難が届いたかのように、鳴海は前を見たまま苦笑いを浮かべた。

「いや、予測ですよ。色々こんがらがっててね。そのせいでたぶん、そんな風に思われてる」
「つまり、あなた方の間にはなんらかの誤解があり、そのせいで妹が巻き込まれていると?」
「平たく言えば」
「こんな時に冗談はよしてください」

ただでさえ、混乱しているのだ。
身内の喧嘩ならば、せめてこんな非常時は避けてほしい。

「こんな時だから行動に移したんだとは思いますけどね……」
「……鳴海さん、口ぶりから言ってあなたはその誤解に気づいていたんですよね。それならどうして放っておいたんですか」

迷惑だと言外に責めれば、「本当にね」と同意と共に重い溜息が鳴海の唇から漏れた。

「本当に、どうして放っておいたんだか……。まあ、なんて言うか……正面から向き合うには、酷く勇気のいる誤解なんですよ」

あくまで他人事のように言う鳴海に、苛立つなという方が無理だろう。

「あなた方のいざこざに口を挟む気はありません。けれど……」

上総は語気を荒げないようにと強いて、深く呼吸をしてから口を開いた。

「千佳に何かあったら、僕はあなたを許さない」
「……許さなくていいですよ。けど洋は、そんな奴じゃない」

重い沈黙を乗せたまま、車はただ走った。
しばらく走っていると日が落ち始め、鳴海が無言のままライトをつける。
上総はどこが目的の場所か知らないために、そのライトの先だけを見つめ続けた。
そこに、千佳の姿が映ることを祈って。

「この辺りなんですが……」

鳴海がエンジンを切ろうとするのを、上総が素早く遮る。

「鳴海さん、あそこ……!」

ライトが、暗い波止場に人影を照らしていた。


つづく

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