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第六話 神のみぞ知る

膝が萎え、体が重力に従って地面へと倒れ込む。
けれど私の体は地面に打ち付けられることなく、後ろから自由を奪う手によって支えられていた。

「おや、もう眠くなってしまったの? まだ眠るには早い時間だというのに」

歌うように軽やかな声が言う。
必死に顔を上げようとしたけれど、視界が暗くなり話すその人の表情が見えない。

「そんなに眠りたいなら仕方ないね。ボクの屋敷に招待してあげようか」

ふいに体が持ち上げられる感覚がした。
上手く働かない頭でも、連れ去られようとしていることくらいはわかる。
とにかく抵抗しなければと思うのに、腕も足も鉛のように重かった。

「はな、して……」
「……おや」

どうにか絞り出した声は弱々しく、くすりと笑った男の人の声にすぐに掻き消されてしまう。
人をさらうことをなんとも思っていないようなその人の態度に、怖れと同時に怒りを覚えた。
どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのか。
こんな理不尽な仕打ちを受け入れなければいけないほどの何を、私はしてしまったというのか。
その答えがまともに返されないと予測できてはいても、言葉にして問いかけたかった。
私のそんな思いを知るはずもなく、無情にも男性は私をまるで荷物のように脇に抱えて歩き出した。
その揺れが、気持ちの悪い酩酊感を引き起こす。
目をきつく閉じることでそれに耐え、一度大きく息を吸い込んだ。
今、逃げなければ次はない。
覚悟を決め、私は思い切り男性の腕に歯を立てた。

「ッ!」

舌打ちと同時に体がドスンと地面へと投げ出される。
その鈍い痛みが逆に、私の意識をはっきりとさせてくれた。
──早く逃げなければ。
今度捕まったらきっと、こんな子供だましの手は通用しないだろう。
這ってでも逃げる気で腕を必死に立てた時、視界に誰かの爪先が入り込んだ。

「いけないパラスィオーナクだ。そんな様子じゃ屋敷に着く前に料理されてしまうよ?」

私を拘束していた男性たちとは異なり、流れるような日本語の発音が美しい。
けれど、その人の感情がどこにあるのかまるでわからない口調に血の気が引いた。
どうして、そんなに楽しそうなのだろう。
何も、楽しいことなどしていないのに。
顔を上げるのも恐ろしく、顔が映り込みそうなくらい綺麗に磨かれた革靴を凝視した。

「痛っ!」

無造作に髪を掴まれ、頭を持ち上げられる。
その痛みに顔をしかめた時だった。

「何してる!?」

鋭い怒声に指が緩み、髪が離された。
駆け寄って来る足音に、一瞬男性たちの足音が乱れる。
腕を掴まれ強引に体を引き起こされそうになり、体を丸めてそれに抵抗した。
そのわずかな抵抗のかいがあってか、連れ去られるよりも先に足音が追いついた。

「離せ!」

ドン、という鈍い音が聞こえたかと思うと、今まさに私を持ち上げようとしていた男の人が地面に倒れ込むのが見えた。
どうやら体当たりをくらったようだ。
男性はすぐに体勢を立て直すと両手を握り締め体の前で構えた。
しかし、あの黒目黒髪の男性が短く何かを言うと、盛大に舌打ちを漏らして走り出す。

「おい、待て! 逃げるな!」

助けに入ってくれた人が叫び、追いかけるよりも早く車が急発進する音が聞こえた。
立ち去ってくれたのだと安堵するのと同時に、腹部に鈍い痛みを覚える。
お腹を押さえて低く呻くと、すぐに私の背に温かい手が触れた。

「おい、大丈夫か!? 何があった!? お前、なんで家の外に……」

抱きかかえられて顔を見上げ、ようやく助けに来てくれたのが克己くんだとわかる。
学生服を着ているということは、ちょうど帰宅したところだったのだろう。

「彰雄さんを塀の向こうに見かけてお礼を言いに出たの……。外に出てたことに気づいて慌てて戻ったんだけど……」
「一瞬出たとこを襲われたって言うのか? それじゃあまるで監視でもされてるみたいじゃないか」
「監視……?」

まさかそんな、と言い切れない事態に胸が重くなる。

「とにかく、早く家で手当てを……」

そう言って抱き上げようとしてくれた克己くんの腕を、私は咄嗟に強く押し止めた。

「自分で、歩けるから……」
「何強がってるんだよ! 顔だって真っ青なんだぞ」
「大丈夫だから。運んでもらったりしたら、心配されちゃうでしょう……?」
「心配ってお前まさか、襲われたの黙ってる気か?」
「……助けてくれたのが克己くんでよかった」

言外にそうだと告げると、克己くんは苦い顔をする。

「黙ってていいような問題じゃないだろ」

ぼそりと呟かれた言葉に頷きながら、どうにか自分で立ち上がった。
お腹はずきずき痛むけれど、立てないというほどではない。

「黙っていて解決することではないけど、話しても心配をかけるだけだから。あの人たちのことは今も調べてもらっているところだと思うし……」
「それはそうだけど……」
「お願い、克己くん。……心配をかけたくないの」
「……わかった」

大きなため息をつかれたけれど、克己くんは渋々頷いてくれた。

「けど、手当てはするからな」
「え、でも……」

家の中で手当てなんてしていたら、それこそ何かありましたと言ようなものだ。
それでは黙っていてもらう意味がない。
困惑する私の腕を掴み、克己くんはゆっくりと歩き出す。

「もうすぐ日が暮れる。そうしたら部屋に迎えに行くから出かけるぞ」
「出かけるってどこに……?」
「行けばわかる。連中も失敗した直後にまた狙おうとはしないだろ。手当ても急いだ方がいいだろうし……。黙っててやるから言うこときけよ」
「う、うん」

押されるような形で頷いたものの、克己くんが何を考えているのかは全くわからなかった。

克己くんに支えられてどうにか自分の部屋まで戻り、ベッドへと体を横たえる。
まだ今日の授業が残っていたけれど、それは克己くんが綾崎さんに上手く取りなしてくれるということだった。
家の人たちに迷惑をかけまいと思っていても、結局克己くんには頼ることになってしまっている。
吐き出したため息は自分で思っていたよりもずっと重かった。

「どうして、私なんて狙うんだろう」

九条家の娘という立場を考えれば、お金目当ての誘拐は充分に考えられる。
けれど、ただのお金目的ならば一度失敗した時点で狙いを変えそうなものだ。
お金ではないのだとしたら、一体目的はなんなのか。

「……私じゃなきゃいけない理由なんて」

九条家の子供でなければならないとしても、私でなければならない理由が見つからない。
女の方がさらいやすいからと言われればそうかもしれないけれど、克己くんならば私と体格もさほど変わらない。
私でなければいけない理由なんて何もないはずなのに、と頭を悩ませていると、静かなノックの音が聞こえた。

「はい」
「上総だけれど、少しいいかな?」
「あ、はい! 今開けます!」

上総さんが一体なんの用だろう。
慌ててベッドから起き上がると、ずきりと腹部が痛む。
それを無視して姿見でおかしなところがないか確認してから、急いでドアへと駆け寄った。

「お待たせしました」
「……ああ、もしかして起こしてしまったかい?」
「いえ、大丈夫です」

気遣わしげな視線を見返せずに目を伏せる。
心臓は音が聞こえそうなほどに早鐘を打っていた。

「あの、どうかしましたか……?」
「何か用があったわけではないのだけれど、忍から千佳が体調を崩してレッスンを休んだと聞いてね」
「……すみません」
「謝ることではないよ。それで体調はどう?」

そっと額に手をあてがわれて、どぎまぎする。
まさか、上総さんも私が腹部を殴打されたから体調を崩しているだなんて思わなかったのだろう。

「熱は……ないみたいだね。よかった」

隠し事をしている後ろめたさに視線が泳ぐ。

「母さんもそんなに体が丈夫な方ではなかったから、千佳もそうなのかもしれないね」
「……佐保さん、ですか?」
「ああ、そうだよ。いつまでも子供なようなところのある人だったから、雪の日にはしゃいでは風邪を引いたりね」
「楽しそうな、方ですね」

笑いながら話す上総さんの言葉がすべて過去形なことには、気づいていた。
それはどうしてなのか、佐保さんは今どうしているのか、ずっと聞けずにいる。
表情にその戸惑いが出ていたのかもしれない。
ぽん、と頭の上に手を置かれて目を上げた。

「……千佳が帰ってきたことを、教えてあげたかった。落ち着いたら、一緒に墓参りに行こう。きっと母さんも喜ぶから」

慈しむような眼差しに、何も言い返せなかった。
しっかりと休むようにと言い残すと、上総さんは静かに廊下を歩いていってしまった。
閉めたドアに背を預け、小さく吐息をつく。

「お墓参り……」

どこかでわかっていたような気がする。
佐保さんはもう、この世にはいないということを。
けれど、確信するだけの材料がなかった。
本当の母親なのだと実感しているわけでもないのに、亡くなっていると聞いた途端に哀しいような気がする。
そんな感情を抱く自分が嫌だった。
本当の母親は育ててくれたお母さんだけだと言っていたのは誰だったのか。
自分で自分の気持ちを持て余し、その場にしゃがみ込む。

「……どうして亡くなったんだろう」

体があまり強くなかったと言っていたから、病気だろうか。
もう会えないのだという思いがじわじわと這い上がってきて、暗い影を胸に落とす。
その気持ちを追いやるように、無理やり頭を働かせた。

──佐保さんはすでに亡くなっている。
ということはこれでもう、私が九条家の娘で三歳の頃に誘拐されたのだという話を証明しているのは九条さんの言葉だけになってしまった。
会えばはっきりするのだと期待していただけに、元々不安定だった足元がまたぐらぐらと揺れる。

「犯人に聞くわけにはいかないし……」

犯人、と呟いたところで、今日私をさらおうとした人たちのことが頭を過ぎった。
あの人たちは、過去に私を誘拐した人とはなんの関係もないのだろうか。
十何年も前の話と結びつけようと思うのは無理があるかもしれない。
けれど、そう何度も誘拐されるということがすでに稀なことだ。

「昔のことがわかれば、今のこともわかるのかな」

残念ながら、私には三歳より前の記憶がない。
小さい頃のことを覚えていないのは普通だとあまり気にしていなかったけれど、失くしたその記憶にこそ今の問題を解決してくれる鍵があるのではないか。
単純な思いつきではあったけれど、案外的を得ているかもしれない。
一人で頷いていると、ノック一回の直後にドアが押された。
けれど、私が座り込んでいるせいでドアが開かず、廊下から怪訝な声が漏れ聞こえる。

「まさか、いないのか?」

声で克己くんだとわかり、もう日が沈んだのだとわかる。
すぐにドアの前からどくと、隙間から克己くんが顔を覗かせた。

「……そんなところで何してるんだ?」
「ちょっと、考え事を……」
「あ、そ」

深く追求されないことが有り難かった。
今、何かを話そうとすると余計なことまで話してしまいそうだったから。

「日が暮れたから行くぞ」
「あ、うん。けど、黙って出たりして本当に平気かな?」
「……どうせ忍にはバレてる」
「え!」
「家の外で起こったことは大丈夫だろうけど、この屋敷内で忍に何か隠し事をするのはほぼ不可能なんだよ」

確かに、執事長を務める綾崎さんに屋敷内で知らないことなどないような印象はある。

「必要だと判断すれば上総辺りには報告するだろうけど、俺が夜に家を出るのなんて今に始まったことじゃないから。それに、今日あんたが襲われたことはまだバレてないからな」
「……そっか」
「わかったなら静かについて来い」

どこに、とまた聞くと、今度は「教会」と短く返事が返って来た。

***

夜の教会に一体何をしに行くのだろう。
その疑問は、教会の裏口から中に入るとすぐに解消された。

「ここ、教会だよね……?」
「表見ただろ」
「見たけど、でもこれじゃまるで」

そう広いとは言えない教会の一室は、多くの人で賑わっていた。
それも、祈りを捧げに来た人たちではなく、怪我を負った人たちで。
その怪我人たちの相手をしているのはまだ子供と言った年齢の子で、さらにその子たちのお手伝いをもっと小さな子供がしている。
その子供のひとりが克己くんに気づいてパッと笑顔を浮かべた。

「克己が来た!」

その声を合図に、小さな子どもたちがわっと克己くんを取り囲む。

「克己、最近なんで来なかったんだよ!」
「わーい、克己ちゃんだ! 青子ね、克己ちゃんにお話したいことがあるんだよ」
「克己こっち来てってば」
「一度に話すなよ。青子、くっつくと歩きづらい」
「えー」
「なあ、そのお姉ちゃん克己の恋人かー?」

すごい人気ぶりに目を丸くしている私に、子供たちの視線が一斉に集まる。
その圧力に一歩下がりかけた私の腕を克己くんが引き寄せた。

「こいつは……」

なんと紹介したものかと、克己くんの目が一瞬私を見つめすぐに離れる。

「やっぱ恋人なんだろ!」
「……こいつは俺の姉さん」
「克己くん……」

嬉しかった。
説明するのが面倒だったからかもしれない。
それでも、姉だと言葉にしてもらえたことが自分でも驚くほど嬉しい。
今すぐにでも克己くんを抱きしめたい衝動に駆られたけれど、子供たちのいる前ではきっと克己くんが困ってしまうので我慢した。
……二人きりでも嫌な顔はされたかもしれないけれど。

「えー、克己に姉ちゃんなんていたの知らないぞ!」
「話してなかったんだよ」
「ねえねえ、お姉ちゃん。お名前なんて言うの?」
「千佳っていうの。よろしくね」
「千佳ちゃんって呼んでもいい?」
「うん、いいよ」

子供たちはどの子もとても人懐こく、すぐに私を輪に入れてくれた。
けれど気になるのは、どうして夜に子供たちがこんなにたくさん教会にいるのかということ。
それに、怪我や病気をした人たちの存在も気になる。

「それより、ユーリ神父は?」
「庭に薬草取り行ってるー」
「こんな暗くちゃ薬草間違えるんじゃないのか……? まあいいか。おい、こっち」

手を掴まれたまま歩き始めると、子供たちもぞろぞろとついて来た。
それに気づいた克己くんはぴたりと立ち止まり、大仰にため息をつく。

「お前らはまだ手伝いあるだろ」
「克己のケチ!」
「誰がケチだ。それに別に遊びに行くんじゃないんだから、さっさと戻れって」

子供たちは「はーい」とそれぞれ気のない返事をして、また年長の子たちの手伝いへと戻っていった。
それを見送ってから、再び克己くんは庭へと私を連れて行く。
庭は裏口から細い小道を入った場所にあった。
大きな木が数本と、畑のようにきちんと整えられた花壇がいくつかある可愛らしい庭だ。
今は夜のため、その花壇に何が植えられているのかまでは見えない。
そんな中で、小さな明かりがゆらゆらと揺れていた。

「ユーリ神父」

その明かりに向かって声をかけると、ふわふわ揺れていた動きが止まる。
明かりが近づいて来るのを待たず、克己くんの方が一歩近寄った。

「ああ、克己さんいらしてたんですか。こんばんは」
「明かり、持ちます」
「ありがとうございます」

克己くんが手元を照らすように明かりを持ち直すと、屈んだ神父様の横顔が照らし出される。
「あ」と思わず漏れた声に、神父様が私を振り返った。

「……あなたは……」

私以上に、神父様が驚いたように瞳を大きくする。
今は影だけになった教会を振り仰ぎ、その形に目を凝らしてからようやく気づいた。
ここは、私が黒いスーツの男性たちに追われて逃げ込んだあの教会だ。
来た道筋も違っていたし、空が暗くて教会の外観からはわからなかった。
裏口から入ったせいもあったかもしれない。
けれど、聖母のように穏やかな神父様の顔を忘れはしない。

「その節は大変お世話になりました! その後ご挨拶にも行かず、申し訳ございません」
「あ、ああ……やはりあの時の。どうか頭を上げてください」

勢いよく下げた頭を上げると、少し寂しげな顔が私を見下ろしていた。
どうしてそんな顔をしているのだろうと思っているうちに、克己くんが口を開く。

「薬草を採り終わったら、ちょっとこいつのこと診てやってもらえませんか」
「え?」
「腹、怪我してるのもう忘れたのか」
「あ、でも体を曲げると痛いくらいだし、それに神父様に……?」

お医者様ならばまだわかるけれどと呑み込んだ言葉に、ああ、と克己くんが頷く。

「さっき見ただろ。ユーリ神父は医療の心得があるんだ。だから、医者に通えないような金のない怪我人が集まってくる」
「でもどうして夜に?」
「それは……」
「それは、私から説明しましょう。克己さん、この薬草をあの子たちのところへ届けておいてくれますか?」
「……わかりました」

小さな籠を手に克己くんが教会へと姿を消すと、立ち話もなんだからと庭にあった小さなベンチをすすめられた。
並んで座るのかと思いきや、私を座らせると神父様は少し離れた位置に立ったまま話し始めた。

「……私は医療の心得があると言っても、この国で認められた資格を持っているわけではないのです。ですから、表だっての治療はできません」
「それで夜に。もしかして、無償で……?」
「お金をいただくような腕ではありませんから」

神父様はそう言うけれど、おそらくそれは謙遜だろう。
確かな腕がなければ、たとえ無償だろうとあんなにも多くの人が頼ってきたりしないはずだ。

「それに、私よりもあの子たちががんばってくれているのですよ」

ふっと神父様の目が優しく細められる。
その視線は裏口へと続く道へと向けられていた。

「あの子たちは……」
「孤児です」

半ば予想してはいたものの、はっきりと言葉にされると胸が痛む。

「みんな、この教会で育ててるんですか?」
「育てている、というと語弊があるかもしれません。この教会の先代が持っている古い下宿で皆、生活しているのですよ。ここへはお手伝いで通ってくれています」

けれど、生活面の援助はおそらくこの教会がしているのだろう。
それは立派な育てていると言っていいと思ったけれど、口にはしなかった。

「本当はあの子たちにはもう少し早寝になってほしいのですけどね」

困ったような笑みで言う神父様の声は優しい。
だからかもしれない。
私は気がつくと自分の抱えている悩みを口にしてしまっていた。

「……神父様にかくまっていただいた後、九条さんのお屋敷に行きました。そこで、私は本当は九条伯爵家の娘だと言われたんです」

神父様は相づちを打つように小さく頷いてくれた。
言葉を挟まれなかったおかげで、するりとまた次の言葉が口を突いて出る。

「信じられませんでした。……いいえ、今も信じ切れてはいません。だって、今までの家族が本当の家族じゃなかっただなんて言われて、すぐに受け入れられるはずないじゃないですか。それも、誘拐された伯爵家の娘だなんて……」
「無理もありません」
「それに、血の繋がった母はすでに亡くなっているみたいなんです。これじゃあ、確かめようもない……。はっきりしたら、答えが出せると思っていたのに」
「何か、答えを出さなければいけないことなのですか?」
「え……?」
「誰かに、答えを見つけるようにと?」
「いえ、それは……でも、誰が本当の家族かわからないと、今後どうしたらいいか……」

なるほど、と神父様は一つ頷いてから首を傾げた。
その仕草があまりにも自然だったので、私もつられたように首を傾げてしまう。

「本当の家族とは、なんでしょうね」
「っ……」

ずっと、心に引っかかっていた疑問を見透かされたような気がして、俯いた。
そんな私を励ますように、温かい手が肩に乗せられる。

「家族に、本当も嘘もないと私は思いますよ」
「でも、それだと困るんです……」
「どうしてですか?」
「だって……」

どうして、と問われて理由を言おうとしたけれど、どうして困るのだろうと考えると眉根が寄った。
九条家の娘なのだとはっきりわからなければ、私は何に困るのだろう。

「……九条さんはあなたを一度失ってしまった娘さんだと思っている。そうですね?」
「はい」
「あなたは、あなたを育ててくれたお母様を母親だと思っている」
「はい」
「家族は、どちらか一方でなければいけませんか?」
「それはどういう……?」
「九条家も、あなたが育ってきた家も、どちらも大切な家族。それで良いと私は思いますよ。家族がいくつあっても誰にも怒られませんから。もしそれで怒るような人がいたら、私こそ怒られなければいけません。ここに来てくれる子たちは皆、私の家族なのですから」

片目をパチン、と閉じられる。
その表情があまりに愛嬌に満ちていたので、思わず吹き出してしまった。

「そうですね……。難しく考えすぎていたのかもしれません」

九条家の血を本当に引いているのか確かめなければいけない。
どこかでそう考えていた。
けれど、誰にもそんなことを求められてはいない。
ましてや、私は九条家を継ぐといった立場にあるわけでもない。
もし、九条さんの勘違いでやっぱり九条家の娘じゃなかったというのなら、その時はまたその時に考えればいいだけのことだ。
家族は、たくさんいて困るようなものじゃない。

「ありがとうございます、神父様。なんだか胸がすっきりしました」
「そうですか」

気がつけば肩に置かれていた手は離れていて、じんわりと温かみだけが残っていた。

「みんなが、この教会を頼ってくる理由がわかった気がします。克己くんもよく来てるんですよね?」

子供たちの懐きぶりから言って、ここ最近というようには見えない。
おそらくかなり昔から通っているのだろう。

「ええ、克己さんには何かとお世話になっています。子供たちにも好かれていますし、オルガンもとても上手で」

教会にあったオルガンを思い出し、自然と顔がほころぶ。
きっと、克己くんはあのオルガンを使って子供たちを笑顔にしてあげているのだろう。

「……とても良い子なのに、どうして神は彼に辛い道を歩ませることになさったのか」

ひとり言のようにぽつりと呟かれたことが気になって顔を向けると、

「克己さんが養子であることはご存知ですか?」

そっと逆に問いかけられた。
黙って頷くと、何故か神父様は嬉しそうに微笑む。

「そうですか。あなたには話せたのですね。それはよかった」
「あの……もしかして、克己くんも孤児だったんですか?」
「……いいえ。彼は事故で両親を亡くされて、ご友人だった九条さんのお宅に引き取られることになったと聞いています」

六歳の頃に九条家に入ったと克己くんが言っていたことを思い出した。
おそらく、事故が起きたのもその年だったのだろう。
黙り込んでしまった私をどう思ったのか、場の空気を取りなすように神父様が明るい声を出す。

「偉そうに話していますが、私も先代から話を聞いただけなんです。この教会で働くようになってまだ二年と少ししか経っていませんから」

思ったよりもずっと短い期間に驚いた。
てっきり、私が知らないだけでずっとこの教会の神父様はユーリ神父なのだとばかり思っていた。
それだけ、神父様はこの教会に馴染んで見える。

「ああ、この教会自体は昔からこの街を見守ってきた長い歴史を持っていますよ。先代たちが築き上げてきた場所に、私も加えてもらったというわけです」
「じゃあ、夜にこうやって怪我をした方々が集まるのも昔からですか?」
「いえ……それは、私の代になってからです。少し、包帯を巻くのが得意なだけなのですが、随分と喜んでくださった方がお友達に話して、といった感じで今の状態に」
「なんとなく、状況が想像できます」

小さく笑うと、神父様も穏やかに目を細めた。

「そろそろ、中に入りましょうか。克己さんも心配しているでしょうし、何よりあなたの治療をしなくてはいけないのでしたね。すっかり話し込んでしまいました」
「あ、いえ! 私こそぺらぺらとすみません。それに私の怪我は本当に大したことがないので大丈夫です」
「腕の保証はできませんが、せっかくいらしたのですから診せてください。気休め程度にはなりますから」
「気休めだなんてそんな! ……でもそれじゃあ、お願いします」
「ええ、もちろん。腹部の怪我と克己さんが言っていましたが、どこかに打ってしまったのですか?」
「打ったというか打たれたというか……」
「……え?」

神父様にならば話しても問題ないだろうと思い、家の前でまたあの黒いスーツの男性たちに襲われたことを簡単に説明する。
すると、神父様は一瞬にして表情を凍らせた。
思わず手を差し伸べてしまうほどにその顔色は白い。

「それは……あなたをまたさらおうとした、ということですか?」
「え、ええ。そうだと思います」
「どうしてそんなことがあったというのに、夜に出歩いたりなんて……」
「っ……神父様?」

強く両肩を掴まれ、目を瞠る。
間近で見る淡い色の瞳は、哀しみを通り越し絶望に近い色を湛えていた。
見ている私の方が動揺してしまうような、そんな色だ。

「いいですか。治療を終えたらすぐに九条家にお帰りなさい。克己さんと二人でです。それから、ここへはもう来てはいけません。いいですね」
「でも……」
「あなたを襲った組織の目的はわかりません。けれど、一度失敗してなお引かないということは明確な意図を持っているとしか思えません。私から鳴海さんにも何か手を打ってもらえないか相談しておきます。だから、解決するまではどうか屋敷から出ないと約束してください」

淡々とした口調は静かだった。
けれどそれが余計に鬼気迫った雰囲気を醸し出しており、何度も頷く。
私が頷いたのを確認すると、神父様は大きく安堵の息を漏らして肩から手を離してくれた。

「……驚かすようなことを言ってしまいましたね。けれど、用心するに越したことはありません」
「……はい」
「さあ、中へ。怪我の治療をしましょう」

向けられた優しい笑みはしかし、わずかに強ばっていた。
たぶん、神父様は何かを隠している。
そして……
この先も隠し通したいと、そう願っているような気がした。

つづく


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