何でもない
「え?」
思わず振り返ると、彼は鼻唄を歌っていた。
私は一瞬話しかけられた気がして、声を出し、それからすぐに『あ、鼻唄だったか』と気がついた。
疑問符の付いた声は脊髄反射で、その後に私の脳が『鼻唄』と認識したという事だろう。
私はなんだか少し嬉しくなる。
「これ、いい曲だよね。俺好きなんだ」
彼はのんびりと言って、その先を続けて歌っている。
指先は目の前のノートパソコンに置かれているが、それは形ばかりで、彼はキーボードをほとんどさっきから叩いていない。
「全然レポート書けてないじゃん」
私は言ったが、これも形ばかりだった。
課題を一緒にやろう、と言って2人で学食に来たものの、別に互いのレポートが完成しようがしまいが関係ないのである。
要は2人とも、退屈で時間を持て余していただけなのだ。
私と彼は、幼馴染だ。
恋人関係になったことは一度もない。
この歳になってもつるんでいると、『付き合っちゃえば?』などと言ってくる者も多かったが、そんな気になる事はさらさら無かった。
私と彼の関係は、ちょうど今で事足りているのだ。
「そんな必要ないから」
私はいつもそう言っていた。
『必要ない』
その言葉が、一番しっくりくる。
そう、彼が恋人である必要など、ないのだ。
あるいは友達、幼馴染といった肩書きだって、あってないようなものだった。
「あー、暇」
私が意味もなくそう呟くと、彼も言う。
「俺もそれ、思ってたわ」
「いや、あなたはレポート早くやりなよ」
「君こそ終わったの」
「もうあと少しで終わるよ」
意味のない軽口。
これも脊髄反射に近いなぁなんて、思いながら私は外を眺める。
季節は5月の終わりで、時間は午後2時。
太陽の陽射しはぎらっぎらだ。
それでも窓から流れ込む風はほんのりと涼やかで、まだ夏じゃないことを感じさせる。
「え?」
彼が何かを言ったようで、私は聞き返す。
「鼻唄、歌ってたね。俺のがうつった?」
彼は楽しそうに笑った。
私は思わず口元を押さえて、それから考える。
鼻唄がうつって無意識に歌うのは、一体どういう原理だろう。
「あー、暇だ」
彼は歌うように言った。
何でもない日の何でもない課題。
何でもない関係の目の前の彼。
私の毎日は、何でもないことで出来ている。