わたしの「いのちの活性度」
自分の「いのちの活性度」はどれくらいだろうか。
「kodou」という、自分の指から伝わる心臓の拍動が光となって瞬く装置を見ながら、ふと考えた。
先日オンラインで開催された「pray with kodou 〜いのちが光であったなら」という、イベント。
kodouという指先の脈波と連動して明かりがつく装置が事前に送られてくる。
同様にしてあらかじめ送られてきた3種の中国茶が、嗅覚と味覚を通じて、記憶の旅へと誘う。
涼やかな青茶で人生最初の記憶を辿り、老木の白茶が思春期から今に至る時の積み重ねを、さらに深みある黒茶で老年期から自分の人生を閉じるまでに想いを馳せる。
その中で「いのちの活性度」という言葉が浮かんだ。
私の「いのちの活性度」は、幼少期は当然未熟さもありつつ無邪気にいられたから30〜40%くらい。その後20代中盤くらいまではガクッと下がって15〜20%くらいだったと思う。
なんというか、今思えば自分との付き合い方や、世界との距離感がわからずに息を潜めていた。
たぶん、私は今が一番活性していて、150%くらい。
いのちが心と体にフィットしていて、そう考えると、かなり幸せだ。
これからの未来、天命を終えることまで時計を進めてみると、私にとっての死は、やわらかく心地良さを感じるものだった。
土に還る安心感や温かみ。
お茶を口に含みながら、変性意識の中でそんな感覚を味わった。
そして、手の中で瞬く光=わたしのいのち、に意識を向ける。
手作りされた「kodou」の装置は、すこし接触が悪いのか、ちょっとした角度をサポートしないと明かりが反応しない。
手のかかる、デリケートな「いのち」。
心臓はほおっておいても、けなげに自律的に動くけれど。
私たちの「いのち」は、本来そうやって気にかけてあげる必要があるのだと思う。ちゃんと活性しているか、ちょこちょこご様子伺いする。
鼓動のスピードは徐々にゆっくりになって、そのうちに止まる。
どんな風に止まるかは、わからない。
でも、最期の時を迎えるまで「いのちの活性度」はあげていく。
そんなつもりで生きる。
そして、いのちの活性度があがるセラピーを。
■ 小松ゆり子 official web site
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