自由からの逃走 エーリッヒ・フロム
人物像
エーリッヒ・フロム(1900~1980)は、ドイツに生まれた社会心理学者だ。ユダヤ人でもある。仏教の影響も強く受けており、禅もハマッていたと言われる。
彼は、14~18歳の年齢において、WWI(第一次世界大戦)を経験している。その時に、「何故人類は皆、平和を望みながら戦争をするのか?」と言う疑問を持ち、人間の集団行動には矛盾性があり、その謎を解きたいと言うことでフランクフルト大学(ドイツの名門大学)で社会学と心理学を学ぶことになる。その後、複数の大学を渡り歩き、学者の道へ進むこととなった。
ナチスの登場
ナチスの登場により、彼の人生は大きく変わった。ナチスはユダヤ人を排斥し、ホロコーストを行なった組織である。その為、フロムは身の危険を察し、アメリカへ亡命することとなる。その後、戦時中の1941年に発表したのが、この「自由からの逃走」である。これは、ナチスをはじめとするファシズムに対する闘いであったと言われている。
本の内容
この本は主に以下のような構成になっている。
・「自由」に対する考察
・世界に絶望した人が「自由」を手放す原理
・自由から逃走しない為にはどうすればいいのか
自由に対する考察
人類は「自由」を求めて戦った
現代人は、かつての人間に比べて、とても豊かな時代を生きている。アイスを食べたいと思えば、コンビニに買いに行くことができるし、海を見たいと言えば、レンタカーを借りて海に行くことができる。
今、自分達が当たり前に享受している権利、それが「自由」である。
しかし、西洋では、そういった「自由」も当たり前のものではなかった。封建制の時代では、既に自分の役割(職業)は決められ、絶対王政の時代では、王の言うことは絶対であり、民衆と貴族との貧富の差はかなり開いていた。
そういった背景から、自由を獲得する為に、民衆は命を賭けて戦ったのである。
(例:フランス革命)
↑レ・ミゼラブルは、教会の権威に抵抗したフランス革命を舞台とする映画。
自由の代償
宗教改革や、フランス革命など、民衆は巨大な権威に抗い、漸次的に「自由」を獲得していった。そして、資本主義や民主主義、人権思想など、現代の礎となる価値観も獲得し、発展していった。しかし、その一方で、民衆は、「自由」を獲得したが故の苦しみも、同時に味わうことになる。
資本主義の登場により、民衆は、「個人」と言う感覚を強く持つ様になった。封建制の時代では、それぞれ、ただ与えられた役職をこなしていれば良かっただけだが、「自由」と引き換えに、民衆一人一人が自分の人生の「責任」を引き受けなければならなくなったのだ。そして、責任を引き受けた結果、上手くいかなかった人たちは弱者となり、人生を脅かされる存在になっていく。社会全体としては、確かに豊かになったのかも知れない。しかし、民衆一人一人の精神状態は、非常に不安定なものとなっていったのである。
そして、社会的弱者は、強い孤独感や無力感からくる深い絶望を味わうと、人生の責任を放棄し、自ら「自由」を手放す様になっていく(自由からの逃走)。かつて、人類が命を懸けてまで手に入れた「自由」を、自ら簡単に手放してしまうのだ。フロムは、精神分析によって、そう言った人間がどのような心理パターンを持っているかを研究し、それを、「逃避メカニズム」と言う言葉を用いて以下のように説明した。
世界に絶望した人が「自由」を手放す原理
逃避のメカニズム
逃避のメカニズムにおいて、重要なキーワードは以下の3つである。
権威主義
破壊性
機械的同一性
順番に一つづつ見ていこう。
・権威主義
人は強い絶望を味わうと、権力にすがろうとする様になる。
カリスマリーダーの言うことを全部聞きたいと言うマゾヒズムタイプ。
自らが権力者になりたがるサディズムタイプ。
両者は向かう方向が真逆であるが、「自分以外の何かと繋がっていたい」と願い、依存して孤独を癒そうとする点で、共通の心理パターンを持っている。
・破壊性
これは、対象を壊すことによって苦しみから逃れようとする心理パターンだ。
この破壊性が、自分に向かうと自殺に、他者に向かうと殺人欲求となる。
自分が東京へ上京して、絶望した時に起こった現象がまさにこれだ。自分は社会に対して何も出来ない無力な人間だと思い込み、自殺したいと願うようになった。
・機械的同一性
これは、社会に自分自身を溶け込ませようとする心理パターンである。
自分の意思を消失させ、社会の歯車となることで、孤独を解消させる。
日本の就職活動は、こういった意識を無理やり植え付けさせられる様に感じる。
この、「逃避のメカニズム」は、現代に起こっている社会全体の病理とも言える重大な問題である。では、こういった状態にならずに(自由から逃走せずに)、人間が健全に生きる為にはどうしたらいいのだろうか?
自由から逃走しない為にはどうすればいいのか
自発的な活動によって、自分と世界を結びつける。
フロムは、自由から逃走しない為に、以下のように生きるべきだと言った。
「自発的な活動によって、自分と世界を結びつける」
さて、これは一体どう言うことなのだろうか?
この自発的な活動とは何なのだろうか?
フロムは、自発的活動については、以下のように説明している。
自分の思考や感情を自発的に表現する創造的な活動
「愛する」と言う行為
端的に表現するならば、それは「創造」と「愛」を行うと言うことだ。
「創造性」についてだが、今の世の中は、かつてに比べて創造性を発揮する機会がかなり増えたと思う。特に、インターネットが普及してからは爆発的に増加した。こうして、今、自分がnoteの記事を書いていることも「自発的な活動」だ。「自発的な活動」は、note以外にも、youtubeや音楽活動、配信、芸術、(自発的な)仕事など、沢山あるだろう。自分が日々生きる上で、感じたものや考えたことを生き生きと表現する。これが、創造的な活動である。
「愛する」と言うことは、フロムはこれを一冊の本にまとめている。(「愛すると言うこと」)これについては、またの機会に取り上げたい。
感想
フロムは、WWI〜WWⅡと全体主義(この世の地獄)を経験した世代だ。この時代は、ナチスや戦争の影響なのか、ドイツでは沢山の名だたる哲学者が登場する。(ハンナ・アーレント、ハイデガー、ヤスパース、フランクル(精神医学)など)皮肉なことにも、そう言った地獄を経験したからこそ、人間の深層心理を探究できる(せざるを得ない?)と言う側面があるのかもしれない。(勿論、だからと言って戦争に賛成する理由にはならないが。)
そう言った話は置いておいて、フロムの思想は現代社会の問題を、かなりクリティカルに指摘するものだと思う。今の日本でも、絶望した若者が自殺すると言う話はよく聞く。自分たち若者が世の中に絶望しやすい理由として、一つ、SNSの発展があると自分は考えている。「社会での成功はコレだ!」と、youtuberやインフルエンサーを見て、そう思い込んでしまうと言うのがかつての自分だった。ただ、今ではそう言った考えは完全に間違っていたなという風に感じている。
他者と自分を比較して、どちらが優れているか、そう言った考えはもう辞めよう。マウント合戦をするのは、人生において何の価値にもならない。自分もかつては、他人と比較することによって、劣等感に苛まれていたが、そう言った考えは無益なことだと最近は本当に実感する。そう言った競争マインドから脱し、自分の特性は何か?個性は何か?そう言ったことに向き合い、「社会の中で自分が最も輝ける状態を目指す」と言うことが、これからは、重要な考え方になって来るのでは無いだろうか。ここら辺については、もっと整理した形でnoteに考えをまとめていきたい。