海の彼方
彼は物心ついた頃から泳ぐことが好きだった。
あんまりいつも泳いでいたら、両の首には深い切れ込みのエラが生えてきて、水の中で何時間でも呼吸が出来るようになった。
茶色く細い髪をきらきらとなびかせて、彼はスルスルと海を泳いで暮らしていた。
ある日、一匹のくじらが浜辺に打ち上げられた。
くじらは目を薄っすらと開けているが、もう限界は近そうだ。
悲しそうなくじらに彼が言う。
「大丈夫だ。俺が故郷に連れてってやる」
村の皆は力を合わせてくじらを押した。1日かけて、ようやくくじらは海に浸かることが出来た。
「必ず帰ってこいよ」
彼は親友と抱き合い、くじらと共に彼方の海へ旅だった。
くじらが案内する方へ進んで行くと、気づくとほかの生き物が見えないほど深くて暗い場所にいた。
「このあとどっちに行くんだ?」
彼がくじらに声をかけると、くじらはふっと瞬きをすると、そのまま目を閉じて頭から真っ逆様に沈んでいった。
「だめだ。1人になるな」
彼はくじらをぎゅっと抱きしめてそのまま2人は海の底へと沈んでいった。
下へ下へ。
一体どれくらい経ったのだろう。
音もない、光もないこの世界は時間の感覚を狂わせる。
くじらと触れ合う部分だけが確かな現実のようだった。
やがて下から淡い桜色の粒が沢山上がってきた。
粒はどんどん増えていく。
よく見ると粒の中は液体で黒い点がみえる。
これは卵だ。
珊瑚の卵かな。魚の卵かな。
気づくと様々な色の粒が溢れていて、光に包まれ始めた時、ふっと地面に足がついた。
くじらは音なく珊瑚や魚たちの上に覆いかぶさり、暗くなったのは一瞬で、程なくまた光の粒に包まれた。
見渡せばくじらの骨だらけなことに気がついた。
ここはくじらの墓だー。
くじらの骨を苗床に、珊瑚を始めとした様々な生き物たちの産卵が起きている。
卵だけではない。カニもイカも、サメもエイも、そのほか様々な海の生き物がここにはいた。
生き物の終わりと始まりがここに集結しているのだった。
やがて一匹のくじらがやってきて彼に目配せをし、村まで送ってくれると言った。
帰り際、光の粒は身体に絡まり、別れを惜しんでくれた。
村に戻ると皆彼の帰還を喜んだ。
彼は親友と再び抱き合い、その無事を確かめた。
「海の彼方はどうだった?」
親友が聞くと、彼は親友の肩に顔を埋めて笑った。
「俺らにはまだ早いよ」