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生成AI vs クリエイター という構図ではない
近年、生成AIはイラストや音楽などのクリエイティブ分野で急速に普及し、その存在感を増している。しかし、それに伴いイラストレーターや作曲家といったクリエイターからは、「創造性の軽視」や「著作権侵害」といった懸念が多く寄せられている。一方で、生成AIを肯定する意見としては、「人間も他人の作品を学んで成長するが、AIの学習も同様である」「過去にも多くの仕事が機械に取って代わられたように、これは時代の流れだ」といった主張が目立つ。
筆者は、生成AIそのものを否定する立場ではない。むしろ、それがクリエイターの創作活動を支える形で発展していくことを切に願っている。しかし、生成AI肯定派によるこれらの反論にはいくつか疑問が残る。
たとえば、生成AIの普及を「産業革命による機械化」や「そろばんから電卓への進化」「アナログイラストのデジタル化」などと同列に語る例がある。これらの進化は効率化や作業の正確性向上を目的としており、明確な社会的利益を伴うものだ。しかし、生成AIは本当にこうした例と同じ土俵に置いて考えられるものなのだろうか。クリエイティブ分野におけるAIの役割を、このように単純化して捉えることには問題があるかもしれない。
「AI学習」と「クリエイターの学び」の違い
人間が他者の創作物を「学ぶ」時、それは単なる模倣ではない。技法や表現の意図を理解し、自分のスタイルに昇華させる創造的なプロセスだ。一方、生成AIの「学習」は、無断使用された作品を含む膨大な創作物データを基に行われる。このプロセスでは作品の意図や文脈を無視し、「統計的に類似したものを再現する」に過ぎず、人間の学びとは本質的に異なる性質を持っている。
「人間も模倣する」という反論はよく耳にするが、そのまま当てはめられるものでもないだろう。問題は「生成AIが他者の努力や成果を適切な許可なしに利用しているかどうか」にある。法的な問題は専門家に任せるとしてここでは触れないが、適法だったとしても無断使用の可能性があるという事実には変わりがない。クリエイターが生成AIに反発するのは、AIが優れているからではなく、彼らの作品が無断でAI学習に利用され、それによって自身の創造的価値や経済的利益が脅かされていると感じるからだろう。
人間が好きな絵や音楽を見つけ、それを模倣したり、二次創作を通じて技術を学ぶ際、そこには必ず「リスペクト」や「憧れ」がある。そうしたプロセスは、創作者としての成長や新たな創造へのきっかけとなるのだ。しかし、生成AIを使用して作り出す過程では、元となる学習データのその一つ一つを知ることは不可能であり、そこにリスペクトが生まれる余地はない。自分の作品が許可なく「素材」として扱われる現状に、クリエイターは強い抵抗感を抱いているのだ。創作物は「素材」ではなく、「作品」として見てもらいたいものだろう。
効率性が重視される工業的な使い道であれば話はまた別だろうが、クリエイティブ分野では事情が異なる。創作者同士がリスペクトを持ち、切磋琢磨してきたからこそ、サンプリング音楽や二次創作文化が生まれ、今日まで続いてきたのだ。生成AIがそのようなクリエイティブ文化に参入するのであれば、同様の敬意と配慮が求められるのではないだろうか。
「時代の流れ」という主張は正しいか
技術の進歩によって一部の職業が淘汰されることは歴史的な事実だ。しかし、生成AIを産業革命、コンピューター化、デジタル化といった時代の流れと同列に語ることは妥当だろうか。
たとえば産業革命では、多くの手作業が機械に置き換わり効率化が進んだが、機械は労働者の成果物を無断で使用することはなかった。また、代替されたのは主に単純作業であり、高度な技術を要する職人が機械に取って代わられたわけではない。生成AIの学習に使われたデータは、クリエイターの「学び」や「技術」があってこそ生まれたものだ。
そろばんが電卓に置き換わった例でも、電卓はそろばんの使い手のノウハウやテクニックを直接内包したものではなく、数学的な演算プロセスを基に設計されている。表計算ソフトも同様で、電卓を使った経理の仕事を奪ったことは事実かもしれないが、これらのソフトが既存の計算式や手書き帳簿を模倣したり無断で使用したわけではない。
アナログからデジタルへの移行も生成AIと比較されることがあるが、本質は異なる。デジタルペイントツールやDAW(音楽制作ソフト)はアナログの制作手法を補助するツールであり、それ自体がアナログ作品を包括しているわけではない。確かに、一括で色調補正ができることや、何度でもやり直しが効くこと、楽器が演奏できなくても打ち込みで音を出せることなど、デジタル化の当初賛否があったものを挙げればキリがないだろう。しかし、これらはあくまでも、クリエイティブのためにどのような道具を選択するかという問題に過ぎず、生成AIのように他者の成果物を基に自動でアウトプットを生成するものとは異なる。アナログの技法やスタイルは使い手が手動で取り込むものであり、デジタルツールがそれを直接模倣することはないのだ。
表計算ソフトやデジタルペイントツール、DAWなどは、いわば「空っぽのノート」だ。そこに入力されるデータや計算式は使用者次第であり、クリエイターの個性や創意工夫を支える道具に過ぎない。対して、生成AIは「他人の作ったノートを大量に取り込んで新しいノートを勝手に作る」ような存在だ。生成AIはクリエイターの創造性や個性に基づく価値をそのまま複製し、代替する恐れがある。この点で、「新たな可能性」を切り拓くというよりも、「既存の労働価値を搾取する」という側面が強いのではないだろうか。
クリエイターの「権利」の問題
生成AIに反対する人がいる一方、表計算ソフトを使うなと言う人がいない理由は、表計算ソフトがそろばん職人の創造性や独自性を直接奪ったわけではないからだ。そろばんの計算技術は、計算自体を目的とする技術であり、誰が使っても同じ結果が得られる中立的なものだろう。一方、イラストや音楽の創作は、クリエイター一人ひとりの個性や感性、努力の結晶である。生成AIがこれらを学習データとして吸収し、新たな作品を生成する場合、その作品には元となったクリエイターの痕跡が部分的に残る可能性もある。つまり、生成AIは単なる効率化ツールではなく、他者の創造物を基にするという仕組みが変わらない以上、アナログイラストのデジタル化、コンピューター化などの例とは異なる次元の問題を抱えているのだ。生成AIは、膨大な数の既存の創作物を基に学習し、それを組み合わせたり変形することで新たな作品を生み出す。このプロセスは、単なる効率化ではなく、「他者の作品」の上に成り立っており、著作権や倫理の問題と切り離すことはできない。「学習データ」は、イラストレーターや作曲家など、クリエイターの費やした膨大な時間と労力、そして個性や愛が込められた作品だ。それが無許可で利用されるともなれば、大きな問題に繋がりかねない。
このように、クリエイターの「努力や時間」に基づく成果物を、生成AIは無断で利用していると考える人も多い。これは決して感情的な論ではなく、努力と時間という投資を経ずに大量のイラストや音楽を生み出せる状況が現実となれば、量で勝負することが難しいクリエイターは太刀打ちできなくなるのも時間の問題だろう。一部の「エリート的」なクリエイターは生き残る可能性があるにせよ、生成AIが創作物の需要をほぼ満たしてしまう未来が来るとすれば、誰もが生成AIを使って手軽に生み出せるものに対し、わざわざ多大な努力やリソースを割いて学習する人は減るだろう。その結果、新しい作品そのものが生まれなくなり、創作活動そのものが停滞するかもしれない。現状の生成AIは既存の創作物の学習に依存しているが、この構造が変わらない限り、クリエイターがいなくなって創作物が減少すれば生成AIの進歩も止まり、「クリエイティブ不毛の時代」が訪れるかもしれない。生成AIが真に創造を補助するツールとして進化するためには、この問題への根本的な対策が求められるのだ。
生成AIに反対ではなく、発展を
生成AIは便利なツールであり、新たなクリエイティブの可能性を秘めていることは確かだ。今後、生成AIの技術がますます発展することは容易に予測できる。クリエイターは業界動向を追い、生成AIについて学んでおくべきだろう。しかし、現在の生成AIの使われ方や、著作権問題に対する取り組みが不十分なまま普及している現状には、多くの課題が存在する。決して生成AIを否定しているわけではない。学習データをすべて明確にし、望まない学習を防ぐ仕組みを構築すれば、生成AIは便利な「道具」の選択肢の一つとして、クリエイターからも認められるだろう。生成AIで学習に使われたデータの権利者に対価を支払う仕組みも、無料の音楽サブスクリプションサービスのような形で構築できるかもしれない。
生成AIの議論で見落とされがちな点は、創作とは単なる「結果」ではなく、そのプロセスや背景にある「努力」「感性」「経験」によって価値が生まれるということだ。生成AIを「権利を侵害するので完全に禁止」といった主張で解決しようとするのは、問題の本質を捉えていない。生成AIが抱える課題は、単なるツールの進化ではなく、創作の価値、著作権、倫理、経済的な面の複雑な交錯によるものだ。単純な対立ではなく、生成AIと創作の未来をどう共存させるかという観点での対話が求められている。