僕とカタツムリの夜
ある朝、ベランダに出るとカタツムリがいた。
もう季節は秋で、肌寒い。
「こんな時期に、どうしたお前」
僕は親指と人指し指でそうっとつまんでみる。
朝の乾いた空の下、カタツムリの殻は澄んでいた。
会社から帰ってくると、カタツムリはまだそこにいた。
手のひらに乗せると、じいっとしたまま動かない。
僕はカタツムリはそのままに、反対の手で煙草を吸った。
なんだか、今日は無性に疲れていた。
ふーっと煙を吐いて、ベランダから見える狭い夜空を見上げる。
気づくとカタツムリが、殻から頭を出してツノを伸ばしていた。
こいつも疲れているのかもしれない。
「お前、一緒にメシでも食うか」
するとカタツムリが言った。
「良いよ」
そうしてカタツムリは女の子の姿になった。
僕と同じ位の歳で、小柄で、真っ黒い目と澄んだ肌をしていた。
彼女は人指し指を僕の口に当てて言った。
「特別だよ」
手際良く料理する彼女の様子を、僕はまじまじと観察する。
手が小さい、顔が小さい。彼女のパーツはどれもだいたい小さい。
「もうすぐできるからね」
彼女が振り向いて、僕は慌てて目をそらす。
彼女が作ったのは、野菜炒めだった。
「美味しい」
そう言うと、彼女は嬉しそうな顔をした。
透き通った肌に赤みがさす。
そして炒めていない野菜を別の皿にも載せて
「私はこっちを食べます」
と生野菜をポリポリと齧った。
野菜炒めは本当に美味しくて、僕はあっという間にたいらげた。
食後、僕たちはテレビもつけず、後片付けもせず、2人して足を投げ出してぼんやりとしていた。
「なんかちゃんとしたメシ食べたの久しぶりだな」
「普段どうしてるの?」
「仕事忙しいし、コンビニとか適当に」
「そっか」
そんなとりとめのない話の繰り返し。
彼女は、黒々とした目で僕を見上げた。
「たまには、ゆっくり食べたらいいよ」
彼女の声は、僕の耳から身体に、じんわりと浸透するようだった。
「食べられるかな」
僕がそう言うと彼女は身を乗り出した。
「じゃぁおまじないをしてあげる」
僕の手を取り、指で何やら模様を描く。
手の甲がくすぐったくて熱くなった。
「私、そろそろ行くね」
気づくともう、夜中の2時だった。
「冬眠の準備をしないとだから」
理由がちゃんとカタツムリで、女の子の姿なのになんだか可笑しくて笑ってしまう。
僕が立ち上がろうとすると、彼女が遮った。
「ここで大丈夫」
僕は何か言いたくて、でも気の利いた言葉は1つも頭に浮かばない。
「ご飯、美味しかった。ありがとう」
やっとの思いでそう言うと、立ち上がった彼女が振り返って僕を見た。
「私は、誰かとご飯を食べるのは今日が初めてだったよ」
そして彼女はにっこり笑うと電気を消した。
ぱちん、と音がして暗闇が訪れた。
翌朝ベランダに出ると、やっぱりカタツムリはいなかった。
僕は冷たい空気の中で、煙草を吸おうとライターを取り出す。
その時、手がきらりと光った。
カタツムリが通った跡だ。
模様を描いたそれは、まるで僕を試すかのように、僕の右手の甲に刻まれている。
おまじない、か。
僕は煙草の煙をふーっと吐いた。
大丈夫。
今日は、早く帰るよ。