都会の中のゲストハウス
「どうしよう…」
恋人と喧嘩をして同棲する5駅手前の家を飛び出したのが3時間前。
僕はもう途方にくれている。
財布の入った鞄をスられたのが1時間前。
新宿の街は、そこらの山々なんかよりずっと険しい。
人生と同じだ。
交番には届けたが、それで鞄が返ってくる訳ではない。
もう二十歳も過ぎているので親に連絡されることもなかったが、それでも一瞬、ほんの一瞬だけ実家の電話番号を頭の中で唱えた。
スマートフォンだけはポケットに入れてあったことが不幸中の幸いだ。
「といって、家に帰りたくないよなぁ」
僕はあてもなく、ぼんやりと新宿の街を歩く。
日曜日なのに、すごい人ごみだ。いや、日曜日だからだろうか。
電気屋の隣にラーメン屋があって、またその隣に電気屋があったりする。
パチンコの流れる音なのか、歩く人の話し声なのか、信号の鳴る音なのか。
とにかくずっと音がしている。
頭の中では、恋人から言われた言葉や僕の怒鳴った声がぐるぐるしている。
僕はそのまま、音に流されるように歩き続けた。
「あれ」
気づいたら、あんなにもゴミゴミ、ザワザワしていた街は閑静な住宅街になっていた。
新宿にも人が住める場所があるんだな。
僕は新宿区民が聞いたら怒りそうな感想を思いながら、周りを見渡した。
そこでふいに、アパートの柱に貼られた1枚の紙が目に入った。
『都心の中のゲストハウス!喧騒に疲れた方を癒します。1泊から可能。』
へぇ。面白い。
僕はふらふらと誘われるようにアパートの階段を登っていった。
「いらっしゃいませ」
その人は、どこか現実感が希薄な人だった。
長くつのようなブーツを履いて、首には薄い布のストールを巻いていて、猫のようなアーモンド型の目をしている。
このゲストハウスのオーナーらしい。
「すみません、泊まりたいんですけど。あ、でもえーと現金がなくて」
僕は財布が無いことを思い出し急に慌てる。
そうだった。すっかり忘れていた。
「クレジットカードがあるなら、インターネットから決済もできますよ」
何でもないような顔をして、その人は手元のQRコードを指差す。
「あ、じゃぁそれをちょっと試してみます」
便利な世の中だ。
幸い、決済方法は別のサービスで使ったことのあるものだったのですんなり支払いは完了した。
それにしても、ゲストハウスはなんとも形容しがたい空間だった。
ただの普通の家なのだ。
ゲストハウスというものに来たことがないのだけれど、こんなものなのかな。
一階は受付とキッチンとダイニング。
二階が今日、僕が泊まる部屋。リビングと寝室の2部屋だ。
そして3階は。
「私の部屋です。決して覗いてはだめですよ」
その人はいたずらっぽい顔をして笑った。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
布団から清潔ないい匂いがしていたし、毛布はふわふわだった。
寝転んだ横には、窓から都会の夜がみえる。
もっと、明るくてうるさいものかと思っていたけれど、想像以上に暗くて静かな景色だった。
僕の生まれ育った街を思い出す。
そういえば、もう半年帰っていなかった。
その時、キン、と音がした。
金属の何かを弾いているような音。
もう一度。キン、キン。
楽器の音だ。
どうやら3階から鳴っている。
僕はそうっと3階に上ると、ドアをノックした。
「あれ、うるさかったですか?」
その人はドアを開けて僕を見上げた。
Tシャツにスウェットを履いていて、もうすっかり寝る前の格好になっているのをみて、僕は慌てる。
「すみません。違うんです。楽器の音がしたから気になっただけで」
あぁ、と振り返って部屋の中をちらりと見ると、その人はドアを全開にして手のひらを広げた。
「良ければ、どうぞ」
部屋の中には沢山の楽器が並んでいて、僕は唖然とした。
小さいものから大きいものまであって、ほとんどが名称がわからないようなものばかりである。
楽器が並んでいるだけで、なんだかちょっとしたアンティーク店のようだった。
「今、調律をしていたんですよ」
その人は、手のひらサイズのピアノみたいな楽器を持ち上げてみせた。
そして再び作業に戻る。
木の板のようなもので、ピアノの金属の板を押しては弾いて、耳を当てて、押しては弾いて、の繰り返しだ。
僕も座ってそれをみる。
キン。
キン。
夜の闇に音が響いては、消えていった。
翌朝、僕はまっすぐ家に帰った。
あんなにうるさかった新宿の音は、ちっとも気にならなくなっていた。
「ごめんね」
家に帰ると、僕は最初に恋人に謝った。
恋人は頷くと、私もごめんね、と謝った。
恋人を抱きしめながら、僕の頭の中では、あの夜の余韻がずっと静かに鳴っていた。
不思議な不思議な場所だった。
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