骸の花
ある日、足の親指が喋った。
「すみません、
貴方に死なれると困るんですけども」
今から話すのは僕の秘密についてだ。
僕の親指には、僕ではない"何か"がいた - 。
中学受験に失敗した日、僕は風呂場で一人、剃刀をみつめて立ちすくんでいた。
このままこれで死んだら楽かなぁとか、でもすぐには死ねないから痛そうだなぁとか考えていた。
そうしたら喋ったのだ。足の親指が。
聞けば、親指は僕の身体に最近寄生したらしい。
僕を宿主として栄養を摂取しているから死なれては困るのだとか。
親指は言った。
「私達の種族の成長は酷く遅いのです。最初は幼体の状態で足の指に寄生し、そこから時間をかけて腹、胸、肩と徐々に人間体の上部へ移動します。およそ100年かけて脳へ辿り着き、そこでやっと羽化します。
羽化と同時に人間体は死にますが、それまではあなたの生活を何一つ邪魔することは致しません。
ですからどうか、死なないで」
俄かには信じ難い。
しかし僕の親指が実際に喋っている以上信じざるを得ない。
開いた小窓から吹き付ける風は、妙に冷たく感じられた。
寒くて場所を変えようと思って、剃刀を置いたら途端、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきて、僕は笑った。
”寒い”だなんて。死ぬ気なんて最初からなかったじゃないか。
僕は親指に言った。
「いいよ、でも後100年も生きられるかな」
「精一杯サポートします」
そうして僕らの奇妙な共同生活が始まった。
親指は勉強が好きだった。
親指自身が物を見聞きすることは出来ない。しかし僕がそれをすれば身体を通じて親指も知ることが出来る。
僕が授業で先生の話を聞く度、僕がノートを書く度、親指は喜んだ。
「世界史が好きです」
親指は言った。
「僕は数学が好き」
僕が数式をノートに書くと、親指は身を捩って嫌がる。「私は数学は嫌いです」
僕はどんどん数式をノートに書いた。
「やめて、やめて」
親指は笑いながら指の中を動き回る。
ひとしきり追いかけ合って、ようやく僕は満足した。
「ごめんごめん。それじゃあ違うものを書くよ」
ノートに絵を描いてやると、親指は嬉しそうにする。
「美術も好きです」
親指は言った。
知ってる。それは僕達の数少ない共通項だった。
大学の合学発表の際は、親指は泣いていた。
「落ちたら、また貴方が死のうとするんじゃないかと心配でした」
僕は苦笑した。
「しないよ。それに中学受験の時だって本気じゃなかったし」
親指は「どうだか」と言って、それから「おめでとう」と指の中で拍手した。
就職して、結婚した。
その間も親指はずっと一緒だった。
親指は、その頃は脛に移動していた。僕は聞いた。
「もし僕に子供が出来たとして、その子にも君はいるのかな?」
「いいえ。私はあくまで貴方の身体に寄生しているだけ。あなたの精子に影響はありません」
そこで親指は声を潜めて言った。
「それよりも、今日ケーキなど買って帰った方がいいんじゃないですか。陽子ちゃん、まだ怒ってますよ」
陽子ちゃんというのは、僕の妻だ。
「余計なこと言うなよ、思い出しちゃったじゃないか」
今朝方の喧嘩が脳裏に蘇り、僕は溜息をついた。「何ケーキがいいと思う?」
「陽子ちゃんはやっぱり、モンブランじゃないですか」
モンブランを買って帰ると、妻は「今日はチーズケーキの気分だった」と言い、この日僕達は遅くまで”女心”について議論した。
なお結論は出ていないことをお伝えしておく。
やがて子供が生まれた。双子だった。
親指は子供たちを大層可愛がっていた。
週末は家族でだだっ広い公園へ行くのが、ここ最近の我々のブームだ。
薄青い空の下、永遠のように蔓延る白詰草で、僕達は子供たちに花冠を編んでやる。
僕は聞いた。
「羽化する時ってどうなるの?」
親指は答えた。
「脳に辿り着いた私は蛹となり、その後ほどなくして羽化します。
羽化する時は、あなたの脳天を突き破って外に出ます」
「それはなかなか難儀だな」
「頑張ります」
意気込む親指に、僕は花冠を載せてやる。
「お前は、どんな姿をしているの?」
僕が聞くと、親指は答える。
「分かりません。虫の様かも知れないし、花の様かも知れないし、人の様かも知れません」
親指は、僕の膝に移動していた。
そして月日は流れた。
僕はこの100年、ずっと想像してきた。
僕が死ぬ瞬間を。
老いた僕の身体を苗床として、脳天から生まれる彼の姿を。
それはきっと、
この世のものとは思えないほど
美しい。
だからどうか、その姿を見届けて欲しいのだ。
- この手紙を読んでいる、親愛なる君へ。
special thanks ---
このお話は、サメブロスさんをモデルに描かせて頂きました。
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