第九話 明後日の話
「おはよう、千佳。よく眠れたかい?」
「おはようございます、上総さん。少し寝坊してしまいました」
「どうせ夜遅くまで本でも読んでたんだろ」
「え、くまとかできてる?」
「あんたの部屋の明かり、ついてると俺の部屋からよく見える」
「ということは、克己も夜遅くまで起きていたんだね?」
「それは……っ」
何気ない朝の風景。
朝食を共にしようと食堂の椅子に腰を下ろす。もちろん、その椅子は綾崎さんが私が座るのに合わせて引いてくれた。
テーブルの上には程よい焦げ目をつけたお魚と炊きたてのお米、そして具沢山のお味噌汁。その他にも何品かのおかずが並んでいて、食欲をそそる香りをあげている。
どれも、昨日と何も変わりのないものなのだけれど……。
「これはこれは朝から豪華ですねぇ」
「ちょっと鳴海さん! まだ挨拶してないのに箸つけないでくださいよ」
「えー? あったかいうちに食べた方が美味しいでしょうに」
「そういうのは鳴海さんが作る側になった時にだけ許される発言です」
鳴海さんと高橋さん。
万もめ事承りますという看板を掲げた探偵二人だけが、今日は昨日とは違うのだと訴えていた。
九条家で開かれるパーティーへの開催中止を訴える手紙。
それが届けられた日、つまりは昨日から、鳴海さんたちは九条家に泊まり込みで警備をすることになった。
さすがに着の身着のままというわけにはいかず一度支度をしに戻ったけれど、夜には九条家の空き部屋の一つにその拠点を構えていた。
「全員そろいましたし、いただきましょう。鳴海さんの言う通り、あたたかいうちの方がもっと美味しいですから」
「全員、ということはご当主は?」
「……今朝はまだ仕事で戻っていません」
上総さんが静かに目を伏せたことに気づいたのは、きっと私だけではなかったと思う。克己くんは何も言わずに手を合わせてから食事を始め、私もそれにならった。
おそらく、九条さんは来月に控えた私のお披露目パーティーの対応に追われているのだろう。中止も、延期もできなかったということは、彼らを招き入れることを承諾したに等しいのだから。
けれど、本当に彼ら──組織──とは誰なのだろうか。
「今回は無理なお願いをご快諾いただきまして、本当にありがとうございます」
「いえいえ、これも仕事のうちですから。それにこんなに美味しい食事を毎日いただけるとなると給金を値切られても仕方ないくらいです」
「……まさか食事狙いじゃないですよね?」
「洋くんは俺をなんだと思ってるの? あのね、一応これでも君の上司ですよ、俺」
「その不条理を今、神に訴えているところです」
食事の後、和やかな空気が食堂を満たしていた。おのおのの手には綾崎さんが用意してくれたお茶があり、この場面だけ見ればお客様を招いての食事でもしたような雰囲気ですらある。
けれど、そんな空気も鳴海さんの低めた声でぴしりと引き締まった。
「招待客の名簿はいただけますか」
「もちろんです。……忍」
「こちらに」
あらかじめ予測していたかのように、綾崎さんがすぐに書類を鳴海さんの手元へと広げた。
「……こんなに」
ぽつりと呟かれた高橋さんの言葉で、招待客の多さを知る。
それと言うのも、私の座っている席からは鳴海さんが遠く、書類に小さい文字が並んでいる程度しか見えていなかった。
部屋に戻っていなさいと言われないだけいいのかもしれないけれど、当事者であるはずなのに蚊帳の外でいることはかえって辛かった。
それとも、自分から席を外すべきなのだろうか。
九条家の娘として求められているのはどちらだろうと悩み、答えを見つけられないままただお茶を口に運ぶ。
「忍、写しはないのか」
「ございますが……」
克己くんの席は私と上総さんの間。そして書類は今、上総さんの正面に座っている鳴海さんの手元に置かれている。
つまり、克己くんは少し身を乗り出せば見える距離にいるのに、話し合いが進む前に声を上げた。
綾崎さんは視線だけを上総さんの方へと向け、上総さんが頷くと書類の写しを克己くんと私の間に一部、置いてくれる。
驚いて顔を後ろに向けると、綾崎さんはそれには気づかない素振りで一歩後ろへと引いた。
「……自分のことなんだから、ちゃんと主張しろよ」
横からぼそりと呟かれた言葉に、「ごめんね、ありがとう」と小さく返す。
口を挟んでもよかったんだ。
そっと上総さんの様子を伺うと、同席することを了承するように小さく頷いてくれた。自分から決めたことならば、とそういうことなのだろう。
「この招待客の中で、今回のことを知っている方は?」
「いない、はずです。少なくとも、私や父から内密に話を通してある人物はいません」
「つまり、明け透けに助けを求められる相手もいないわけですか」
「……お恥ずかしながら」
「いやいや、当然と言えば当然でしょう。となると、何人か信頼できる人物を呼んでおいた方がいいでしょうね」
「けど鳴海さん。もう招待状は配っちゃった後なんでしょう? 今から遅れて招待するって変じゃないですか?」
「まぁ華族同士なら、そうだろうねぇ」
「え? だって千佳さんのお披露目なら華族に……」
高橋さんが言い終えるより先に、上総さんが「ああ」と口元に笑みを浮かべた。
「そうですね。この家に長年勤めてくれている者以外だと二人しか私には心当たりがありませんが、すぐに協力を仰いでおくことにします」
「あまり多いと本当の招待客にも怪しまれるでしょうからね。そこんとこ、うまくお願いしますよ」
「おそらく、大丈夫だと思います。忍、任せてもいいかい?」
「かしこまりました。至急、夏目様と音羽様にご連絡いたします」
「え、あの、怜ニの家にですか?」
思いがけない名前に、招待客の一覧を追っていた目を跳ね上げる。
この街で音羽という名を名乗っているのは、私の知っている限りでは怜ニの家だけだ。
「……千佳には黙っていたのだけれどね、退院後、怜ニ君からは何か力になれることがあれば言ってほしいと強く言われていたんだ」
「そう、だったんですか。でも……」
怜ニの気持ちは嬉しい。久しぶりに会えるというのなら会いたい。
けれど、協力を仰ぐということはまた怜ニを危険な目に遭わせる可能性があるということだ。事件が解決するまでは、と誓っていた気持ちがぐらぐらと揺れるのを感じた。
「音羽屋の跡取り息子さんはお嬢さんの幼なじみなんでしたっけ」
「はい……」
「そして一緒にいるところを襲われ、その後、彼は一人でいる時にも襲撃に遭い怪我を負った。確か資料にそうありましたが」
「そうです。怜ニは私と関わったせいで怪我をしてしまって……舞台もいくつかお休みしたはずです。だからこれ以上は……っ」
やはり、怜ニを巻き込んではいけない。上総さんなら話せばわかってくれるだろうと言い募ろうとした私を、鳴海さんは手を軽く上げて止めた。
「お嬢さんの心配もわかりますよ。けど、頼ってあげるのもいい女の条件なんじゃないですかね?」
「いい女の……?」
鳴海さんの言っている意味がよくわからず、首を傾げる。
「まぁ、ようは男ってのは頼られた方が嬉しいってこと。それに三度目の正直ともなれば、彼も襲われるような下手は打たないでしょ」
「鳴海さん、それ失礼ですよ」
「や~、男の子ならそこはがんばんなきゃなところだしねぇ」
「まぁ鳴海さんの意見はおいといても、音羽さんにおとりになってもらおうとかそういう話でもないなら、味方は多い方がいいと思いますよ」
「千佳の気が進まないというのなら考え直すけれど、高橋さんの言う通り今は内情を話せる人が限られているからね。それに、彼はとても人目を引く。考えたくはないけれど、何かあった時にきっと大きな助けになると思うんだ」
どうだい、と視線を向けられ、少し悩んだけれど結局頷いた。
人に頼ることしかできない自分の不甲斐なさに奥歯を食いしばって。
「それじゃあ、他の招待客について簡単に説明してもらえますか?」
怜ニの件が決まると、話はパーティーの招待客、当日の予定といった内容へ進んでいった。
私も話し合いに参加しようかと思ったけれど、上総さんからやんわりと今日の授業が始まってしまうよと退席を促されてしまった。
話し合いから外されたのは私だけではなく、克己くんも同じだった。克己くんの場合はもっと直接的な言い方だったけれど。
一体、食堂ではなんの相談がされるのだろう。
「ごめんね、克己くんまで私のせいで追い出されちゃって」
克己くんは上総さんから「千佳のそばにいてやってほしい」と頼まれる形で追い出されていた。
「別にあんたのせいじゃない。それに、今は警備箇所の相談をしてるんだろうし、どうせ後でわかる」
「そうなの?」
「数少ない味方に警備状況かくしておいても意味ないだろ」
──味方。
その言葉が嬉しくて思わず口元を緩めると、克己くんはバツが悪そうに視線を逸らした。
「ありがとうね、克己くん」
「……あんたさ、もう少し頼れば? あの探偵じゃないけど、一人でなんとかしようとされるより、頼られた方が気も楽」
「でも、迷惑が……」
「あのな、それを言ったら俺だって……あんたに迷惑かけてる」
「克己くんが? そんなことないと思うけど」
「ある。……上総とうまく話せなかった時とか、間にいてくれたりしただろ」
「あれは……迷惑なんかじゃないよ?」
「だから、それと一緒」
「え?」
「俺も、迷惑だなんて思ったことない。それに……」
克己くんは私の目を真っ直ぐに見つめると、柔らかく目を細めた。その笑い方は、上総さんによく似ている。たとえ血がつながっていなくても、二人が兄弟だという証を見たような気がしてつられたように私も笑みを浮かべた。
「誰だって人に迷惑をかけて生きてる。誰にも迷惑をかけない生き方なんてできないんだ。……って、ユーリ神父の受け売りだけど」
とにかく、と克己くんは照れ隠しのように笑みを引っ込めると、思ったよりも大きなその手を私の頭の上にのせる。
「姉さんはもう少し人に頼ることを覚えろよ」
「!」
くしゃくしゃっと頭を撫でられて、泣きそうになった顔を俯けて誤摩化した。
きっと克己くんは今、どれくらい私に勇気をくれたかわかっていないだろう。それこそ、怖いものなんて何もないと思えるほど、私も心はあたたかいもので満ちていた。
「克己の言う通りだよ」
「え?」
「っ!」
ふいに聞こえた声に振り返ると、いつのまにか上総さんがすぐ近くに立っていた。話し合いはもう終わったのだろうか。
克己くんは慌てて手を引っ込めたけれど、今度は上総さんのあたたかい手が私と、克己くんの髪の毛をくしゃくしゃとかき乱した。
「っ……上総、なんで俺まで!」
「え? だって二人ともいい子だから」
「そういうのやめろ!」
じたばたと抵抗する克己くんだったけれど、上総さんはにこにこと笑ったまま私たちの頭をひとしきり撫でてから手を離した。
抵抗に息を荒げている克己くんに対して上総さんは涼しい顔のままだ。見た目よりも、力持ちなのかもしれない。それとも、これがお兄ちゃんの威厳というものなのだろうか。
「欲を言えば、克己ももう少し僕に頼ってくれるといいのだけど」
「今はそういう話じゃないだろ」
「千佳もそう思うでしょう?」
「えっと……そうかも?」
「流されるな。つか、話し合いはどうしたんだよ」
「ああ、それなら……」
足音が聞こえ、上総さんが後ろを振り返る。
「あ、すいません。邪魔する気はなかったんですけど」
「ああ、いえ。大丈夫ですよ」
「高橋さんも外の空気を吸いに?」
「まぁ、そんなところです」
鳴海さんの姿は見えないということは、話し合いは終わったのではなく休憩に入っているらしい。
「皆さん、仲が良いんですね」
「ふふ、そうですね。兄馬鹿だとは思いますが、うちの弟妹はどこに出しても自慢の子たちですから」
「おい、上総!」
「あはは、兄弟仲が良くて羨ましいです」
「高橋さんもご兄弟がいらっしゃるんですか?」
「っ……おれは……」
何気ない世間話の気だった。
それだけに、一瞬、言葉を詰まらせた高橋さんの様子が引っかかってしまう。
けれど、気がついた時には明るい笑みに戻っていた。気のせい、だったのだろうか。
「姉が一人、います。口うるさいだけの姉ですけど」
「上は下の子が心配で仕方ないものですからね」
「上総さんほどできた兄なら自慢もしたんですけど。っと、おれはそろそろ戻りますね。放っておくと鳴海さんが何しでかすかわからないんで」
そそくさと食堂に引き返して行く高橋さんの背中に、「あの探偵はのら犬かなんかなのか?」と克己くんがぼそりと呟いた。
***
鳴海さんと高橋さんが九条家で生活するようになって数日が経ち、食事の席の人数が増えたことにも大分慣れてきた。
克己くんは相変わらず鳴海さんと顔を合わせると一度はむっとした顔をしていたけれど、口論にならないだけ距離が縮まった気もする。
私はと言えば、パーティーが中止にならない以上、その日に向けてまだまだすることはあるわけで……。
「さて、昨日お出しした課題は滞りなくお済みですね?」
「……はい」
「それでは、少し確認させていただきましょうか」
自習室に、カツカツと硬質な足音が響く。
綾崎さんは机の上、私の前に本棚から引き抜いた分厚い本を広げた。そこに載っているのは華族たちの写真。
昨日出された課題というのは、招待客の顔と名前を一致させておくようにというものだった。
九条家の歴史を学んだ時に懇意にしている人々についてはすでに覚えていたけれど、少しでも関係のある……という範囲まで広げられると覚えるのも非常に苦労した。
「それでは、この方はどたなですか?」
「ああ、その方は道明寺家のご当主、道明寺正宗さまです」
「さすがに覚えてらっしゃいましたか」
「はい、お髭が特徴的ですから」
「ですが……」
「大丈夫です。お会いした時にお髭の話題には触れません」
「結構です」
「それではこちらの方はいかがですか?」
綾崎さんの手が差していたのは、西洋のお人形のような大きな目が愛らしい女性だった。
「どうされましたか?」
「少し、考えさせてください」
覚えていないわけではない。問題は、この女性がどちらか、ということだった。
確か……と記憶を掘り起こしておそるおそる口を開く。
「……中御門家のご息女、あやめさんです」
ほう、と綾崎さんが目を細めた。どうやら正解だったらしい。
「よくあやめ様だとおわかりになりましたね」
綾崎さんがこう言うのにはきちんと理由がある。それは、中御門家のご息女は双子だからだ。
二人並んで写っている写真を見ても、目を凝らさなければ見分けがつかないくらいよく似ている。
「あやめさんの方が、ほんの気持ち目尻が上がってるんです。ぼたんさんの方がおっとりしているような印象があると言いますか……」
「写真だけでおわかりになるとは、素晴らしいですね」
その後も確認は続き、若い女性はほぼ全員覚えられていたけれど、男性ははっきりとした特徴のある人以外は半分程度しか覚えられていないことが判明した。
「……すみません」
「まだ日はありますので、しっかりと覚えていきましょう。それと、女性を服装で覚えてらっしゃる節がありますので、明日は違うお写真で確認いたします」
「う……」
「当日もこちらの写真の中と同じお召し物だとはお思いではないですね?」
「……がんばります」
私がきちんとしていないと、恥をかくのは九条さんや上総さん、克己くんといった九条家の人たちだ。一人だけの責任ではないのだからと気を引き締め直した。
「最後に、この方はいかがですか?」
「あ……その方は覚えています。鷹司家のご長男、鷹司晴臣さまです」
一代で莫大な資産を気づいて華族と肩を並べている。それが、鷹司家だった。
古くから続く華族の家柄が並ぶ中で成金と言われる家はやはり目立ち、気がつくと覚えてしまっていた。
「現在、鷹司家にはご当主がいらっしゃいません。当日は当主代理でらっしゃる勝久様……晴臣様の叔父に当たる方と、晴臣様のお二方がご出席予定ですので、間違ってもご当主、などとおっしゃらないようお気をつけください」
「わかりました」
「今後、九条家とも仕事上のお付き合いが増えると思われますので、愛想もできるだけよくお願いいたします」
「……わかりました」
愛想笑いの見本のような笑顔を向けられ、頬が引きつるのを感じながら頷く。それを見て、綾崎さんの眼鏡の奥にある瞳がわずかに細められた。
「お嬢様、当日は一日笑顔でいていただく必要がございます」
「…………」
嫌な予感がして黙り込むと、綾崎さんは私の手元に小さな手鏡を置き、やはり完璧な笑顔で言った。
「練習いたしましょう」
「…………」
「試しに、今日一日笑顔を絶やさないようお心がけください。そちらの手鏡で時折ご確認いただくとよろしいでしょう」
「……今から、でしょうか」
「何か問題でも?」
唇を無理矢理引き上げ、私は笑顔で首を横に振った。
***
「……顔が筋肉痛になりそう」
一日笑顔で。
その課題をこなすのは想像をはるかにこえて大変だった。
日が暮れ、ようやくすべての授業を終えた時には、笑顔じゃない顔に戻す方が大変だった。
引くつく頬を押さえながら廊下の角を曲がろうとした時、
「わっ!」
「っと……」
同じように反対側から角を曲がろうとしていた人に軽くぶつかってしまった。慌てて後ろに下がろうとした私をその人は胸に抱きとめ、苦笑を漏らす。
「そんな慌てて下がると転ぶでしょ?」
「……すみません、鳴海さん」
「いーえ」
そっと腕が離れていった時、ふわりと花の香りがした。外から戻ったところなのだろうかと首を傾げる。
「疲れてるみたいだけど何かあった?」
「いえ、疲れているわけでは……」
「うん? 歯でも痛い?」
引きつりそうになる頬を押さえた手を、苦笑しながら下ろす。
「鳴海さんはお仕事帰りですか?」
「まぁ、そんなとこですかね。ところで、千佳ちゃんはここのところ外には出た?」
「え? いえ、お屋敷の外には出ないようにと……」
「ということは、教会とかにも行ってない?」
「……はい」
「本当に?」
口元に笑みを浮かべてはいるものの、鳴海さんの目は笑っていなかった。疑うようなその視線に、嘘をついているわけでもないのにたじろぎそうになる。
思わず目を逸らしそうになり、強いて視線を強くした。
「ええ。あの、それがどうかしましたか?」
「んー、いや……確認しただけですよ?」
ふ、と空気が緩んだのを感じる。そのことに詰めていた息を細く吐き出した。
「それで、招待客の名前は覚えられそう?」
「当日まではなんとか……」
「あれだけいるとねぇ」
さらりと話題を変えられ、違和感だけが残る。
教会に行っていないか、とどうして鳴海さんは聞いたのだろう。そういえば、神父さまと私の関係を気にしてもいた。それと、何か関係があるのだろうか。
鳴海さんと神父さまは、何かを知っている。おそらく、同じことを。
ただそれは私が感じた違和感でそう思っているだけで、確信できるようなことではない。私の思い過ごしという可能性だってある。それを疑うように問いただすのは失礼な気がしていた。だから聞けなかった。
でも、脅迫の手紙まで送りつけられた今、失礼も何もないだろう。ちょうど二人きりということもあり、聞くなら今しかないと口を開いた。
「あの、鳴海さん」
「うん?」
「鳴海さんは私を──」
私を追っている人たちを知ってるんじゃありませんか?
そう聞こうとした言葉はしかし、鳴海さん、と呼ぶ高橋さんの声で遮られた。
「まだ仕事終わってないんですから、早く行きますよ」
「洋くん、いつからいたの?」
「今ですよ。だから声かけたんでしょう? すみません、千佳さん。おれたちまだ仕事が残ってるので」
「あ、いえ。すみません、私も立ち話でお引き止めしてしまって……」
高橋さんは軽く首を横に振ると、鳴海さんの腕を掴んで歩き出す。
「そんな急がなくても平気でしょうに」
「いいから、行きますよ」
「はいはい。洋くんはせっかちだねぇ」
「……鳴海さんが色々緩いんですよ」
軽く手を挙げてくれた鳴海さんに頭を下げている間に、二人の姿は見えなくなっていた。
結局聞けずじまいだったことももやもやしたけれど、高橋さんの顔が目に焼き付いて離れない。
高橋さんは、私の目を決して見ようとはしなかった。
普段、人の良さそうな笑顔か、困ったような顔しか見たことがないからだろうか。あの、ぎこちない笑顔は何を思ってのことだったのだろうと思いながら、自室へと戻った。
***
数日後──。
ようやく来賓客の顔と名前が一致し、綾崎さんからお墨付きをもらえた私は上機嫌で一階の廊下を歩いていた。
ふと窓の外を見ると、ちょうど高橋さんが庭を横切ろうとしているところだった。
このところ、鳴海さんとはよく顔を合わせるものの、高橋さんは食事の時も食堂に来ていなかったので、随分と久しぶりに顔を見たことになる。
挨拶だけでもと窓を開けた時、高橋さんが私からは見えない誰かに向かって口を開いた。
「なんで……か? ……るでしょう?」
風があるからか、高橋さんの声はところどころしか聞こえない。それに相手の声は低いのか、まるで一人で話しているかのようだった。
けれど、高橋さんが遠慮なく話す相手と言えば、それは鳴海さんくらいのものだ。
これも立ち聞きに入ってしまうかもとようやく思い至り、慌てて窓を閉めようとした時だった。
「あなたはもう、忘れたんですか」
狙ったかのようにぴたりと風が止み、高橋さんの声がはっきりと聞こえた。その声はとても辛そうで、聞いてはいけなかったのだと即座に感じた。
窓を閉めようとしていたことも忘れ、私は俯いたままの高橋さんを凝視する。そこに、明るい笑顔があってほしいと無意識に願い、けれど……笑顔などありはしなかった。
鳴海さんは、なんて応えたのだろう。
その声も、姿も見えないことがもどかしい。
しばらくすると、高橋さんは俯いたまま走って行ってしまった。
声をかけようと思っていたのに、こちら側に来なくてよかったと思ったことにばつの悪い思いが広がる。
けれど、神様は私のそんなずるを見ていたかのように、代わりの人をこちらへと寄越していた。
「そろそろ外に出たい?」
「えっ」
慌てて後ろを振り返ると、鳴海さんが立っていた。
思わず、今まで見つめていた庭と交互に見比べてしまう。
「なに、幽霊見たみたいな顔して」
眠たそうな瞳が、私が覗き見していた窓の先を見ていたずらに細められる。
「千佳ちゃんのえっちー」
「え、え!?」
「うそうそ。このお屋敷、従業員専用の出入り口あるの、知らない? ぐるっと回らなくても中入れるのよ」
私の疑問を汲み取ったように、鳴海さんは手振りで道順を教えてくれる。とすると、やはり高橋さんが話していたのは鳴海さんということになる。
「解決した?」
「……はい」
「それじゃあ、お勉強がんばって」
「鳴海さん!」
追い抜かすように歩き出した鳴海さんの背に、意識するより先に声をかけていた。
首だけ後ろに向けて、鳴海さんが私を振り返る。やはりその目は昼間の猫のように眠たげで……。
「高橋さんと鳴海さんは……兄弟みたいに仲良し、ですよね」
「……そう見える?」
一瞬、鳴海さんの瞳に影が落ちたような気がした。けれどそれは窓から入る太陽の光が、雲によって遮られたせいだとすぐにわかる。
「洋くんがいるとほんと退屈しなくてねぇ」
「……高橋さんに言ったら怒られますよ」
「はは、確かに。俺は弟だと思って可愛がってるんだけどねぇ。片思いで辛い辛い」
他に用はない? と視線で問われ、何も言い返さずにいるうちに、鳴海さんはひらひらと手を振って廊下を後にした。
「心配しすぎ、だったのかな……」
喧嘩をしているように見えたけれど、どうやら私の早とちりらしい。喧嘩したばかりの相手の話をされたら、誰だって少しは顔に出るものだろうと思うから。
「何を心配していたの?」
「えっ」
また、後ろから急に聞こえた声に肩を跳ね上げる。慌てて振り返ると、そこにいたのは上総さんだった。
「上総さん……今日はお早いですね」
「一度戻っただけなのだけれどね。それで、何か心配事かい?」
「あ、いえ。勘違いだったみたいです」
「そう」
それならよかった、とくせにでもなっているかのように、上総さんの手が私を撫でる。私も、随分と慣れてしまった。
「忍から聞いたよ。来賓の名前をすべて覚えたそうだね」
「はい! 時間がかかってしまいましたけど……」
「とんでもない。僕なんて初めての時は半分も覚えていなかったよ」
おどけたように言われて、小さく笑う。
上総さんが初めてパーティーに出たのは七歳。それを思えば半分でも多すぎるほどだ。
きっと、上総さんは私が知っているということを知らないのだろう。
「当日は僕や克己、忍も近くにいるようにするから、そんなに気負わなくていいからね」
「上総さんも初めては緊張しましたか?」
「そうだね。……うん、すごくしたかな。何もないところで三回は転んだ気がするよ」
小さな男の子が頬を緊張に上気させている姿を想像すると、自分もがんばらないとと勇気が湧いてくる。
「そうだ。克己が初めて出席した時のことも聞いてみるといいかもしれないよ。ああ、でも克己本人はいやがるだろうから、忍にね?」
「綾崎さんから、ですか?」
「そう」
よほどいい思い出なのだろう。上総さんはいたずらっ子のような顔をして笑った。
「じゃあ、今度こっそり聞いてみます」
「うん、それがいい」
上総さんも、鳴海さんと同じ方向に歩いて行く。その背を見送っていてふと、背中に視線を感じた。
また、誰かが後ろにいるのだろうかとパッと振り返ったけれど、廊下には誰もいない。
「さすがに三回目はない、よね」
苦笑して自室に戻ろうとした時、窓の外。庭の木々の間をひるがえる服の裾が見えた。
「……高橋、さん?」
姿が見えたわけじゃない。けれど、洋服の色は高橋さんがいつも着ているものとよく似ていた。
「見間違いかな……」
高橋さんがわざわざ同じ場所に戻ってくる理由が見つからない。
きっと見間違いだろう。そうじゃなくても、何か落としてしまって取りに戻ったとか、そういう些細な事に違いない。
それよりも、と私は今日はもう授業はなかったけれど、自習室へと足を向けた。
もちろん、克己くんの武勇伝を聞くために。
***
何かに集中していると、月日というのは本当に光のように早く過ぎていく。
気がつけば、パーティーは明日へと迫っていた。
前日ともなると知識を詰め込んでも混乱するだけなので、授業は午前中のみ。それもダンスのレッスンだけに絞られた。
いつもなら綾崎さんがパートナー役をしてくれるのだけれど、慣れない人とダンスをしておくべきだということで呼ばれたのが……。
「うまくなったね、千佳」
「……すみません、二回踏みました」
「そうだったかい? 軽いから気がつかなかったよ」
紳士の見本のような微笑を浮かべたまま、上総さんが優雅に私をリードしてくれる。
上総さんと踊るのは初めてではないけれど、綾崎さんとはまた異なるリードに色んな意味で心臓が早鐘を打っていた。
一曲終わると、本当のパーティーのように、上総さんは恭しく私に一礼をしてから下がる。ここで休憩……というほど、綾崎さんは甘くない。
曰く、本番で失敗しないためには慣れることが大切。ということで……。
「……よろしくお願いします」
「はいはい。よろしくお願いされました」
薄い笑みを浮かべ、私の手をホールドしてくれたのは鳴海さん。
綾崎さんが鳴海さんを連れて来たのを見た時には、踊れるんですか、と失礼な質問をしてしまった。
その鳴海さんは今、非常に落ち着いたステップで私をリードしてくれている。探偵たるもの、ダンスもできなければいけないのかもしれない。
「お上手、なんですね」
足を踏まないように注意しながら言うと、
「なんでもお上手な方なんで?」
冗談めかした返答がある。けれどその言葉に嘘はなく、鳴海さんは音楽に身を任せるように危なげなくダンスを続けた。
「そんなに足下見てると、転ぶよ?」
「でも、踏んだら痛いですよ」
「そこで踏まれて痛いって言うのは、男の沽券に関わるから誰も言いやしませんよ」
「そういう問題じゃ……」
「いいから、足下気にせず男にまかせなさいよ」
「っ……」
ぐいっと腰を引き寄せられ、足下を見る隙間もないほど距離を縮められる。それどころか俯くと頭を鳴海さんにぶつけてしまいそうで慌てて顔を上げた。
「そうそう、そのまま姿勢よく」
思ったよりも間近にあった鳴海さんの瞳に、ドキリとする。
そういえば、初めの頃は綾崎さんともこの距離に緊張してしまって動けなくなっていた。
綾崎さんとは何度も踊るうちに慣れたけれど、また違う人と踊ると変に距離が空いて姿勢が悪くなっていたのだとわかる。綾崎さんがそれを指摘しなかったのは、男性役の人に失礼になると判断してのことなんだと今更理解した。
だから、あんなに眉間にシワを寄せていたのか、と。
「くっついてる方が、足踏まないもんでしょ?」
「そ、そうかも、しれません」
「ちゃんと踊れてるから、あとは笑顔な?」
にこっと間近で微笑まれ、笑顔を促されただけだとわかっているのに頬が熱くなった。
「……千佳ちゃん? んー……もしかして俺にほれ──」
「るわけないだろ」
「!」
ターンで距離が離れた瞬間、横から腰を引き寄せられ、鳴海さんと繋いでいた手が離れる。そのまま流れるように手を取られた先には……。
「あんたな……」
呆れたような顔をしながらも、危なげない足取りでダンスを続ける克己くんが。
もちろん、私のリードも完璧で、私はただ目を丸くするしかない。
「もう少し警戒心を持ったらどうなんだ」
「克己くん、すごいね! 途中からダンスに入るなんてできるの?」
「……俺の話聞いてたか?」
「え?」
「っ! 足を踏むな」
ごめんね、と謝るよりも先に、壁際に移動していた鳴海さんから「顔に出すのは紳士失格だねぇ」と野次が飛ぶ。それにあからさまに顔をしかめた克己くんだったけれど、その後は二回、足を踏んでもほんの少し眉根を寄せるだけだった。
その後もパートナーを変えながら何曲か踊り、ようやくレッスンを終えた頃にはすっかり日が暮れていた。
「ありがとうございました」
練習に付き合ってくれた三人に頭を下げる。
上総さんはしきりに私の上達を褒めてくれて、鳴海さんは明日もその調子でと励まし、克己くんはとがった靴はやめておけと助言してくれた。
正直、明日のことを考えると息苦しいくらいだったのに、へとへとになるまで運動をした今は清々しいまでの気分になっている。我ながら簡単にできていると呆れてしまう。
「洋くんも誘ったんだけどねぇ」
「お仕事ですか?」
「いやぁ? ダンスが不得手なんだって」
高橋さんがどんな家の出なのかは知らない。けれど、その発言の端々からは、私と同じ感覚を感じていた。むしろ、華族でもないのにダンスを当たり前のように踊っている鳴海さんの方が不思議だ。
高橋さんの気持ちはとても、わかる。
私も、まさか自分がパーティーに出る立場になるなんて想像すらしていなかった。
それが明日は、自分が主役となるパーティーに出る。それも、私を追っている人たちが来ると宣言されている中。
夢なのだと言われた方が、よほど信じられただろう。
明日は忙しくなるからと、早めに自室に戻るようにと言われ、最後のレッスンは終了した。
***
明日は早い。それに休む暇もないだろう。
それがわかっていても、いや、わかっているからこそ、睡魔はなかなかやってこなかった。
ベッドの上で何度目かの寝返りを打ち、ため息を漏らす。
明日の警備についてはきちんと説明を受けていた。
来賓はもちろん、身内に至るまで細かい検査を受けての来場になるそうだ。それも、来賓には気づかれないように。
さらに出される食事はすべて綾崎さんと綾崎さんが信頼している人のみで用意するらしい。つまり、万が一にも毒などを入れられないようにするということだ。
パーティーの中には警備の人間が入る予定で、何も心配はない。
そう、明日は華やかなパーティーが開かれるだけで、何も起こらない。
「きっと、大丈夫」
願いを込めて呟いた時、控えめなノックの音が聞こえた。
「……千佳、もう寝たかい?」
「……いえ」
ドアの向こう側から聞こえた上総さんの声に、急いで上着を羽織り身体を起こす。
それを待っていたかのように、ゆっくりとドアが開いた。
「起こしてしまったかな」
「いえ、まだ起きてましたから」
「……そう。じゃあ、一緒にお茶でもどうだい」
ドアを大きく開いた上総さんの手には、まだ湯気を立てているお茶があった。優しい香りが部屋にふわりと広がる。
「ありがとうございます」
横に並んで座ると、上総さんのいる側がほんのりとあたたかいような気がした。触れてもいないのだから、気のせいだとは思うけれど。
「千佳」
「……はい」
「明後日の話をしようか」
「え……?」
てっきり、明日の話をするのだとばかり思っていただけに、まじまじと横顔を見つめてしまう。
いい間違いかとも思ったけれど、上総さんは静かに微笑んだままお茶を口に運んでいた。
「明後日は何がしたい?」
「……みんなで、お茶をしたいです」
「じゃあ、そうしよう。花見の時のように庭に出てもいいね。忍はまだ片付けに追われているかもしれないけど、手伝えばきっと早く終わるよ」
「私、手伝います」
「僕も手伝おう。そうしたらまた、料理を作ってくれるかい?」
「が、がんばりますね」
「ふふ、楽しみだね。……だからね千佳、心配しなくていいんだよ。明日なんて、明後日の通過点でしかないのだから」
優しい手が、私の頭をそっと抱き寄せる。まるで小さい子供を慰めるような仕草なのに、ひどく安心した。
それは、上総さんが私の兄だからなのだろうか。
「……明後日、楽しみにしています」
「うん。……僕たちも楽しみにしているよ」
「え?」
ドアに向けられた視線を追うと、
「……気づかなかったふりくらいできないのかよ」
ため息混じりの声と共にドアが開いた。
「克己くん……」
「立ち聞きしてたわけじゃないからな」
「そうだね。克己は少し前に来たところだよね。まだお茶も冷めてないようだし」
「上総……」
「お茶?」
「別に飲まそうと思って持ってきたわけじゃ……」
「うんうん。二杯とも、一人で飲む気だったんだよね」
「~~~っ」
二人の気が置けない空気に、思わず笑ってしまう。
「……ったく」
手を後ろに回していた克己くんが、諦めたように室内へと足を踏み入れる。前に戻された手には、上総さんが言っていたように二杯の紅茶。
「一杯のこってしまうのももったいないから、忍も呼ぼうか」
「忍ならまだ厨房で明日の準備をしてる」
「それなら、このまま起きていれば来てくれるね。この部屋の窓は厨房からも見えるはずだから」
「……計算づくか」
「ふふ、なんのことだい?」
上総さんの予想通り、お茶から湯気が消える前に、綾崎さんは部屋を訪ねて来てくれた。そして、集まっている私たちを見て一言、「早く寝てください」と子供を叱りつけるように、言った。
──きっと大丈夫。
誰も、傷ついたりはしない。
明日の次は明後日が来て、明後日の次は明々後日がくる。
ただそれだけのことだと言い聞かせて、私は浅い睡魔に身を委ねた。
つづく
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