朝子さん|ショートショート
耳裏にひと吹き、左手首にひと吹き。
ついでに左手首は、そのまま腰元をスススと擦って。
ふわ、と香るムスク。こっそりと隠れるように舞うのはハチミツ。
ほんの少し目をつぶって、ぱちりと開ける。
さあ、今日も仕事をしなくては。
山田朝子は、会社員である。
社会人歴は12年、そのうち転職は3回。今の会社は勤めて1年と半年だ。
リモートワークがこれほどまでに浸透した昨今、朝子も例に漏れずと、自宅で仕事をしている。
パソコンを立ち上げ、合間にポットで湯を沸かす。沸いた湯はそのままお気に入りの猫のマグカップに注ぎ、両手で包んで暖をとりながらパソコンの画面を眺め、届いたメールに目を通していく。
温かな空気によりまた、ふわりとムスクが香る。
フフフ。
朝子は、何だか自分がとても仕事ができるような、良い女になったような気がして、微笑んだ。
朝子が付けているのは、東京駅で一目惚れした店で買ったオーガニック系の香水である。
ハチミツが練り込まれていて、ハチミツはそのまま食べるのも飲み物に混ぜるのもパンに塗るのも大好きな朝子には、ぴったりだった。その場ですぐに電子マネーで買った。
家に帰ってひと吹きすると、部屋がいい香りに包まれた。
朝子はその日の夕ご飯は、ちょっと頑張って新しいレシピに挑戦したりした。
寝る前に、空気清浄機をネットで買った。
人の記憶に最後まで残るのは匂いだと、最初に聞いたのは、何処でだったろうか。
おそらくテレビか本で見聞きしたのだろう。
けれども、朝子がその知識を得た時真っ先に思い出したのは、何年も前に別れた男のことだった。
別れて何年も経ち、もう思い出すことは滅多になくなった頃、混雑した駅のホームでハッと立ち止まったことがあった。
匂いがしたのだ、あの男の。
だから、朝子は人の記憶に最後まで残るのは匂いだと知った時、既にもうそれを体感したことがあったため、ああ、なるほどね、と思った。
ああ、なるほどね。だからか、と。
ちょっと悔しくなくなって、その日は珍しく酒を飲んだのだった。
リンリン、リンリン。
テレビ会議を呼びかけるコール音が手元で鳴る。
朝子は直ぐに受話器ボタンを押した。
「はーい」
「あ、山田さん。今ちょっと良いですか?」
「はい、もちろん。どうぞ」
「あの、こないだ言ってた新規案件なんですけど…」
朝子はあぁ、はいはいと人好きがする相槌を打ちながら伸びた爪を弄んでいた。
朝子はちっとも仕事が好きではない。
貼り付けた笑顔によそ行きの声。それを少し遠くから、いつもの自分が見ている感じ。
話が長いな、と思っていると相手も察したのか、ようやくそこで会議は終わった。
「うーん」
腕を伸ばして首を両肩に交互に押し付けると、今度はハチミツが香った。
ヨガかピラティスが習いたいな、などと思う。
週一で午後有休をとって、習い事が出来たらどんなに素敵だろう。
手首にまた、ひと吹き。
本当に習ってしまおうか。
知らず口角が上がった朝子の元に、また呼び出し音が鳴った。
リンリン、リンリン。
「この人達、黙って仕事出来ないのかな」
朝子が息を大きく吸い込んだ。