平成東京大学物語 第8話 〜35歳無職元東大生、高校の先生に東大を受けろとさんざん言われたこと、ビッグになりたいと思ったことを語る〜
高校に入学したころは、地元の大学に進学しようと思っていた。それは駅弁大学と揶揄されることもある、どの都道府県にもひとつはある公立大学のうちのひとつだった。生まれ育った街を離れることがあまり想像できなかったのである。しかし田舎の教育界は、ぼくの能力を見過ごさなかった。難関校と呼ばれる大学にできるだけ多くの生徒を送り出すことが、進学校を自称する地方の公立高校の悲願だった。定期的に行われる進路面談を通じて、ぼくの志望校はどんどん変わっていった。一年目には、地元の公立大学から、旧帝大のうち、地元に近かった九州大学になった。二年目には、九州大学から、京都大学になった。三年生になってからは、クラス担任だけでなく、学年主任の先生もぼくの面談に同席するようになった。ぼくの成績のことは学校中の先生が知っていた。どの先生も、折りを見つけては、東大を受けろと言った。体育の先生ですら、お前が関西弁になって帰ってくるのは、いやかっさ、などと言ってきた。高校中をあげた包囲戦の効果はてきめんで、ぼくに東大以外の選択肢はなくなってしまった。田舎の高校の意地だった。特にぼくに目にかけてくれた学年主任の生物の先生は、近いうちに教頭になり、いずれはその地方の教育界の重鎮になるだろうともっぱらの噂だった。
でも、ぼくは大学というところがそもそもどんなところなのか知らなかったし、そこでなにができるのか、なにをやりたいのかも考えたことがなかった。
ただ、漠然と尊大な希望を抱いてはいた。東大に入ったらぼくの人生は大きく変わるように思われた。大学のことはよくわからないけど、田舎を離れ、テレビでいやというほど見せつけられている大都会、日本の中心に出ていくことになるのだから。後日、受験のために初めて東京を訪れてからは、田舎にいても、はるかに離れた首都の印象をいつも反芻していた。そこは街というよりも得体の知れない大伽藍で、レンタルビデオでよく見ていたドラえもんの映画にでてくる大冒険の舞台のように思われた。
ぼくは自分の将来についてもなにも考えていなかった。なんとはなしに、親の商売をつぐのかと思っていたくらいだった。でも東大を受験することが決まって、東京へ出て「ビッグになりたい」と思った。どのようにして、どのような存在として世の中に名前を知られたいのかは考えていなかったけど、そう思った。
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