「生前葬」初体験
11月6日、7日に参加したOiBokkeShi「レクリエーション葬」ワークショップ初日に僕が体験したことだ。涙をこぼした自分にびっくりしていた。
今年は9月から認知症・介護と演劇に関わるイベントや舞台に接してきた。狙っていたつもりはない。ただ、気になりはじめたテーマのイベントが連なって目の前に現れ、それらに淡々と参加した感じだ。
特に11月に参加したワークショップ(冒頭の体験)がなかなかに衝撃だったので、自分の整理のために9月からの状況を振り返っておきたい。
■「老いと演劇のワークショップ」
9月18日、兵庫県養父(やぶ)市で開催された「老いと演劇のワークショップ」に参加した。
講師は認知症ケアに演劇的手法を取り入れたワークショップを主宰されている俳優で介護福祉士の菅原直樹さん。
穏やかな菅原さんの語りによって、知らず知らずに引き込まれるアイスブレイク。そして、疑似体験を踏まえながら、認知症の方の振るまいを「正す」のか、「受け入れる」のか…という大切なテーマへの切り込み。見事なワークショップだった。
認知症の自分の母と接しているときの自分自身を振り返ると確かに「演じ」ている。そして「正す」「受け入れている」を場面場面で変えている。確かに演劇(演じること)と介護の相性はとてもよさそうだ。
講師の菅原さんの言葉だ。この言葉を聞き、「認知症ケアに演劇的手法を取り入れる」という菅原さんの活動に興味を持った。
このとき配られたチラシで、10月22日にロームシアター京都で菅原直樹さんの劇団OiBokkeShiが「レクリエーション葬」という舞台を演じることを知る。
面白そうじゃないか。
迷わずチケットを購入した。
■「レクリエーション葬」
10月22日、時代祭で人があふれる京都の街を抜けロームシアター京都へ向かった。
ホールに入ると「観客は生前葬のイチ参加者目線で物語の進行を見守る」という会場構成。
物語の主人公は、老人ホームに入居している97歳の岡谷正雄。それを演じるのは97歳そのままの岡田忠雄さん。劇団OiBokkeShiの看板俳優である。
主人公の岡谷さんは「命を懸けることができるレクリエーション」を欲している。そんな岡谷さんの希望に応えるために介護職員が提案したのが「生前葬」だ。「生前葬」にハマった岡谷さんは老人ホームで「月に1度死ぬ」ことになった。
レクリエーションとしての「生前葬」に本気の演技を求める岡谷さん、それに応えていく介護職員。そして、半年が経った時、とある介護職員の悩みは募り、新しい入居者・認知症の老婦人が現れる。
そこから物語が始まった。
現れた認知症の老婦人を演じる女優さんの歩く姿がとてもリアルだった。その姿はそのまま僕の母の姿と重なり、僕の気持ちは物語の中に落ちて行った。泣いたり、笑ったり、自分の中にいろんな感情が駆け巡る。観終わったとき「とんでもないものを観せられてしまった」と一人つぶやいた。
このとき配られたチラシで、「レクリエーション葬」をモチーフにしたワークショップが同じ会場であるロームシアター京都で11月6日、7日に開催されることを知る。
面白そうじゃないか。
しかし、ここでは少し迷った。
ワークショップは
「レクリエーション葬」をモチーフに、これまでの人生を振り返ったり、自分の最期を想像したりして、レクリエーション感覚で自分の生前葬を企画していきます。最後には、グループに分かれて自分たちの考えた生前葬を発表する。演劇経験は不問。
というもの。
「演劇経験は不問」となっているとは言え、演劇未経験の僕が参加して本当に大丈夫なのか不安だったからだ。しかし、自分の中で9月から続いている認知症・介護と演劇に関わる流れに押されるように、ワークショップへ参加した。
■「レクリエーション葬」ワークショップ
ワークショップは
●まず自分の生前葬をイメージする(最後に会いたい人、話したいこと、流して欲しい音楽などを考える)。
●2グループに別れてそれらを共有。
●そのグループ内で共有したイメージをもとにグループで1つの演劇に仕上げていく。
という流れだ。
僕は生前葬で「最期に会って話をしたい人」の一人を母とした。母は陽気な人で家族のムードメーカー。しかし、いろいろ苦労をしている人でもあった。僕は自分が成長するにつれ陽気な母の姿の裏に透けて見える苦労を感じ、どこかで心配していたような気がする。心配していることは見せてはいけない気がしていたから、口にも態度にも出していなかったつもりだ(出ていたかもしれないが)。
そして、現在の母は認知症。毎週帰省して実家で会っているものの、僕のことをほぼ認識できていない。
「もう一度母ときちんと話がしたい。いろいろ謝りたい。そして、ありがとうと伝えたい」そんな思いで僕の生前葬イメージに母を登場させたかったのだ(という分析は後になって自分の中でジワジワ整理したこともである)。
その思いをグループ内で説明しようとすると言葉が出なくなった。
しばらく沈黙してしまい。その後に出たのは言葉でなく涙だった(それがこのnote冒頭の場面です)。
言葉に詰まってしまった僕への配慮で「いろいろあるからね」と声をかけてもらった。しかし、僕は詰まりながらも説明を続けた(つもり)。「きちんと自分の言葉で説明し切っておきたい。しなければいけない」という思いからだ(最後まで説明できていただろうか)。
「言葉で表す」ことは「活字で表す」よりも相当なエネルギーが必要。
そのことをシミジミ感じた。
「言葉にすることはちょっと厳しいので」と細かな説明を控える方もいた。今思えばそれは冷静な判断だろうと分かる。僕は冷静な判断ができずに「正面突破を試みて撃沈した」ケースと言えそうだ。
「この共有の時間だけでお腹いっぱいです」という声がでるほどエネルギーを使った「イメージ共有」の時間だった。
僕のグループで仕上げる演劇は、グループメンバーの3つのエピソードを採用することになった。なんと、3つのうち2つが僕のエピソード(「母のもの」と「2年前に亡くなった友人のもの」)である。
大まかに練習して初日終了。
グループワークの興奮を引きづりながらの帰路、大阪・神戸方面に帰るグループメンバーと電車の中で「とんでもない体験をしましたね…」とずっと語り続けていた。
2日目は、再度練習しながら演劇内容を仕上げる。そして、2つのグループそれぞれが発表する。という流れ。
初日で役柄がおおよそ決まったので、僕は役柄に合わせるためスーツのままで臨んだ。ワークショップは「動きやすい服装で」ということだったのだが、2日目の服装は役柄重視。
講師の菅原さんからのアドバイスもいただきながら、それぞれグループとしての演劇が完成。僕のグループは後で演じることになった。
まずは別グループの演劇を観る。
引き込まれる。みなさん演劇経験者だったのか?と思わせるようなすごい完成度だ。
そして、いよいよ僕のグループ。いろいろアドリブも入れながら演じ切る。
最期のシーンは「僕の生前葬」へ参加しているみなさんへ僕からの感謝を伝えると共に絶命(を演じる)するというもの。
僕の絶命と同時に照明が落ちる。そして、ミスチルの「永遠」が流れた。
ミスチル「永遠」は、ワークショップの初日で「自分の生前葬で流して欲しい曲」として僕が選んだ曲だ。(ベタベタで若干お恥ずかしい。実はこれは「自分の生前葬向け」というより「2年前に亡くなった友人を思い出させる」曲でした)
両グループとも凄かった。講師の菅原さん、および運営スタッフさんからもおほめ頂いた。
とても貴重なワークショップだった。「演じる」経験ができたことも大きいが、「自分の最後」をある程度真剣に考える機会になったことがありがたかった。最期に会いたい人を考えることだけでなく、現在からその「自分の最後」への道筋を意識することになったから。
主宰、運営、ご参加のみなさま、ありがとうございました。
■そして「生前葬」とは何なのか
ワークショップ初日の京都からの帰路の電車の中、興奮を引きづったワークショップメンバーと話しながら答えが出なかったことがある。それは
「実際に『生前葬』をやる人の『目的』(あるいは『理由』)は何なんだろう?」
ということ。
ネットで少し調べると
「元気なうちに感謝を伝える」
「生前葬を執り行うことで、自分が周囲の人に対して思っている気持ちを、正直に伝えることができる」
などの説明が見つかる。
確かに、自分の正直な気持ちを見つめる機会にはなりそうだ。
僕自身、「生前葬」の演劇は観た。ワークショップも経験した。ではそれで、「自分が生前葬をやりたくなったか」といえば、そうでもない。
ただ、「自分の正直な気持を見つめる」ことは、人生折り返した者の一人ととして意識しなければいけないだろう。