第三話 この道は
ばさ、と大きな音を立てて本が床に落ち、我に返る。
──怜二が何者かに襲われた。
血の気が引き、ぐらりと倒れそうになるのを体を壁に手をつくことで耐えた。
怜二は歌舞伎の人気役者だ。
女の子に囲まれることも、少し物騒な恋愛沙汰に巻き込まれることもよくある。
けれど、襲われることなんて。
「……大丈夫かい?」
そっと肩に手を置かれ顔を上げると、上総さんは自分のことのように辛そうな顔をしていた。
きっと、優しい性分なのだろう。
「怜二は……無事なんですか……?」
震えそうになる声にぐっと力を入れて問いかけると、曖昧な頷きが返ってくる。
「軽傷だとは聞いているよ。ちょうど忍が忘れ物を届けようとした時だったらしくて、大事には至らなかったとは……」
「……よかった……」
ほっとした途端に足から力が抜け、座り込みそうになった。
それを、上総さんが支えてくれる。
「すみません……」
「いいから、お座り」
「はい」
椅子の方へと促され、腰を下ろすと大きく吐息が漏れた。
上総さんは私が落ち着くのを待ってから、口を開く。
「忍は病院の方に付き添っていて詳しい話はまだわからないんだけれど……」
一度、言葉を濁すように話を切られて顔を上げると、上総さんは何か考え込むような顔をしていた。
「あの……?」
「……音羽君を襲った連中は捕まらなかったそうだ」
「……そう、ですか」
「ただ、外国の人間だったということはわかっている」
「っ!」
咄嗟に思い浮かんだのは、黒いスーツを着た男性たちだった。
あの人たちは私を狙っていたはずなのに、どうして。
「音羽君が襲われるようなことに心当たりはあるかい?」
「いいえ……」
「……音羽君はこの家を訪ねた帰り道で、襲われた。そのことについてはどうかな」
「どうって……どういう、意味ですか……?」
静かに問いかける瞳に、じわりと汗が背中を伝う。
上総さんは、どうしてこんなことを聞くのだろう。
「千佳……」
膝を床につき、そっと手を重ねられてびくりと肩が震えた。
私は、何かから目を逸らそうとしている。
それを自分でもわかっていて、認めたくなかった。
「同じ人間が二度も、外国の違う人間に襲われる可能性はどれくらいだと思う? 僕はそう高いものではないと思う」
「…………」
「もう一つ、音羽君は襲われた時……必ず君と接点を持っていたことになる。それが何を示しているかはわかるね……?」
怜二が襲われたのは、私といたせい。
ぐるぐると頭の中を否定しようとする言葉が回る。
けれど、どれも自信を持って言葉にできるだけの根拠がなく、声にすることなく消えていった。
ただ、怜二の笑顔だけが頭の中に残り、胸を締め付ける。
その時、なんの前触れもなしにノックの音がした。
「……はい」
返事をできずにいる私の代わりに、上総さんがドアを開けに立ち上がる。
「ああ、忍。おかえり」
「……ご報告に上がりました」
「お入り」
「しかし……」
「いいんだ。……千佳も音羽君の容態が心配だろうし」
「かしこまりました。それでは、失礼します」
上総さんがドアを引くと、綾崎さんが静かに室内へと足を踏み入れた。
いつも一分の隙もない髪がわずかに乱れており、はっとする。
「あの……怜二は……」
「ご安心ください。足を多少くじいておりますが、全治一週間とのことです。命に別状はございません」
「……一週間」
命に別状がないことに安心しながらも、動けない時間を思うと申し訳なさで胸が押し潰されそうになる。
──一週間。
その時間は、役者である彼にとってどれほど大切な時間なのかを、私は知っていた。
俯き、それ以上何も言えずにいると、
「お嬢様に伝言がございます」
綾崎さんが一歩前へと歩み出る。
「手紙を取られた。渡せなくてすまない。あと、気にしないように、とのことです」
「手紙……?」
上総さんが首を傾げるのを見て、綾崎さんが補足を口にする。
「お嬢様が藤井様に当てた手紙とのことです」
「……会いにはいけないので、手紙を渡してもらおうとしたんです」
「花さんに向けた手紙を……? どうしてそんな……」
「襲撃者の目的は初めからその手紙にあったと思われます。音羽様が抵抗したために危害を加える結果となったのかと……。あくまで私個人の主観ですが」
「忍がそう感じたのなら、おそらく正しいだろう。千佳、手紙には何を……?」
恐ろしいくらい真剣な上総さんの表情に、心臓が早鐘を打っていた。
「盗まれるようなことは何も……。ただ、元気にしているかといったことと……」
「それと……?」
「……本当に、私は母の娘ではないのかということを書きました」「……そう。ごめんね、手紙の内容まで話させて」
「いえ……」
「忍」
上総さんは短く綾崎さんを呼ぶと、何かを伝えたようだった。
けれどその声は潜められて、私には聞こえない。
話終えると、綾崎さんは私の方に一度頭を下げてから部屋を出て行ってしまった。
「千佳、少しの間、外に出るのは控えてもらえるかな」
「……はい」
私が原因で怜二に怪我までさせたのだ。
外出禁止だと言われることは覚悟していた。
怜二のお見舞いに行けないことは申し訳なかったけれど、私が行った方がきっと迷惑になるだろう。
「窮屈に感じるかもしれないけれど、家の中には書庫もあるから暇になるということはないと思う。それに、すぐ心配がなくなるように手は打つから」
「……はい、ありがとうございます」
「……今日はもう、おやすみ。食事は何か軽いものを部屋に運ばせよう」
優しく私の頭を撫でてから、上総さんは部屋を後にした。
撫でられた頭に触れてみる。
兄、という存在はああも温かく優しいものなのだろうか。
彼は……本当に私の兄なのだろうか。
椅子から立ち上がり、そっとバルコニーへと続く窓辺に立つ。
そこから見えるのは門へと続く白い道だ。
「怜二……」
いつでも帰ってきていいと言ってくれた。
けれど、私にその道は本当に残されているのか。
私が怜二や母の元に帰ろうとすると、悪いことが起こる。
それが現実に起こってしまうともう、連絡を取ろうという気すら恐ろしくて持つことができない。
この先もずっと、平凡で、けれど平穏な日常が続いていくのだと思っていた。
それが、今はどうだろう。
私の歩く道は、一体、どこに向かっているのか先が何も見えない。ぼんやりと明かりの灯った門へと続く細い道が、今は途方もなく遠いもののように感じた。
***
数日後の朝のことだった。
いつもより早い時間に目が覚め、寝直そうかとも思ったけれどそのまま起きてしまうことにした。
二度寝を楽しんでも、笑いながら起こしてくれる母はこの屋敷にはいない。
春が近づいているというのにまだ肌寒く、窓から見える桜の蕾みも固く閉じられている。
顔を洗い、身支度を調えてから他の人を起こさないようにとそっと廊下へと出た。
上総さんに教えてもらった書庫へ行くつもりだった。
早朝の屋敷は静かで、なんだか不思議な心地がした。
一階まで降りると外から物音が聞こえ、自然と窓の方へと視線が引き寄せられる。
そこにいたのは、克己くんだった。
「犬なんていたんだ……」
克己くんは茶色と黒の毛並みの長い大型犬を二匹連れていた。
九条家に来てそれなりに時間も経つというのに、そんなことも知らなかった。
庭にすら出ないようにしていたということもあるけれど、窓から覗くこともしていなかったのだと苦笑が漏れる。
「……楽しそう」
犬たちは克己くんによく懐いており、はしゃぐいだ様子でじゃれついている。
克己くんも、屋敷の中では決して見せたことのないような笑顔を浮かべていた。
ああしていると、まだ年下なのだと思える。
声をかけようかとも思ったけれど、やめた。
あの楽しそうな時間を邪魔してはいけない気がしたし、克己くん自身も私に見られたことを気にしそうだと思ったから。
いつか、あの笑顔をこの家の中でも見られたらいいなと思い、その時もまだ私はここにいるのかと苦い笑いが浮かんだ。
克己くんは私の弟だと言われているけれど、今もその自覚はない。おそらく、克己くんの方も私を姉などとは思っていないだろう。
そっと窓際から離れ、書庫へと向かう。
書庫に向かうまでは誰にも会わなかった。
厨房の方からは音が聞こえ始めていたけれど、まだ一部の人間しか起き出していないらしい。
朝、綾崎さんが起こしに来てくれた時に部屋にいないときっと心配をかけてしまう。
だから、本を数冊借りて部屋で読もうと思っていた。
なんの本にしようと悩んでいるうちに書庫につき、その扉がわずかに開いていることに気づく。
書庫の扉は建て付けが悪く、一度閉めると開ける時に面倒だから少しの用事ならば開けっ放しにすることが多いと、上総さんが言っていたことを思い出した。
おそらく、先客がいるのだろう。
邪魔をしても申し訳ないのでそっと引き返そうとした時、中からぼそぼそと低められた声が聞こえてきた。
「……の方は? 誘拐……との……は?」
「それが……ということで」
引き返そうとした足が止まる。
誘拐、という単語に呼び戻されるように、私は扉のすぐ近くまで足を戻していた。
隙間からそっと中を覗くと、綾崎さんの背中が見えた。
そして、窓を背にして立っているのはおそらく上総さん。
逆光で顔までは見えないけれど、声でわかった。
「そう簡単にはいかないか。引き続き……、……」
「かしこまりました。……差し出がましいようですが……、……警察……探偵……、……存じます」
「いや……、……からね」
二人とも内緒話のように声を潜めていて、耳をそばだてていてもところどころしか声が拾えない。
そのせいもあって、拾えた単語がやけに物騒に響いた。
一体、何の話をしているのだろう。
それも、こんな早朝に隠れるようにして。
もしかして、私を襲った人たちの話をしているのではとさらに扉の方へと耳を押し当てた。
けれど、何故か声がぴたりと止んでいた。
不思議に思って中を覗こうとした時、
「……お嬢様、そのような場所で何をされていらっしゃるのですか?」
書庫の扉が内側から開かれた。
「あ、綾崎さん……あの……」
「おはようございます、お嬢様」
「……おはようございます」
「ああ、千佳だったんだね。忍が急に子猫がいるようだと言うから何事かと思ったよ。おはよう、今日は早いね」
「……おはようございます」
あまりになんでもないように笑みを向けられ、呆然としてしまう。立ち聞きをしていた罪悪感すらも忘れて二人の顔を見上げていると、綾崎さんが口元の微笑を深くした。
「お嬢様、もしや私たちの会話をお聞きになってらっしゃったんですか?」
「っ……」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「そういうことならば仕方ありませんね」
「そうだね。いずれ話そうとは思っていたし」
咎められると思ったことが、思わぬ方向に進んだことに思わず喉が鳴った。
一体、何の話をしていたのだろうと言葉の先を待っていると、上総さんは本棚から一冊本を引き出してから廊下へと出てくる。
「はい、どうぞ」
「……あの……?」
手渡された本に首を傾げる。
タイトルも、中も英語のようで、何の本かもさっぱりわからない。
「今、忍とその小説にはまっていてね。面白いから千佳にもすすめようと思っていたんだよ」
「小説……?」
「探偵小説だよ。今も最新刊の犯人は誰かという話を忍としていたんだ」
「英語の学習にも役立つかと思いますので、お嬢様もぜひお読みください」
「難しかったら訳本もあるから、一緒に持っていくといいよ」
はい、ともう一冊本を積み重ねられた。
「ああ、そうだ。父が話があると言っていたから、今日は朝食を一緒にとってもらえるかな」
「……わかりました」
「忍、そういうことだから朝食は三人前で頼むよ。克己も来られるようなら一緒がいいけれど……」
「克己様はおそらくお見えにならないかと存じます」
「……そう。それなら仕方ないね。克己には僕から話しておくよ。それじゃあ、千佳。また朝食の席で」
話すだけ話すと、上総さんは廊下を歩いて行ってしまった。
私はただ、呆然とその背中を見守るしかできない。
腕の中には、ずっしりと重い小説が二冊。
「お嬢様、お食事まではまだお時間がございます。支度が整い次第お呼びいたしますのでお部屋にお戻りください」
「あの……」
「どうかいたしましたか」
張り付いたような微笑を向けられ、ただ首を横に振る。
本当に小説の話をしていたのかなんて、聞ける雰囲気ではなかった。
部屋に戻り、上総さんが貸してくれた本をパラパラと捲る。
訳本の方から目を通すと、確かに探偵小説のようだった。
『警察』という文字もすぐに見つかる。
けれど、どこにも『誘拐』という文字は見つからない。
もしかしたら見落としているだけなのかもしれないけれど、上総さんが咄嗟に誤魔化すために本を渡したのではという疑問は拭いきれなかった。
あまりにも自然すぎて、逆に不自然だったからだ。
第一、あからさまに立ち聞きしていたというのに、綾崎さんに注意されなかったことがおかしい。
聞かれた話が他愛のないものだろうと、普段私にマナーについて教えている綾崎さんならばきっと注意したはずなのに。
それとも、兄である上総さんの前だったから注意しなかったのだろうか。
考えているうちにノックの音が聞こえ、朝食だと綾崎さんが迎えに来てしまった。
食堂に行くと、すでに上総さんと九条さんは席についていた。
克己くんの席は空席だ。
まだ、犬の散歩から戻らないのかもしれない。
席につくとすぐに味噌汁が運ばれてくる。
今日は和食らしく、炊きたてご飯のふんわりと優しい香りがした。
「……少しは慣れたか」
いただきますと手を合わせた直後に九条さんに話しかけられ、味噌汁を取りかけた手を下ろす。
「父さん、慣れたかってまだ一ヶ月も経ってないんだから」
「これだけ経てば十分だろう」
「職場とは違うんだよ。家っていうのはそう簡単に馴染めるようなものじゃないでしょう。焦らなくていいからね、千佳」
「…………」
九条さんがむっすりと黙り込み味噌汁を口に運ぶのを見ると、安易に頷くこともできずに曖昧に笑みを浮かべた。
上総さんの言う通り、まだとてもじゃないけれど暮らしに慣れたとは言えない。
寝起きする度に驚くことはなくなったけれど、母と暮らしてきた家の方がやはり本当の家だという感覚は消えていなかった。
しばらく黙々と鮭をほぐしていると、九条さんが箸を一度置いた。眉間に皺が寄っているせいで怒っているように見えるけれど、どうやら九条さんにとってはこの顔が普通なのだと最近ようやくわかってきた。
わかっていても、少し怖いけれど。
「舞踏会が五月に決まった」
「……舞踏会、ですか?」
舞踏会というと、あのキラキラした服装でダンスを踊ったり、お酒を飲んだりするもののことだろうか。
綾崎さんから日々受けている授業のおかげで、華族の世界で舞踏会は本当に行われるということは知っていた。
けれど、それがどうしたというのだろう。
首を傾げていると、上総さんが横から助け船を出してくれる。
「父さん、それだけじゃわからないと思う」
「……舞踏会はこの屋敷で行う。その場で、お前のことを正式に公表する予定だ」
「公表って……」
「つまりね、今は誰も九条家に千佳が帰ってきたことを知らない。けど、いつまでも秘密にしているわけにもいかないだろう? だから、時期を見てお披露目会をしようってことなんだ」
「私を、ですか!?」
「九条の娘なのだ。当たり前だろう」
「でも、私は……っ」
「千佳、突然のことで驚いていると思うけれどわかってほしい。華族の間でおかしなことを言われる前に、正式に公表した方がいいんだ」
私はまだ、本当に九条家の娘なのだと納得できていない。
そう言いかけた言葉は、上総さんの申し訳なさそうな顔を前にすると言うことができなかった。
正式に九条家の娘だと公表されてしまったら、もう本当に後戻りはできないのだろう。
そもそも、後戻りしたいと考えている私が間違っているのかもしれない。
未だに母に確かめることもできず、けれど上総さんに本当の母親のことを聞くこともできず、私は前にも後ろにも進めずにいた。
「すでに各所に招待状は出してある。お前はそのつもりで勉学に励みなさい」
食事も終わっていないというのに、九条さんはそれだけ言うと席を立ってしまった。
ぼんやりとその背中を見つめていると、上総さんも続いて立ち上がる。
「ごめんね、千佳。父さんは愛想はないけれど、千佳が戻って来てくれてとても喜んでいるんだよ。もうドレスの注文先まで決めているくらいなんだから。だから……あまり悪く思わないであげてほしい」
「悪くなんてそんな……」
「……うん、千佳はきっとそんなこと思っていないだろうけど、ほら、父さん、顔が怖いから。損だよね」
思わず笑ってしまうと、上総さんはほっとしたように表情を崩した。
「僕ももう行くけど、千佳はゆっくりお食べ。舞踏会まであまり時間がないからこれからレッスンが厳しくなるだろうしね」
食堂を出る前に、上総さんはまた私の頭を優しく撫でて行った。
もしかしたら、上総さんの癖なのかもしれない。
ひとり食堂に残され、お味噌汁を口に運んだ。
まだ温かいそれは具だくさんで、とても豪華だ。
誰もいない食堂でご飯を口に運びつつ、この家の、私の『本当の家族』について考える。
上総さんが本当に兄なのだとしたら、嬉しい。
克己くんだって、打ち解けられたらきっと可愛いに違いない。
兄弟がいなかったからこそ、兄も弟ももしいるのだとしたらそんな嬉しいことはない。
けれどそれは同時に、母との血の繋がりがないことを認めてしまうことになる。
血の繋がりが全てだと考えているわけではない。
でも、急に離ればなれになって納得しろという方が無理だ。
悶々とした気持ちを抱えたまま食べたご飯は、美味しいはずなのにあまり味が感じられなかった。
***
舞踏会の日取りが決まってからは、授業の半分がダンスに当てられた。
「お嬢様、視線は前へ。背が曲がっています」
「はい!」
「それでは反りすぎです。自然と、柔らかく」
「は、はい!」
ワルツの基本から教えてもらっているものの、あまり才能がないのか私は綾崎さんの足を踏んでばかりいた。
「……今日はこの辺で終わりにいたしましょう」
「……ありがとう、ございました……」
肩で息をしながらその場に座り込むと、そっとグラスを差し出される。
一気に喉に流し込むと、ほんのり酸味のついた爽やかな味がした。
「レモンを入れてあります。疲れた体にも良いので」
「美味しいです」
私以上に動き回っていたはずなのに、綾崎さんは息一つ乱していない。
それを不思議に思いながらも、残った水を飲んだ。
「舞踏会までに……踊れるようになれるでしょうか」
「ご安心ください。間に合うようにお教えしております」
「でも……」
「ご不安はわかります。けれど、一日でダンスは一日で上達するようなものでもございません」
「……そうですね」
「お嬢様はダンスを人が踊っているところをご覧になったことはありますか?」
「いえ……ちゃんとは」
「……なるほど、そのせいかもしれませんね」
「……?」
「一度、全体の動きをご覧になった方が、恐らくわかりやすいでしょう。……ご協力いただけるといいのですが」
綾崎さんは何かを考えるように口元に手を当てていたけれど、私にはなんのことかまるでわからなかった。
舞踏会の日が近づくにつれ、気持ちが徐々に沈んでいく。
九条伯爵家の娘に相応しい教養を学び、ダンスを覚え、毎日少しずつ私が私ではない何かに変わっていくようなそんな感じがしていた。
私でなくなるなんてことはないのだとわかってはいても、自分の根幹を見失っている今は酷く不安定で落ち着かない。
「……綾崎さん」
「はい」
「佐保さんは……舞踏会にいらっしゃるんでしょうか……」
恐る恐る聞くと、綾崎さんは表情一つ変えないままに首を横に振った。
来ないのか。来られないのか。
そこまでは聞けずにため息が漏れる。
母親だけがいないこの家。
それも、何故かみんな、佐保さんの話を避けているように思えた。できれば舞踏会の前にあの人に真実を聞いておきたかったのに、それは難しそうだ。
「次の授業ですが、休憩を入れて一時間後からでよろしいですか?」
「はい、わかりました」
「それでは自習室の方でお待ちしておりますので」
先にレッスン室を出て行った綾崎さんを見送った後、十分に柔軟運動をしてから私も部屋を出る。
次は経済学だったはずだと考えながら廊下を歩いていると、大きな物音が聞こえてはっと顔を上げた。
「俺はあんたの道具じゃない!」
「待ちなさい、克己!」
部屋を飛び出した克己くんは私がいることに気づき、表情を固くした。
けれど、きつい瞳をぶつけただけで何も言わずに通り過ぎて行く。部屋の中から聞こえた声は九条さんのものだったと思うけれど、誰かが克己くんを追って出てくるようなことはなかった。
そのまま自習室に向かう気だった。
でも、どうしても気になって私は克己くんの後を追うことにした。
克己くんを探しながら廊下を早足で歩いていると、窓の外に克己くんを見つけた。
どうやら、庭に向かっているらしい。
外に出るのは躊躇われたけれど、庭ならば大丈夫だろうと急いで後を追いかける。
玄関から出た時にはまた姿が見えなくなっていたけれど、犬の鳴き声がしてそちらに行くと克己くんを見つけることができた。
黒い方の犬がいち早く私に気づき、一声吠える。
その声に克己くんがはっとしたように振り返った。
「……なに」
あからさまに迷惑そうな顔を向けられ、追いかけて来たことを一瞬で後悔する。
「外に出るのが見えたから……」
「だから?」
「…………」
二匹の犬は行儀良く克己くんの両脇に座り、じっと私を見つめていた。
まるで、品定めでもするように。
「……克己くんの犬?」
「…………」
「綺麗だね。なんて名前?」
「……俺の犬じゃない」
「そうなの?」
よく懐いているからてっきり克己くんの犬なのかと思っていた。
犬よりもよほど威嚇するような目で、克己くんは私を睨み付けていて、それ以上まともに話ができそうになかった。
自習室に戻ろう。
そろそろ次の授業が始まってしまう。
そう思った時、後ろから足音が聞こえた。
「茶色い方が弁慶、黒い方が義経だよ」
「上総さん……」
「僕が飼い始めたんだけど、今じゃすっかり克己の方に懐いてるんだ」
上総さんの姿を見て、二匹の犬がふさふさの尻尾をゆったりと振る。
けれど、克己くんの傍を離れようとはしなかった。
その姿は克己くんを守っているようにも見えて、何故か悲しいような気持ちになる。
上総さんは気にした様子もなく犬たちに近づくと、その頭を優しく撫でてやっていた。
「二人が一緒にいてくれてよかった」
「何かご用でしたか?」
「うん。一週間後くらいにお花見をしようかと思って」
「……聞いてない」
「だから、今話してるんだろう?」
ぶすっとした克己くんの返事に、上総さんが苦笑を漏らす。
この兄弟は本当に似ていないなと思う。
顔もそうだけれど、性格もまるで違うし、似ているところを探す方が難しかった。
「ちょうど桜も見頃になるだろうし、千佳もずっと家に閉じこもってばかりでつまらないだろう? 庭でやれば危なくもないし、念のために頼りになる友人にも声をかけてあるんだ」
上総さんに撫でられているうちに、犬たちの尻尾の振りが徐々に大きくなっていき、それを見ていた克己くんが手で何かを示した。
その途端、二匹がその場を動き出して上総さんにじゃれつき始める。
「うわっ! 義経、重い! 弁慶も!」
「だ、大丈夫ですか!?」
「じゃれてるだけなんだけどね……二匹一遍だと……っ! 克己、ちょっと、止めて!」
「……二匹が遊びたいって言うんだから遊んでやれよ」
「話が終わったら遊ぶから……ああ、もう、ステイ!」
「……まるで聞いてませんね」
「克己の言うことしかきかなくてね……」
「ステイ」
克己くんが一言発すると、二匹はぴしっと足を揃えてその場にお座りをした。
あまりの見事さに思わず拍手をすると、ふいっと克己くんが顔を逸らす。
もしかしたら、照れていたのかもしれない。
「ふう、服が泥だらけだ。外出から戻った後でよかった。ありがとう、克己」
「……別に」
ぶっきらぼうな物言いではあったけれど、以前見たほどのきつさは感じられずにほっとする。
「それで、お茶会の話だけれど、二人の都合を聞いておこうと思って」
「俺は行かない」
「克己……。せっかくこうして兄弟が揃ったんだから、もう少し交流を深めても……」
「それなら、あんたたち二人でやったらいい。俺には関係ない」
「あ、克己!」
私の横を擦り抜けるように、克己くんは早足に歩いて行く。
二匹の犬は後を追おうと足を動かしかけて、上総さんの方を窺うように顔を上げた。
「……いいよ、行っておあげ」
ぽんぽん、と上総さんが背を叩くと、犬たちは我先にと克己くんを追いかけていく。
「……あの子たちの方がよっぽど克己の家族らしいことをしてやれてる。情けないな」
ぽつりと呟かれた言葉になんて返したらいいのかわからず、私はただ頑なな克己くんの背中を見つめることしかできなかった。
「大丈夫。なんだかんだ言っても優しい子だからね。お花見にはきっと出てくれるよ」
「……はい」
「千佳も楽しみにしておいで。うちの桜はなかなか見事だから」
そう言われて見上げた桜の枝には、ふっくらと膨らみ始めた蕾みが風に揺れていた。
つづく
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