それは肥大化する地獄のような
八大(八熱)地獄
仏教における一般的な(というのも変だけれど)地獄といえば『八大地獄』だ。もちろん諸説あるが、八大地獄にはそれぞれ十六の小地獄が付随しており、多種多様な(一部マニアックな)罪に対応出来るようになっている。詳しくは是非ご自身で調べていただきたいが、中には「え? 何この地獄?」みたいな内容の地獄もある。例えば「象に酒を飲ませて暴れさせ、多くの人々を殺した者などが落ちる」なんてものもある。
ここからは全くの妄想だが、そういった多種多様な地獄が生まれた経緯として、お坊さんと地元の子供なんかとの間で「こんな罪人はどんな地獄に堕ちるんですか?」「それはね──」みたいな問答があったのかも知れない。地域地域のお寺では、書物には記されていない何百何千という地獄が生み出されていたに違いない。
『八寒地獄もある』ということ
『八大(八熱)地獄』があれば『八寒地獄』も存在する。これは『八大(八熱)地獄』と違って、全く情報がない。一応それぞれの名前くらいはわかっているが、いったいどんな罪を犯した人間が堕ちるのかわからない。そして『寒い』という以外は具体的な刑罰もわからない。とにかく謎の地獄なのだ。
これも妄想だが、お坊さんに子供が「ねえねえ! 熱い地獄があるなら寒い地獄もあるの!?」と問われ「もちろんあるよ~」なんて反射的に答えてしまったのではなかろうか。深く考えずに「ある」と言ったものだから、設定もきちんと練られていない、というわけだ。
地獄の話がしたいわけではない
地獄の話というのはつまり「罪を犯した人間には死んだあとこんなに恐ろしい仕打ちが待ってるんだぞ」と怖がらせ「だから悪いことはしてはいけないぞ」と戒めるためのものだ。怖がらせる為の話。そうホラーだ。
ここまで地獄の話をしたが、別に地獄の話がしたいわけではない。ここでは仮に八寒地獄が「寒いのもあるぞ!」的なノリで作られたものだとした場合、それは現代のホラー作品でも非常によく見られる展開ではなかろうか。
怖がらせたいし、怖がってほしい
地獄の話をするお坊さんにしても、ホラー作家にしても、受け手を怖がらせたいし、怖がってほしいと思っている。しかし、受け手は必ず怖がってくれるとは限らない。そうすると、話し手はついつい「もっと怖く」と話を広げてしまう。悪い癖だ。
「もっともっと」としているうちに、物語は地獄のように肥大化し、どうにも作り込まれていない部分が出てきてしまう。そういったホラー作品の『八寒地獄的部分』は長編作品だと少なからず生まれがちだ。それを「考察の余地」と考えるか「投げっぱなし」と考えるかは受け手次第であるし、作家の力量にもよる。
ただ、そういう曖昧な部分は私としてはまだ許容出来る。むしろ受け入れ難いのは『十六小地獄的部分』なのである。
『怖がらせたい』が露骨すぎる
例えばホラー映画の超名作『リング』を例にしてみよう。ちなみに、続編やら関連作品が多過ぎて最近の貞子さんがどうされているのかは知らないし、私は原作派であることを断っておく。
第一作目の『リング』で、貞子は呪いのビデオを見た人間のところに現れる怨霊であった。例えばその一作目だけを観た人が「じゃあDVDなら?」「YouTubeなら?」「映像のキャプションなら?」「絵に起こしたものなら?」と質問攻めにしてきたとしよう。質問された人間の立場は置いておいて、その質問に「それでも貞子は出てくるよ」「YouTubeなら世界中だ」「宇宙にだって現れるかも知れないぞ」と、質問してきた人間を『怖がらせようとして』答える。そんな現象が創作物の中で『架空の質問者』に対して起こることがしばしばあるのだ。
作者に悪意はない。悪意はないのだが、気が付いたら『十六小地獄的』に設定が細密且つ部分的に蛇足になってしまい、『ぼくのかんがえたさいきょうのおばけ』状態になってしまっている。私はそういう物語を見ると、なんとも物悲しい気持ちになる。
ホラーは密室劇
絶対に、とは言わないが、個人的にはホラーは『密室劇』であった方が怖いと思っている。仮に『ぼくのかんがえたさいきょうのおばけ』になってしまっていたとしても、それが何らかの限定された空間内であれば、めちゃくちゃ怖いホラー作品として成立すると考える。
何故か。それは単純に『手の届く範囲の日常』で起こり得る話の方が怖いからだ。
『リング』が出た頃、レンタルビデオは全盛期だった。『呪怨』は見慣れた日本の家の中が舞台だ。海外の作品で言えば『エルム街の悪夢』なんかは子供心に眠るのが恐ろしくてたまらなくなった。最近だと『呪詛』も話が良い意味で広がり過ぎず、最初から最後まで怖かった。
これらの名作ホラーは、どれも『手の届く範囲の日常』が舞台であり、『自分の身にも起こり得る』と思わせるような臨場感があった。
それらの設定が『密室』から飛び出し、それに伴って設定が広がっていくと、途端に怖くなくなっていく。と感じるのは私だけではないはずだ。エンターテイメント作品としてはともかく、純粋なホラー作品としては評価がしづらくなる。もちろん全ての作品がそうとは言わない。あくまでも個人の意見である。
ホラー小説なんかでも、長編作品では後半急にSFじみてきたり、神や悪魔が現れたり(海外の作品は仕方ないが)、歴史と絡めたり(結果トンデモ化)、神話と絡めたり……。序盤は怖かったのに、段々と怖いと言うよりはただのエンタメ作品になってしまうケースが多々ある(映画『来る』なんかはその結果めちゃくちゃ面白かったけれど)。どうしても最後まで楽しんでもらおうとすると、そうなってしまうのかも知れないが、結果的に『怖い』で終われないのはもったいない。
おわりに
ホラーは他ジャンルと比べて長編が難しいジャンルだと考えている。ショートショート、短編、中編くらいまでが最後まで『ホラー』として完結出来る上限で、長編となると後半で一捻りないとなかなか成立させられない。同じ展開が続くと、慣れてしまって怖くなくなってしまうからだ。
なので、ホラー好きは設定だけでなく、好みの長さや文体にこだわりがある人が多いように思う。まだあまりホラーに触れたことのない人は、その辺りを意識して色々な作品に触れてみると良いだろう。