サイバー.C.プロジェクト /第1話
『逃げて。此処から逃げて。』
頭の中に見知らぬ声が響く。
その声に従い、彼女はとにかく出口を探していた。
時折頭の奥がズキンと痛む。どうやら頭を強く打ったらしい。
この建物は、方向感覚を狂わせる。
真っ白い壁に真っ白い床と天井。窓は1つもなかった。合わせるように、彼女は白い服を着て、白い腕輪をつけている。腕輪にはCという文字が刻まれていた。
長い髪をくしゃりとかきあげて、彼女は必死にもう一度考える。
ええと、頭を打つ前は何をしていたんだっけ。
しかし何も思い出せはしなかった。
頭を打った原因も、なぜこの建物にいるのかも、自分の名前さえも。
カツン、カツン。
足音がして、彼女ははっと顔をあげ、咄嗟に物陰に隠れた。
自分が追われているのかは分からないが見つかるのは良くない気がした。
足音が通り過ぎて再び人気がなくなると、彼女は足音が来た方向を確認する。
奥には大きなドアが1つあった。
何かあるかもしれない。
彼女はドアの前にあるスイッチにそっと手をかけた。ピッと小さく音がして彼女の両目に赤い光が走る。
「認証しました」
音声が流れてドアが開いた。
中はさっきとはうって変わって黒い空間だった。
広い部屋の中には、壁のようにコンピュータが立ち並んでいる。
ピカピカ、ピカピカ。暗闇の中にコンピュータの青い光が至る所で瞬いた。
まるで宇宙にいるみたい。
彼女はしばしうっとりとみとれていた。
突然スン、とドアの開く音がして部屋の電気がつく。続いて人の話し声がした。
「進捗はどうなんだ?」
「今はキーをテスト作動させているところです。もともと対になってるものですから、相性も問題ありません。このままならあと3ヶ月ほどで実稼働できるかと。」
入って来たのは、白衣を着た2人組。
彼女はコンピュータの陰に身を潜め、じっと彼らを観察する。
1人は白髪混じりで背が高い男だ。髪はぼさぼさでひどい猫背だった。
もう1人はまだ若い。
少年、と呼べるほどの年齢だろうか。
背は白髪男の肩までしかなく、話し方も乱暴で、耳元のピアスがやけに目立っていた。
しかし、それは彼女をどこか懐かしい気持ちにさせた。
「先日のテストでは、このサイバーシティの0.0000006パーセントの住民の全コンピュータデバイスに侵入。一切関知されることなく、C電子の埋め込みが完了しています。その後、住民たちの発言や行動はこちらの予測通りになっていることが確認されました。」
白髪男がピアスの少年に説明する。
"C電子"。
その言葉を聞いて彼女は自分の腕輪を再び確認する。
何か、繋がりがあるのだろうか。
「そこまで出来てるんなら、もういいよ。」
ピアスの少年がコンピュータの上に腰掛けながら言う。「もう本稼働に入ろう」
それを聞いて、白髪男が慌て始めた。
「ええと、分かりました。いつにしましょうか。」
白髪男が聞くと、ピアスの少年はにっこりと、不気味なほどにっこりと微笑んでこう言った。
「今すぐ、だよ。あいつをここに連れてこい」
瞬間、彼女の背筋は凍り、手足が震えた。
私はこの人を知っている。
さっきまでの懐かしい気持ちはとうに消え失せた。
『逃げて、逃げて』
頭の中の声はさっきよりも大きくなっている。
その時、突然ビーッビーッと警告音が鳴った。
「侵入者発見。侵入者発見。現在館内を逃走中。繰り返します…」
ピアスの少年がチッと舌打ちをする。
「何やってんだよ」
2人の男は足早に部屋を出て行った。
その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。気づくと建物の外にいた。
換気ダクトや排水溝を通ったことと、停電が起きたこと、不思議と誰とも遭遇することなく出口までたどり着けたということが、かろうじて思い出された。
もう頭の中の声は聞こえなくなっていた。
建物の外は、岩や木々に囲まれていて星空が近い。
彼女はそこで初めて、建物は山の中にあったのだと知った。
身体じゅう泥だらけでヘトヘトだった。
彼女は山を下りながら、これまでのことを考える。
記憶喪失。
C電子。
白髪男とピアスの少年。
そして頭の中の声。
私は何者なんだろう。
ふと気づくと、明るい道に出ていた。
人の話声がして、声がする方に向かう。
そこは広場のようになっていて、その下にある大きな街を見渡せるようになっていた。
「サイバーシティの夜景は世界一だよね」
近くにいたカップルの女性がはしゃいでいる。
彼女は街を見下ろした。
街の家やビルの灯りは揃って橙色に輝いていて、夜の暗闇に煌びやかに浮かんでいた。
中央には巨大な電波塔がぼうっとそびえ立ち、青白く光ってまるで彼女を挑発するかのようだった。
それはどこか、この世のものではないかの光景だった。
現実と非現実の境目にいるようで、足元がおぼつかない。
それでいて、目を離すことができないほどに惹きつけられる何かがあった。
「よし、大丈夫。行こう」
彼女はにっこりと笑うと、自分を抱きしめるかのように、腕にはまった腕輪に触れた。
刻まれたCの文字が、電波塔に照らされて青白く浮かび上がっていた。