今日のご飯は、夢の外│ショートショート
その日、彼が『定食屋ササミ』に行くと、カウンターには背筋の綺麗な青年が座っていた。
「こんなにゆっくり、食事をしたの、久しぶりです。」
青年が言った。
「食べ物を残すのも、久しぶりです。」
笑顔は、はにかんでいて幼さない。
「それなら、良かったです。」
ササミさんが、にっこりと笑う。
気づくと彼は、ササミさんに渡そうと思って先ほどそこらで詰んだ花を、青年に差し出していた。
何故だか、渡したくなったのだ。
けれど、青年は首を横に振った。
「手ぶらで、行きたいんです。」
青年は空いた手を大きく上げて、「それじゃあ」と綺麗な背筋で店を出て行った。
カウンターには、小皿に黒豆が、綺麗に3つ残されていた。
「昔から、嫌いなんですって。」
ササミさんは言った。
「食べ物を残すなって、小さい頃から私も言われてきた。けれど大人になると、何故か急に、残すことが許されるのよね。罪悪感と安堵の入り混じった、あの独特な感じ。」
まあでも、嫌いなものは食べないに越したことはないわ。
そう言ってササミさんはお皿を下げた。
ここ、『定食屋ササミ』は、彼の夢の中の店である。
彼はいつも決まった夢を見る。それが定食屋ササミだ。
店には、彼以外にも客が来る。彼の夢なのに、それは不思議だったが、だけれど毎日同じ夢を見るのも不思議であるので、彼は深く考えない。
不思議なことは、気づかないだけで身近に沢山、きっとある。
「はい、本日のオススメです。」
本日の定食は、煮魚にお浸し、黒豆のゼリーだった。
煮魚はホロホロとしていて甘くて、煮汁で口の中がじゅるり、とした。お浸しの上には鰹節が載っていた。黒豆のゼリーは、黒豆の味がした。
「ご馳走様でした」
彼が皿を空にして言うと、ササミさんはにっこりして言った。
「それじゃ、今日は閉店です」
翌朝、目を覚ますと喉が渇いていた。
水を飲もうとして起き上がると、同時にふらついて、ベッドに倒れ込んだ。
落ち着け、落ち着け。
自分に言い聞かせながら、彼はゆっくりと息をする。
そういえば、もうどのくらい、まともな食事を”現実に”していないのだろう。
かろうじて細く開けられた視界の先に、栄養補助食品の食べかけの箱が見える。
昨日の定食、美味しかったな。
薄れていく意識の中、彼は思った。
結局、その後意識は戻ったものの体調は回復せず、会社を休職することになった。
「無理しないで、今後のことも含めて、ゆっくり考えたらいいよ。」
上司のその言葉に、辞職、の二文字が透けて見えた。
次の就職先の当てを探さないと、と彼が思っていると、先輩Aから連絡が来た。
「お前が金魚を譲った店に行かねえ?」
先輩Aは言う。
金魚を譲ったことは、さっぱり覚えていないが、暇だし彼は行くことにした。
その店は、古めかしく、外に張り出した換気扇は真っ黒だった。
「昔は焼き鳥屋だったから」
と店主が言う。
「今は、何でも出しちゃうよ」
ことん、と、Aとの間に置かれた皿に、彼は手を付けなかった。
「君がくれた金魚ね、あれから随分元気にしてたんだけど、この間死んじゃってね。君も結構長く飼ってたそうだから、寿命だったのかもしれないね。」
店主は済まなそうに言った。
「今は、うちの婆さんと一緒に、あそこに居るわ」
指差した先には、小さな仏壇があった。
そばに行って見てみると、位牌の隣に小皿が置いてあり、そこには数粒の砂が置かれていた。
金魚の水槽に敷いていた砂だろうな、と彼は思った。
「お前、この店を手伝わないか」
Aは言った。
「食うのが無理なら、作る方をやってみたらどうだ。そのうち、食べられるようにもなるかもしれないし」
Aは目の前の皿に箸をつけると、「美味い」と言い、「おじさーん、これ、美味いよー」と奥に声をかけた。
彼は、ササミさんのことを思い出した。
綺麗な赤色の和服を着ているササミさん。帯はヒラヒラ、フワフワしていて浴衣のようだった。
「嫌だったら、残していいんですよ」
ササミさんの声が聞こえた気がした。
彼は、恐る恐る目の前の食べ物を食べてみた。
口に入れると、酸っぱい味が広がった。土臭い食感。唾液と混じって、何とも言えない気持ちになる。
数分かけて、ようやく一口を飲み込んだ。
「ごぼうサラダだ」
彼は言った。
そりゃそうだ、見たら分かったでしょ。と、Aが笑った。
その夜、夢の中で店に行くと、ササミさんは店の外で待っていた。
「食べられましたか」
彼が頷くと、ササミさんも、頷いた。
「良かった、良かった」
手を合わせて、小さく拍手をしてくれた。「おめでとう」
すると、サラサラと、店が砂になって消え始めた。
「良かったですねえ」
ササミさんは、ニコニコとしていた。
「ササミさん」
彼は、ササミさんの手を取った。
「また、会える?」
もちろん、とササミさんは言った。
「もちろん、今度は、現実でね」
目が覚めると、そこはいつもの自分の部屋だった。
真っ白い天井、殺風景な部屋。
冷蔵庫を開けると、ペットボトルの水しか入っていない。
彼は、スーパーへ行って野菜やら肉やらを買った。
「今日のオススメは、何にしようか、ササミさん」
お腹いっぱいになって眠った彼は、その夜、夢を見ることは無かった。
前の話 ▼
① https://note.com/toufucoro/n/n2acfb88f5088
② https://note.com/toufucoro/n/n14d19ac97b29