紅子と蒼一|ショートショート
「蒼一と言います。」
随分と洒落た男の子でした。
黒い髪は耳の形に沿って綺麗に切り揃えられているのに、学生服のズボンの上には奇抜なシャツを纏い、柔らかそうな色と素材のカーディガンを羽織っていました。
夜なのに全開に開けられた窓。
カーテンが彼の後ろで揺らめいているのが見えました。
紅子と蒼一は、そうして出会ったのでした。
「先生、出来ました」
「はい、じゃあ見るね」
彼は紅子を先生と呼びました。紅子が彼の家庭教師だからです。
「全部正解。じゃあ次はこっち」
「はい」
カリカリカリ、というペンを走らせる音を聞きながら、蒼一が問題を解いている間、紅子は本を読んで待っています。
今日は『エルマーと16匹のりゅう』という本を読んでいました。
この世界のどこかに、本当に竜がいたらいいのに。
途中、そんなことを紅子は考えました。
「先生、出来ました」
「はい」
ふたりの間に、今のところ勉強以外の会話が発生したことはありません。
ですから、大抵の時間は沈黙です。
特に紅子は困ることもなく、寧ろ人付き合いの苦手な紅子にとってはありがたいことですらありました。
「こことここは合ってるんだけど、ここだけ違うね。これは、決まった式を使って解けば出来るよ」
紅子は赤いペンで横に数式を並べていきます。
このペンはボールペンですが消せるので、紅子は愛用しています。
「ふーん」
左の親指と人差し指でペンをくるくると回しながら、蒼一は聞いています。
ペン回し出来るの、羨ましいな。
紅子は思います。
今日も窓は全開で、夏の終わりのぬるい風と共に蚊でも舞い込んだのか、帰り道に紅子は三箇所も刺されていることに気がつきました。
こうして季節だけが変わっていきました。
「先生が来てくれて、本当に良かったわ」
ある日、紅子は帰りがけ、玄関先で蒼一の母親に呼び止められました。
「実は、家庭教師は先生で二人目なんです。お恥ずかしいのですけれど…。あの子、少し神経質なところがあって、前の先生とは上手くいかなくて。」
紅子にとって、蒼一の母親の言うことも、他の辞めていった家庭教師の行動も特に意外ではありません。十代なんて、程度はあれど誰もが皆神経質なように思えました。自身も含め。
紅子は挨拶をして家を出ました。
窓を見上げると、部屋の中から空を眺めている蒼一が見えました。
視線の先には満月。それも随分と明るい、。
紅子もぼんやりと月を見つめました。
どれくらい経ったのでしょう。
ふと紅子が我に返ると、蒼一もまだそこにいて、二人は目が合って小さく手を振り合いました。
「それ、俺も読んだことあるよ。」
ある日、初めて蒼一が勉強の話ではない言葉を発しました。
出会ってから三ヶ月が経とうとしていました。
蒼一は立ち上がると、本棚から一冊の本を取り出しました。
紅子が今手に持っているものと同じ本です。
「小さい頃買ってもらった。」
本の表紙は青い背景にメガネをかけた学者風の老人が立っていて、おそらくその老人は魔法使いなのでした。
「いい本だよね。」
そう話す蒼一が持つ本のあたまには、うっすらと埃が積もっています。
紅子は本棚を覗いてみました。
図鑑から文庫、漫画、参考書の合間にいくつか好みの本があります。
「今度、ここの本を借りていい?」
「うん」
頷く蒼一の眉は、この年頃の男の子らしい形をしています。
「先生」
「何?」
「解けました」
「はい」
それから、紅子は時折蒼一の本を借りるようになりました。
「大学って楽しい?」
また別のある日、蒼一はそんなことを聞きました。
少しずつ、勉強以外の話をする時間は増えていました。
「普通かな」
紅子は本から目を上げて答えます。
「中学と、どっちが楽しい?」
「変わらないよ。」
「彼氏とか、いないの。」
「いないよ。」
「友達いるの。」
「いるよ。」
「ほんと?」
紅子はスマートフォンに入っている学友との写真を見せました。
「蒼一くんこそ友達いるの。」
「いるよ。当たり前じゃん。」
蒼一は笑いました。笑うと目は三日月になります。
開いた窓から冷たい風が吹いてきました。
「窓閉める?」
紅子は首を振りました。
「蒼一くんの部屋だから、好きにしていいよ」
「じゃ、閉めます」
今度は紅子が笑いました。
「もうすぐ受験だね。終わったら、何かしたいこととかある?」
蒼一はうーん、と考えてから「ピアスの穴を空けたい」と言いました。
「先生ピアスの穴空いてる?」
「空けてないよ。痛そうだもの。」
痛みを想像して紅子は顔を歪めました。
本棚をみると、目新しい背表紙。
「これ、今日借りていい?」
「うん」
本棚には、気づけば見知らぬ本が増えていました。
ある朝のニュースでお天気キャスターが言いました。
「今夜は雪が降るでしょう」
今日が最後の家庭教師の日です。
「先生、出来ました」
「はい」
いつもの会話をいつも通りに。
それが却って二人を緊張させているように、紅子には思われました。
エアコンの効いた室内は暑いくらいです。
それが証拠に、本の中身が頭にちっとも入ってこないのです。
窓の外には雪が降り始めていました。
雪の日は外の音が小さくなります。
紅子には、時間が永遠のように長く感じました。
カリカリと問題を解く蒼一の横顔は、真剣です。
「出来ました」
「はい」
最後の問まできっちり正解。
これで家庭教師は終了です。
「それじゃあ、試験頑張ってね」
「うん。やっと終わる。」
蒼一は、机の引き出しから小さな箱を二つ取り出しました。
ピアッサーでした。
「先生が、俺に空けてくれない?」
紅子が答える間もなく、蒼一は窓を開けると窓枠に積もり始めていた雪を手に取り、耳に当てました。「冷やしたほうが痛くないんだよね」
「まだ受験終わってないじゃない」
「だって、先生もうこの部屋には来ないでしょ。」
寒さで蒼一の耳は赤くなっています。
「先生。いい?」
窓から雪がはらはらと舞い踊り、カーテンが風に揺れています。
そして、春がやってきました。
「先生、ありがとうございました。お陰様で合格しました。それにこんなお祝いまで頂いちゃいまして。」
渡された菓子折りを手に、蒼一の母は満面の笑みです。
「わざわざ来ていただいたのに、すみません。あの子、今学校なんです。」
紅子はそれを知っています。
ですから、平日の午前中にやってきたのです。
教え子の受験が終わったら菓子折りを渡しに行くのが、派遣先の決まりなのです。
「本当に、あの子ったら浮かれちゃって。ピアスなんかしてるのよ?卒業式もまだなのに。あ、先生もしてらっしゃったのね。今流行っているの?片耳だけ空けるの。」
紅子は会釈をして、蒼一の家を後にしました。
右耳には、買ったばかりの銀色のピアスが揺れています。
春です。