お母さんの口から青虫が出てきた。

お母さんの口から青虫が出てきた。
お母さんは息が止まったように床に倒れこんでいたけど、上半身だけ起こしてゲホゲホと咳き込みはじめた。床にお母さんの唾液が散らばっていく。
そんなお母さんの背中を見て、心配するより先に下着と膝まで届くベージュのシュミーズだけの格好が気になっていた。先月、お父さんが家に帰ってこなくなってからお母さんは家に帰るとずっとその格好をしていた。
大丈夫?って聞いたらこの方が楽だから。としかいつも返してくれない。うちにはあと少しで1歳の妹がいたから、妹にご飯をあげるときに楽なのだろうと納得していたけど、僕はなんだかそれだけじゃないんじゃないかなって思ってた。
だから僕はお母さんより青虫を見た。青虫の太さと大きさはキュウリの半分ぐらいで、表面は綺麗な緑色。さらさらとした皮に包まれ、中には命の湿り気が豊かに詰まっていることが見てとれた。
僕は理科の教科書に載っていた青虫より、実物の方が随分鮮やかだと思った。絵の具の黄緑色みたいだ。
青虫はお母さんの口を出てから真っ直ぐに僕の方へ進み、僕の足の指を登っていた。そのまま僕の膝まで登る気とかはまったくなくて、通り道に偶然僕の指があったから通っているだけらしかった。
すぐに通り過ぎて、真っ直ぐ真っ直ぐ進んでいく。そのまま進んだら布団に寝かされた妹の横を通ってベランダだ。
僕は青虫を捕まえたくなって、背負っていたランドセルを急いで下ろして自分の勉強机に虫かごを取りに行った。うちの家は狭いアパートだったからすぐだった。
青虫は妹の横を通り過ぎようとしていた。それに、ベランダの戸が少し開いている。
早く捕まえないと。

「ねえ、あーくん」
お母さんの声だった。お母さんはいつの間にか咳き込むのをやめていて、だけど床をじっと見ていた。僕を呼んでるのに僕の方を向いてくれない。気まぐれかもしれない。早く青虫を捕まえないと。

「ねえ、あーくん。晩ごはん、何がいい?」
僕は立ち止まっていた。晩ごはん、僕が晩ごはんを決めていいの?
迷っているとお母さんはもう一度晩ごはん何がいい?って聞いてきた。
何にしよう、なんて答えよう。カレー、ハンバーグ、オムライス…。
そう迷っているとケチャップが空気を含んで飛び出すような音がした。
振り返るといつの間にか妹が起きていて、うつ伏せのまま青虫を握りつぶしていた。握りつぶした青虫をそのまま口に入れようとしている。急いで妹を止めてウエットティッシュで手を拭かせた。お母さんは動かなかった。
ウエットティッシュで拭き取った青虫は、変な液でテラテラぬらぬらしている。皮で守っていた命の湿り気は、全部この変な液だったのだ。
あっそういえば、晩ごはん。

「お母さん、僕、ハンバーグ食べたい」
お母さんを見るとお母さんもこっちを見ていた。半開きの口に乱れた髪の毛で片目が隠れてて、見えてる目は白い部分が多いんじゃないかってくらい大きく大きく見開かれていた。
「お母さん?」
お母さんは返事をしてくれない。ただ、僕の手元を見て笑っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?