【少女の日の思い出】ファントムシータ:インスパイア小説
はじめに
皆様は『ファントムシータ(怪忌蝶)』というアイドルグループをご存知でしょうか。あの『Ado』さんがプロデュースしているグループといえば、もしかしたら聞いたことがある方もいらっしゃるかも知れません。
アイドルグループとしては珍しい『レトロホラー』をテーマとしたグループで2024年6月26日にデビューして以降、目覚ましい活躍で、同年11月1日には初ワンマンライブを武道館で開催するなど、まさに破竹の勢いです。
ライブに先立ち、同年10月30日にはファーストアルバムである『少女の日の思い出』をリリース。この小説はそのアルバムの世界観をもとに、私が勝手な解釈で書いたものとなります。そのため、解釈違いや「キャラが違う!」等のご指摘はグッと胸にしまっていただければ幸いです。
また、妄想が広がり過ぎて暴走しないよう、なるべく短くまとめたつもりです。皆様も是非、元となったアルバムを聴いて妄想を広げるなり、新たな解釈で妄想するなりしてください。解釈のしがいがある世界観だと思うので。
私自身、普段からホラーを題材に小説やコラムを書いているため、『レトロホラーをテーマにしたアイドルがデビュー? 珍しいなあ』というくらいの軽い気持ちで見始め(聴き始め)たのですが、作品のクオリティの高さに年甲斐もなくハマってしまいました……。この小説が少しでも彼女たちを知るきっかけになっていただければ嬉しいです。
プロローグ
────チッ、チッ、チッ………。
放課後の教室に『美雨(みう)』の舌打ちの音が時計の針の音と重なって響いた。
「そもそもさあ」
苛立ちを隠さない美雨の声に、机を寄せて座った他の少女達の肩が震える。
「こうなってんのは『もな』のせいだよねえ?」
名指しされたもなが何か言いたげに顔を上げたが、美雨の鋭い視線に射抜かれ、口を噤んだ。
「同意した私にも、非があると、思う」
もなの様子を見て『灯翠(ひすい)』が声を上げた。
「思う?」
「……ううん。皆で同意してやったことだよね。だから、これは、皆が悪い……」
「私も……そう、思う」
「私も……」
灯翠の発言に、今まで黙っていた『百花(もか)』と『凜花(りんか)』も口を開いた。
「ああ……そう。そういう感じね」
全員の顔を見渡して、美雨は鼻で笑って言った。
沈黙。
「ねえ」
美雨が苛立ちを隠さずに声を上げる。
「私たちってさあ、『おともだち』だよね?」
そう言って美雨は、コトリと音を立て、机の上に何か小さなものを置いた。皆の視線が集中する。
それは、黒いリボンがあしらわれたチャームだった。
君と✕✕✕✕したいだけ
「──あれ? ねえ、こいつ起きてるよ」
百花が指をさして言った。
「え? あ、本当だ」
「ダメじゃん。薬の量、少なかったんじゃないの?」
「もなだよね? 薬用意したの」
「これは罰金ものだね」
「ひゃくまんえんね」
「それより反省文じゃない。ほら反省、反省文」
「えー」
「いや『えー』じゃなくて謝んなよ。はやく」
少女達が口々に言う。
「……え? あ……え? あの、僕……」
椅子に縛られた姿勢で少年は声を上げた。その表情には恐怖というよりは困惑の色が強い。
「──あ、もなさん! あの、僕……これ、どういうことなんですか?」
視界の中に見覚えのある顔を見つけた少年が、ガタガタと椅子を揺らす。
灯翠、美雨、百花、凜花の四人がジロリともなを睨見つける。その視線を受けて、彼女は面倒くさそうに口を開いた。
「あのー、えーっとね。ふふふ。どうもー……えっと。あのー……え、ごめん説明しないとダメ?」
「え? あ……は、はい……でき、れば」
「チッ……えっと、だから。ちょっとだけ、チュウチュウさせて欲しいなー、って」
「……はい?」
「察しが悪いなあ」
苛々した口調とは裏腹に眩いばかりの笑顔で美雨が割って入る。
「あなたの血が見たい、って言ってるの」
「み、美雨さん……?」
上級生の美雨さん。明るくて、お喋りで、美人なのに親しみやすくて下級生にも人気が高い。表情はいつものように眩しいばかりの笑顔だが、眼がまるで笑っておらず、少年は背筋が凍る感覚を覚えた。
「ねえ、もう説明したってしょうがないでしょ。さっさと始めちゃいましょうよ」
灯翠の言葉に凜花が首肯する。
「え……生徒会長の、灯翠さんですよね? 何言って──」
「はいはい。もう良いから、そういうの」
椅子の後ろに回った百花が、少年を後ろ手に縛っていた縄を解いた。急に自由を与えられた少年は、所在なさげに赤くなった手首をさする。
灯翠さん、百花さん、凜花さん。この三人は生徒会のメンバーで、全員お淑やかな優等生というイメージだったが、今はお淑やかとは掛け離れた威圧感を全身から放っていた。
「もう、百花ったら。こんなグダグダなスタートで良いの? せっかく久しぶりに生の獲物を楽しもうって、色々と演出考えてたのに」
「もなが薬の量間違えるのが悪いんでしょ!? はいはい、そこの坊やもぼーっとしてない!」
「ぼ、坊や?」
「はい! よーいどん!」
百花の掛け声で少女達五人が同時に手を叩く。鼓膜を震わすその破裂音に、少年はようやく自分が危険な状況に置かれていることを察したらしい。盛大な音を立て椅子を蹴飛ばし走り出した。
「さあ! 狩りの始まりだ!」
少年は監禁されていた部屋を飛び出し、廊下へと飛び出す。そして走りながら周りの様子を伺う。見覚えのない場所だ。古めかしい洋館とでもいった趣だが、狭い廊下にはホコリと布を被った調度品が雑然と置かれていて、優雅とは掛け離れた有様だ。
走りながら廊下の窓の向こうへちらりと目をやる。遠くに学校の校舎が見えた気がする。もしかしたらここは、学校の敷地の外れ、少し高くなった場所に立っている学校創立者の屋敷ではないだろうか。この学校は大正時代に、子供のいなかった金持ち夫婦が子供達のためになることをしたいといって創ったものだと、いつかの全校集会で校長が話していた覚えがある。だとしたら、逃げる術はあるのかも知れない──。
「ちゃんと逃げてるー!?」
「そろそろ追いかけて行くから!」
「生きて帰れるとか期待しないでね!」
「しっかり抵抗してよね!」
「楽しませてちょうだいよ!」
きゃらきゃらと、少女達の楽しそうな声が遠くから聞こえる。声だけを聞けば、普通に恋バナでもしながらじゃれ合っているようにしか聞こえない。
(なんでこんなことに……?)
少年は回想する。「放課後、ひとりで校舎裏に来て」と、クラスのマドンナであるもなに誘われた時は天にも昇るような気分だった。授業中もまるで集中出来ず、間違いなく人生最良の日になるはずだった。
放課後、いそいそと校舎裏へ行くと、そこにはもなが笑顔で待っていて……。
(それで、どうなったんだっけ?)
どうしても思い出せなかった。
「あっ、痛っ!」
考え事をしながら走っていたせいで、少年は無造作に放置された椅子に足を取られ前へと倒れ込んだ。
「え、ダサ」
「萎えるー」
「罰金もの……」
「何でこんなトロ臭いやつにしたのよ。獲物としては下の下の下の下の下の下の下じゃん」
「何でもかんでも私のせいにしないでよ!」
足音も立てずに、いつの間に追いついたのか。埃っぽい木板の上へうつ伏せになった頭の上に、冷淡な声が降り注ぐ。少年は金縛りにあったように動けずにいる。静まり返った廊下に、少年の荒い息づかいが響く。少女達は息切れひとつしていない。
「ねえ、こっち見なよ」
灯翠が冷たく言い放つと、まるで魔法のように首だけが180度回り、少年は廊下に突っ伏したままに天井を仰ぎ見ることになった。あまりの自体に少年は慌てて立ち上がるが、首が後ろを向いたままなので上手く立てない。
「ハハ、ひどい阿呆面じゃん。ウケる」
「もっと捻ってあげる?」
凜花が少年を指差し、その指をクルリと回す。すると指の動きに合わせて、少年の首がさらにギリギリと捩じり始めた。
「や、やめ……もう、おう、お……無理……無理です……」
痛みは感じないが、恐怖心から少年は泣き出していた。
「ひどい声。ゲロゲロって、ウシガエルみたい」
美雨がおどけた表情で笑う。
「どうする? もう殺す? 何かもう冷めちゃった」
もなが冷たく言い放つ。
「そうね」
灯翠が小さくため息をついて、少年の引き攣れた頬に触れる。長く伸びた爪が鋭く肌を傷つけ、滲んだ血が冷や汗とともに零れ落ちた。
「ああ……温かい……美味しそうな温度……。健康そうな平熱。ここに今から情熱的な痛みを……魂まで焼けるような、灼熱の病をプレゼントしてあげる……」
「大丈夫。怖がらないで」
百花が猫なで声で少年の耳元へ囁く。
「死ぬまではずっと、私達と一緒だからね。必ず、私達が今いる地獄に、きみを落としてあげるから……」
そう言い終わると同時に、少年の頬に焼けるような痛みが走る。触って確認するまでもなく、皮膚が、肉が裂けた感覚が脳を痺れさせる。痛い。脈打つたびに滴る血潮が熱く頬を濡らした。その頬の上を、生暖かく、少しざらざらとした触感が滑っていく。
「あ! 百花ズルい!」
凜花の声に合わせ、少女達は一斉に少年の傍へと駆け寄った。
「あ……やめ……」
少女達の吐息が触れる。するとその箇所に痛みが走る。笑顔の少女を血飛沫が汚す。彼女等はそれを嬉しそうに舐めている──。
やめて、と言いかけた少年だったが、少女達の放つ甘い香りが思考を鈍らせていく。痛みが徐々に遠ざかり、こそばゆいような快感へと変わっていった────。
おともだち
美雨が机の上に置いた黒いリボンのチャームを、他の四人の少女は唇を噛んで見つめた。
「ねえ、みんなのも出してよ」
促され、四人の少女はポケットや鞄から各々チャームを取り出し、机の上に置いた。四つのチャームのリボンは、美雨のものと違って赤い色をしている。
「裏切ってるの、誰?」
「裏切ってなんか──」
「だっておかしいじゃん! 私達ずっと一緒にいたよね? なのに何で? 何で私だけ黒いの? チャームが!」
バン! と、美雨が机を叩く。その様子は明らかに冷静さを欠いている。
「……『あいつ』がこの街に来てる、っていうのはさ、結界の反応でみんなわかってるわけじゃん」
美雨の言葉に、四人は無言で首肯する。その声は冷静でない自分を必死に抑えるかのように淡々としている。
「ここがバレたのはさ、こないだやった『狩り』せいじゃないか、ってのもさ、共通認識ってことで良かったよね?」
「それは──」
もなが何かを言いかけたが、凜花に視線で咎められ口を噤んだ。
「確かにね、もなが『久しぶりに狩りをしようよ』『これだけ見つかってないんだから、きっともうあいつも死んじゃってるんだよ』って言ったとき、私も強くは否定しなかったよ? 私だって狩りはしたかった。ずっとしたかった。それに二百年? 二百何十年? 『あいつ』に見つからずにいられたんだから、もう大丈夫なんだって思いたかった。みんなも同じでしょ? だから狩りをすることに同意した。だから一緒に狩りをした。久しぶりに本当の自分を解放できて嬉しかった。楽しかったよ、もな、ありがとね。でもさ」
そこで言葉を区切り、顔を上げた美雨の頬を涙が濡らしていた。
「私たち、なかよしだよね? おともだちでしょ? なのに、どうして? どうして私だけチャームが黒くなってるの? 『あいつ』が私の……私だけの、すぐそばまで来てたってことじゃん。そんなのおかしいじゃない? 誰かのせいよ……裏切ってるの誰!?」
ヒステリックに美雨が叫んだ。沈黙。こういうとき、視線は自然と灯翠に向く。小さく息を吐いて、灯翠は口を開いた。
「もちろん、私たちは『おともだち』よ。でもさ、裏切り者? ハッ、今更じゃない。五人で固まって行動するようになってこの百年。四人で集まって一人の悪口を言うなんて、しょっちゅうでしょ? 別に、本当に嫌ってるわけじゃないけど、仲良し小好しってわけでもない。私たちって、そういう仲でしょ?」
「……だから何?」
「だから……誰かが裏切ったからって、そんな感情的になるなんてさ。何ていうかな……美雨らしくないんじゃない?」
「それはさ、自分が裏切り者だって言ってるの?」
美雨がギロリと灯翠を睨む。
「え、何? 違うってば。私じゃない」
「私でもない」
凜花が口を挟む。
「だって、私、一人で逃げ続けるなんて無理……。ハブかれたら、もう終わり……」
「私だって今更ゴメンよ。もう昔とは違うんだから。だからいつの日もいつでもずっと、私たち一緒にいようね、って決めたんじゃない? だから裏切るなんて、そんなデメリットしかないことするわけないじゃん」
百花が早口で捲し立てる。
「そんなことよりさ、早く逃げないとマズくない?」
「そんなこと?」
百花のことを美雨がギロリと睨んだ。
「だって『あいつ』の狙いは私たち五人でしょ?」
「じゃあ、この、私だけ黒くなったチャームはどう説明するわけ? 誰かがさ、私を切り捨てて……囮にして逃げようとしてるんじゃないの?」
美雨の問いに答えられず、百花は苛つきを隠さずに唇を噛んだ。
「……ねえ、もな。あんたはどうなの? あんた、裏切った?」
「私じゃない!」
もながヒステリックに叫ぶ。夕陽に翳った教室を、再び沈黙が支配する。
「……じゃあ、やる?」
今回、静寂を破ったのは灯翠だった。
「やるって、何を?」
「ウィジャ盤」
「こっくりさん? ずいぶんレトロな提案ね」
「ボードは? どうするの?」
「私、描くよ」
「ありがとう凜花」
数分後、五十音と「はい」「いいえ」、そして鳥居の絵を描き終えた凜花が、合わせて並べた机の上に紙を置いた。
「結局最後は神頼み、か」
美雨が皮肉めいた笑顔を見せる。
「女の友情なんて儚いものよね。よくある指切りくらいじゃ、なんの効力もないわね」
「さ、みんな指を乗せて」
それを無視して灯翠が四人に声を掛ける。
「こっくりさん、こっくりさん、どうぞおいでください」
五人が息を合わせて呪文を唱える。
──その時、暗い教室の中が、突如として甘い香りで満たされた。
「えっ!?」
「なに!?」
「これってもしかして──」
「っ!? 美雨!? 美雨がいない!?」
少女達は口々に叫んだが、その刹那、糸の切れたマリオネットのようにぐにゃりと床へ倒れ込んだ。
今日何度目かの静寂。
幾ばくかの後、閉じた窓の向こう──現校舎のグラウンドの方から、部活に励む学生達の溌剌とした声が聞こえて来た。つまりそれは、少女達が張った結界が解けたことを意味した。
カラカラと間の抜けた音を立て、教室の扉が開いた。薄汚れたフードを被った人影が教室の中へと足音もなく滑り込んでくる。
「よくやったね。ええと……今は、美雨と名乗っているんだったね?」
醜く嗄れた声は男のものとも女のものとも判別がつかない。その声に合わせて、美雨がそろそろと教室へ入ってきた。顔には笑顔が貼り付いているが、その人影に対して怯えているのは明らかだった。
「ドクター」美雨が言った。「約束通り、私は逃がしてくださるんですよね?」
「いや……それはどうだろう」
ドクターと呼ばれた人影は床に倒れた少女達を一瞥してから、ゆっくりと美雨の方を振り返った。
「そんな……! 約束が、違う……」
「おかしな子だね。私はそんな約束はしていないよ。私はただ『手引きをしたら許してあげる』と言っただけだ」
「だっ──」
何かを言いかけた美雨だったが、他の四人と同じように、突然膝から崩れ落ちた。
「許してあげるよ。可愛い娘達。さあ、僕等の家へ帰ろうか──」
瞬きをする間に、ドクターと少女達の姿は教室の中から消えていた。
後にはただ、甘い香りだけが残っていた。
魔性少女
「お客さん『狩人』だろ?」
白髪混じりの店主がグラスいっぱいの安酒を手渡しながら、カウンターの内側から話しかけた。
話しかけられた男は五十代といったところだろうか。こちらも白髪混じりの無精髭で、深々と被った帽子の下から愛想の一つも感じられない鋭い目つきで店主を睨んでいる。
「ああ、いい、いい。皆まで言わなくてもさ。わかるよ。俺もこの仕事長いからね」
「北の森の話を聞かせろ」
男──狩人はにべもなく問うた。
「……ふん、やっぱりそうかい。そろそろ誰か──あんたみたいのが来る頃だと思ってたんだよ」
店主は面倒臭そうにカウンターの上で頬杖を突いた。しかし、口調や態度とは裏腹に、その表情は何処となく嬉しそうだ。店内はガランとしている。話し相手が欲しかったのか、単純にお喋りなのか。それはわからない。
「北……正確には北東だな。元々は何もない草っ原だったんだけどな。一月前くらいさ。突然、鬱蒼とした森が現れたんだ。そう、陰気な針葉樹の森でさ。昼なお暗い、ってやつさ。最初に見つけたのは……何を隠そう俺さ。酒を仕入れに街に行った帰りに見つけてよ。いや、たまげたね。だって行きしなにゃあ森なんて無かったんだ。それが突然──」
「それで?」
狩人に睨まれ、店主は少し鼻白んだ様子を見せたが、また意気揚々と話し始めた。どんどん口調が馴れ馴れしくなっていくのに、狩人は不快そうに顔を顰めた。
「ま、まあそれでよ。怪しいからよ、若いもんに見に行かせようってなったんだ。若い兄弟と父親の三人で調査に向かわせたんだ。でも、帰ってきたのは親父だけだった。その親父が言うには、その森は傍目にゃ大して広かないんだが、中に入るといくら歩いても向こう側に出られないんだと。それで引っ返そうってなったらしいんだが、気がつくと息子二人がいなくなってたってんだ。しばらく探し回ってみたものの見つからず、仕方なく道を引き返すと外に出られたんだと。それで捜索隊を出すことになったんだ」
「行方不明になったのは何人だ?」
もうこれ以上お喋りには付き合えないとでも言うように、狩人は先を急かした。
「合計で四人だな」
「そうか」
狩人はグラスに残った安酒を一気に飲み干すと、カウンターの上に硬貨を叩きつけ、立ち上がった。
「お客さん、森へ行くのかい?」
「そのつもりでここまで来た」
「そうか……森に何が潜んでるんだか知らんが、まあよろしく頼むよ。俺ぁ不気味でしょうがねえよ」
「安心しろ」
出て行こうとしたところで狩人は横顔を見せ、
「何にせよ、森はもう消える。俺が成功しても、失敗してもな」
と言って、少し笑った。
**********
時刻は正午を少し回ったところ。狩人は件の森の中にいた。一見無防備に歩いているように見えるが、足音一つ立てず、茂みを揺らすこともなく歩いているのは流石だった。
「果たして、お招きいただけるか……」
ぽつりと呟き、己の顔を撫ぜる。その顔の上を、一筋の不安がサッと走り抜けたように見えたのは気のせいか。
小一時間ほど歩くと、突然目の前の森がパッとひらけた。そこには、不気味な雰囲気の森とは対照的な美しい庭園と、壁も屋根も目の覚めるような白色に塗られた屋敷があった。狩人の表情が一瞬緩む。しかしすぐその安堵を呑み込み、一層張り詰めた表情へと変わる。見た目には美しくとも、妖しく、どこか邪悪な空気を歴戦の狩人である男は感じ取っていた。
「ねえ」
足音と気配を消し、庭園へと踏み込んだその瞬間だった。庭木の陰から女の甘い声が聞こえてきた。声のする方へ視線を走らせる。そこには純白の衣装を纏った少女が立っていた。衣装と対照的な黒髪が風に揺れている。
(いつの間に……)
「ねえ、はじめましてのキスをしましょう……?」
狩人が瞬きする間に、少女は音もなく近寄り男の首に手を回そうとしてきた。振り解こうと後退ると、その背中を誰かが押し返してきた。気がつくと、狩人は五人の少女に囲まれていた。
「ねえ」
「はじめましてのキスを──」
「どうしたの?」
「何も考えないで──」
「誰か想い人がいるのかしら?」
「あなたの居場所は私──」
「あなたを一番愛しているのは──」
少女達の囁きが鼓膜を震わすたび、狩人は脳が蕩けるような快感を覚えた。意識が飛びそうになる。どうにかして心を現実に引き留めようと、狩人は腰にぶら下げた銀のナイフへ手を伸ばす──。
「あっ」
「銀のナイフよ!」
「狩人だわ!」
「『ドクター』を呼ばなきゃ!」
「ドクターは新しいおうちの場所を探しに行ったからいないでしょう?」
「あらあら、どうしましょ、どうしましょ」
狩人の動きに気がついた少女達が、きゃあきゃあと、しかしどこか楽しげな叫び声を上げつつ飛び退いた。
「とにかくおうちの中に逃げましょう!」
「待て!」
屋敷の方へと駆け出す少女達の背中へ、狩人が懐から取り出した革袋を弧を描くように投げつけた。袋の中から零れた薄紫色の粉が空中にキラキラと舞う。
「きゃあっ!」
「なあに、この粉!?」
「きっと毒よ!」
「吸い込まないように──」
「ああ……」
粉はまるで意識を持っているかのように少女達を包み込む。そして粉を吸い込んだ少女達は、へなへなとその場に座り込んだ。狩人は彼女達へ駆け寄る。
「Rin! Jade! みんな、僕だ! ■■だ!」
「……名前」
「それ、私の名前だわ……」
「なんで忘れてたんだろう……」
「でもまだ……頭に霧がかかったようで……」
「■■……? わからない……」
「五人とも、思い出してくれ!」
声を荒げる狩人の方を見つめる少女達は、初めて打ち上げ花火を見た子供のような表情をしている。
「良いかい、僕達は同じ村に住んでいたんだよ」
狩人は被っていた帽子を投げ捨てると、少女達の前に跪き、まるで哀願するかのように語り始めた。
「あれは……今からもう四十年も前のことだ。僕の住んでいた隣の村で大規模な火災があった。村を取り囲んでいた森が、雷で燃え上がったんだ。嵐でも何でもない。雲一つない夜のことだよ。それは滅多にない……いや、あり得ないような、そんな悲劇だった。村人達は、もちろん逃げようとしたが、乾燥した冬のことだったから火の回りが早くて逃げられなかった。だから大人達は五人の子供……そう、君達だ。君達を教会の地下に匿わせた。そこはほんとうに小さな部屋で、君達を押し込めるのでいっぱいいっぱいだった。大人達は全員焼け死んでしまったが、不幸中の幸い、君達は蒸し焼きになることもなく生き残った」
少女達は狩人の言葉に真剣に耳を傾けている。その瞳に、徐々に理性的な輝きが戻りつつあるのを、男は見逃さなかった。
「翌日、僕の村の大人達が見に行くと、君達は焼け落ちた教会の瓦礫の中で手を取り合って立ち尽くしていたそうだ。そうして君達は、これもまた神のお導きであろうと、僕の村の教会に引き取られることになった。その教会にいたのが、僕だ。僕も君達と同じ孤児でね。急に女の子が五人も……家族になるなんて言われたから驚いたよ。僕も子供だったから、恥ずかしいやら照れくさいやらでね……君達とは、なかなか、馴染めなかったよね」
話しながら狩人は胸元から十字架を取り出し、少女達へ見せた。少女達はそれを不思議そうに見ている。
「それでも、一年もしないうちに僕等は仲良くなった。君達もその頃には笑顔も増えてね。ほら、覚えていないかい? 神父様にみんなで街のお祭りに連れて行ってもらってさ。花火が上がっていたっけね」
芝生の上に、温かい雫がポタリと落ちた。涙を流しながら語る狩人の顔は、まるで子供のような笑顔だ。
「……忘れもしないよ。あの錬金術師だ。薬草の採取だとか言って村へやってきて……。はじめは僕が案内するって話だったんだ。それなのに……君達を……。誰が攫ったのかは明白だったからね、大人達はもちろん探したんだよ。神父様も、教区長様にお願いして下さってね。でも……何の情報も無いまま、一年、二年と過ぎていって……。五年も過ぎた頃には……ごめんよ、僕でさえ、諦めてしまって……」
狩人の独白を、少女達は真剣な目で見つめている。そよ風に庭の花々が揺れ、それはどこか夢の中の情景にも見えた。神聖な空気が、そこにはあった。
「成長した僕は船乗りになった。何処か遠くへ行きたいって思いが、ずっとあったから。それで……三十年近く前だよ。君達の、いや、あの錬金術師の噂を聞いたのは。見つからないわけだよ。それは遠く外国でのことだった。インキュバスを使役する錬金術師がいるってね。最初は君達とは思わなかった。もちろんね。でも、錬金術師の館からどうにか逃げ帰ったって男の話すインキュバス達の容姿を聞いて……僕は確信したんだ。やっと君達を見つけたって。嬉しいと共に、今まで諦めていた後悔も溢れた。だから僕は魔物を狩る、狩人になったんだ。情報を得るために。君達を取り戻す力をつけるために」
狩人は腕を伸ばし、少女達を抱き締めた。
「ごめんね、遅くなってしまって……」
「あなた……」一番背の高い娘が口を開いた。「ごめんなさい、まだ昔のことはあまり思い出せないのだけれど……それでも、私達がするべきことはわかったわ」
「ここから逃げなくちゃ」
「でも『ドクター』からどうやって逃げるの?」
「すぐに見つかってしまうわ」
「大丈夫。準備はしてきている。僕の言う通りにしてくれ」
抱き締めていた腕を離し、狩人は担いでいた大きな革袋から地図と液体の入った小瓶五つ、そして五つのタリスマンを取り出した。
「地図のここ……ここが今いる場所だ。ここから東へ向かって、この港へ行くんだ。そして■■■■という船の船長に僕の名前を伝えて。そうすれば遠くまで逃がしてもらえる手筈になっている。それと……この薬を一人一瓶飲んで。これを飲めば魔物としての気配を消すことが出来る。一月は効果は保つはずだから」
「ちょっと待って」一番小柄な娘が言った。「無理よ。そもそも、私達はこの森から出られない……結界があるの」
「それも大丈夫。結界はこの屋敷を核として張られている。これから僕はこの聖油を使って屋敷を燃やす」
「ダメよ」一番大人しそうな娘が声を上げた。「今はここにいなくても、そんなことをしたらすぐに『ドクター』が駆けつける。そうしたら、私達どうなることか……」
不安そうに震える少女へ狩人は優しい声で語りかける。
「安心して。僕がここに残ってあいつを食い止める。君達は薬の効果ですぐには見つけられないはずだから」
「そんな!」残りの少女二人が同時に声を上げた。「あなた、殺されちゃう!」
「覚悟の上だよ。ただ、僕が追いかけてこなかった場合、あいつを仕留め損ねた可能性もあるから、決して油断しないで。もしあいつが近くに来たら、このタリスマンのリボンが黒く変色して知らせてくれるから」
狩人は少女達にタリスマンを手渡すとすっと立ち上がり、屋敷の方へと向き直った。
「薬を飲んで。僕も死ぬつもりはない。またきっと……きっと会おう。さあ、行って!」
声を合図に少女達は森の中へと歩き始めた。
「Rin!」
狩人の声を背中に受け、少女の一人が立ち止まる。
「……これ、ずっと渡したかったんだ」そう言って狩人は、ポケットから真っ赤なリボンを取り出し、Rinと呼んだ少女に手渡した。「本当はあの日、花を摘んで、それで……。でも、花は枯れてしまったから……だから……」
年甲斐もなく恥じらう狩人の手を握り返し、少女は優しく笑った。
「必ず、また会いましょうね」
そう言って駆け出す少女の背中を見送りながら、狩人の目は決意に燃えていた。死んでたまるものか。あの世に自分の居場所はない。自分の居場所は──心の逃げ場はいつだって──。
「必ず、また会おう」
乙女心中
「で、話ってなに?」
沈黙に耐え兼ねたからか、それとも珈琲を飲み干して手持ち無沙汰になったからか美雨がため息混じりに言った。
カフェーの片隅。柱の陰になった、あまり良いとはいえない席に四人の少女が横並びに座っている。その光景は、決してありふれた光景ではない。ましてや四人が四人とも目の覚めるような美女とあれば、店内の男性諸君の目を奪って仕方なしといった筈なのだが、不思議と誰も少女達に気付いていない様子だった。
「今後のことについてさ、ちょっと話し合いたいな、って」
同じく飲み干して空になったカップを所在なさげに弄りながら灯翠が言う。
「今後のこと?」
「そう。妾達が日本に来てもう随分経つじゃない?」
「そうね……百年近く経つかしら」
「この百年で日本は変わったわ。そもそも鎖国していて『あいつ』に見つかり難いだろうから、って日本に来たのにあっさり開国しちゃうし」
「本当にね。まさかこんな西洋化するなんて、ほんの少し前までは考えられなかったわ」
「そこなのよ」
灯翠が突然パンと手を叩いたので、退屈そうに話を聞いていた凜花ともなも顔を上げた。
「暗くて狩りのしやすかった夜の闇は馬鹿みたいに建てられた水銀燈に照らされて。昔は夜なんて命知らずの旅人か泥酔した痴れ者くらいしか歩いてなかったのに、今は女子供まで出歩く始末よ」
「それはその通りだけど、何が言いたいの?」
「狩りがしづらくなった、って話よ。こう夜でも人目が多くちゃ、今までみたいには狩りが出来なくなってきてる。こうやって店内で気配を消す程度の術なら大丈夫だけれど、往来で沢山の目から人殺しの現場を秘匿するような大それた術を使ったら『あいつ』に見つかりかねないもの」
「確かにね。それは痛感しているわ。妾もしばらく血を吸っていないから……ほらお肌を見てよ」
美雨が自分の頬を撫でて溜め息を吐いた。
「妾達は人間の……まあ精気を吸うだけでも生きてはいられるけれど、身体を保つには絶対に人間の血が必要でしょ? でも妾達が化物だってバレてしまえば人間達に殺されてしまうし、『あいつ』に見つかれば死ぬより恐ろしいことになるわ。だからこのまま、今まで通りの狩りの仕方じゃ遅かれ早かれ限界がくると思うの」
「それ、わかる」もなが楽しそうに声を上げる。「妾もね、この間、チャームした子達の血を吸ってたんだけど」
「あんた、まだ大勢チャームして侍らすような狩りの仕方してんの!?」
「だってぇ……。でね、それでね。そしたら、何か嫉妬しちゃったのかな、一人の男の子に刺されちゃってえ。妾」
「もな。些末ない噺はやめて」
美雨にぴしゃりと言われ、もなは口を噤んだ。
「それで? これからはどうしようって言うの?」
「計画は二つあるの。でね、それより先に。今は妾達バラバラに活動しているじゃない? でもこれからは一緒にいた方が良いと思うの」
「一緒の方が見つかる可能性が高いんじゃないの?」
「今までのやり方ならね。でも新しい方法なら、大丈夫。て、いうかバラバラにいたらこの方法は出来ないから」
「まあ良いわ。話して」
灯翠の方へ三人の視線が集まる。凜花だけが冷めた珈琲に口をつけていた。
「まず、血液ね。以前から医療の世界で、血の足りない人に他人の血液を与えるって方法があるのは知ってるわよね?」
「知ってるけど。やっているのは極一部で。それに、外国の話でしょう?」
「それがね、その成功率を上げるような技術が発見されたみたいでね。日本にもその技術が入り始めているみたいなの。保存が出来るようになるまでは……まだ四半世紀はかかるかも知れないけれど。医者をチャームして手下にすれば、狩りをせずとも血をいただくことが可能になるわ」
「学校に通っている子は言うことが違うわね。でも好きなときに好きなだけチュウチュウ出来るわけじゃないでしょう?」
「それは仕方ないわよ。どちらにせよ、もうそうはいかないって話を、今しているんでしょう?」
「まあ、そうね」
「このまま近代化が進めば、それなりに大規模な術を使わないと狩りは出来なくなる。もちろん今のうちは狩りもしないと血が足りないでしょうけれど。数十年もすれば、それこそ血液の銀行のようなものが出来て、いつでも生き血が飲めるようになるわ」
「どうかしらね。生き血は凍らないって話も聞くけれど」
「何にせよ、よ。今のうちから種を蒔いておく必要はあるでしょう? 狩りにしても、五人で協力した方が安全に出来る。そういう時代になっちゃったのよ。闇に潜んで流れる血液を拭って、不確かな暮らしを貪る……そんな時代は終わったの」
「時代、ね……」
心底つまらない、といった風に美雨が吐き捨てた。つられて他の三人も大きな溜め息を吐く。
「そういえば、百花はどうしたの?」
頬杖をついて凜花が言った。
「それが二つ目の計画」
灯翠はニヤリと笑った。
「あのね──」
「ちょっと待ちなさいよ」
そう言いながら現れたのは、話題の人物である百花だった。百花は何もない空間からふっと出現したように見えたが、もちろんそれくらいのことで四人は驚かない。
「それを話すのは当然、妾の役目でしょう?」
「あら、御免なさいね。いらっしゃらないのかと思って」
「いいえ、良いのよ。許してあげる」百花はテーブルの上のグラスを脇に寄せ、空いたスペースにひょいと腰掛けた。「妾ね、今、お金持ちの夫婦の養子として暮らしているのよ」
「あら、羨ましいこと」
「自慢にいらしたの?」
美雨ともなが茶化すように言ったが、百花はそれを完全に無視した。
「それでね、お父様とお母様にね、お願いしてみたのよ。『妾みたいな可哀想な子供達が勉強出来るような学校を創って欲しい』って」
「『可哀想な』ね」
「それで、学校を創ってどうするのよ。灯翠や凜花じゃあるまいし、妾はお勉強なんて御免遊ばせ〜だけど」
「妾も別にお勉強がしたいってわけじゃないわ。でもほらあ……若くて精力に溢れた学生さんは、皆も大好物だわねえ」
「ああ! なるほどねえ」
「流石、インテリの考えることは違うわ」
「と、いうわけで」灯翠がパンと手を叩いた。「今後の計画をまとめるわね。先ず、今後は五人で一緒に暮らします。いつでも一緒に、ね」
「喧嘩しないかしら」
「するでしょ。当然」
「それが一番の難問ね」
「うーん、どうしても余計に見つかりやすくなる気がするけど……いいわ、妾達、掛け替えのない『おともだち』だものね」
「まあ心中と同じだわね。運命共同体、ってね」
少女達はきゃいきゃいと軽口を叩く。
「何処で暮らすの?」
「学校は来年には出来る計画なんだけど、その金持ち夫婦も敷地内にお屋敷を建てて住む予定なの。妾達はその地下室に、ね」
「ハッ。地下室。ますます化け物じみてくるわね」
「でも地下室って妾達にとって特別じゃない」
「それは……確かに」
「それでしばらくの間は、百花はその夫婦の娘として暮らすわ。適当な年数が経って夫婦が生きていたら処分して、娘は行方不明ってことにしましょう。屋敷は遺言に売らないよう書かせましょ」
「その後は幻惑の術で姿を変えて学校に通い続ける。皆もそれで良いわね?」
「え、妾達も学校に通うの?」
「そうよ。その方が好きな時に、ちょいと精気をつまみ食い出来るでしょ? それに、今後はいつでも一緒、って行ったじゃない」
「憂鬱だわ」
凜花がぽつりと呟いた。
「後は血の件ね。私は医者を利用して、狩りをしなくても血を手に入れる方法を出来るだけ早く確立するわ。と、言っても数年、或いは数十年はかかるかも知れないから、当分は協力して狩りをしましょう。死体の血で良ければ何時でも手に入るしね。後の皆は──もなはチャームが上手いし、凜花は法律家の手下が数人いるから身分を偽る時なんかはよろしくね。それで美雨は──」
「私は食いしん坊担当!」
「……美雨は結界を張るのが一番上手だから。『あいつ』に見つからないようお願いね」
「あらあ、頼っていただけて嬉しいわあ」
「さあて、ご質問はないかしら?」
灯翠が四人の顔を見渡す。異論はないようだ。
「気儘な暮らしはもう終わりなのね……」
美雨が目眩を起こしたような大袈裟な仕草で言った。
「あら、でも暫くは狩りをするでしょ?」
「そうよ。獲物は妾に選ばせてね。妾は仕合せそうな子を食べるのが好き」
もなが愉しそうに嗤う。
「妾は……不幸そうな人の方が、罪悪感が無くて良いかな……」
凜花が言う。
「あら、皆様控え目でいらっしゃること。妾は仕合せも不幸も何もかも頂きたいし、殺すだけじゃなくて、気が向いたら救ってあげたいわ」
百花がテーブルから飛び降りて言った。
「救うって……でも最後には食べるんでしょ?」
「当然。それが妾達なりの救済、でしょ?」
「因みに、学校は何処に建てるの?」
「北の方。■■県よ」
「■■県……妾、郡県制ってまだ慣れないわ」
「さア」
勝手気儘に喋る少女達に向かって、音頭を取るように百花が声を上げた。
「手を替え、品を替え。假初の嘘を吐いて、我々の幸福な人生を護って生きましょうか」
その言葉が終わらない内に、少女達の姿は虚空に消えていった。そして、その後にはカフェーの猥雑な喧騒だけが残っていた。
花喰み
「──あのぅ、教授。ここはいったい……?」
頼りなさ気な青年は、スタスタと先を行く『教授』と呼ばれた初老の男へ怖ず怖ずと声をかけた。
「まあまあ、良いから。黙ってついてきなさい」
今日は教授と青年、他何人かの学生で飲みに出かけていたのだが、帰りしな教授から「ちょっとうちに寄っていかないか」と誘われ、気弱な青年は断ることも出来ずについてきたというわけだ。
教授の家は繁華街からは遠く、タクシーを捕まえて十五分ほど走らせたところにあった。其れほど大きな建物ではないが、門扉から装飾に至るまで当に「洋館」といった佇まいで、周囲を木々に囲まれた様はなかなかに威圧感がある。青年は少し「お化け屋敷みたいだな」と思った。
屋敷に入ると、教授は廊下の壁の一部を弄りだした。何をしているのだろうと見つめていると、突然壁の一部が動き出し、ポッカリと穴があいてしまった。「おいで」と誘われ見てみると、それは地下への階段だった。
「さあ、着いたぞ」
階段を下り、それほど長くない通路を進んだところで、教授が声を上げた。
恐る恐る青年が続くと、そこには真っ暗な空間が広がっていた。真っ暗で見えないが、相当に広い空間のようである。
「今明かりを点けるよ」
そう言って教授がパンと手を叩くと、暗闇の中にぼんやりと明かりが灯る。天井が薄く発光しているようだ。
「ほら『アレ』を見てご覧」
戸惑い立ち尽くす青年の腕を教授がグイと引っ張った。体がグラリと傾き、青年は危うく転びそうになった。
姿勢を改め、教授が指差す方に目を遣る。
そこには、異様な光景が広がっていた。
地下室の真ん中には、1メートル四方くらいのコンクリートの『箱』が、縦に四個、横に十個、整然と積み重ねられていた。『箱』前面は透明な板で覆われており、ライトアップされた内部が丸見えの状態だった。
そして、その箱の中にいたのは──。
「教授……あの……こ、この『女の子達』は……?」
箱の中では、赤い衣装を着た少女達が窮屈そうに蠢いていた。
青年の震える声を受けて、教授はさも嬉しそうに笑った。
「これはね、私の最高傑作だよ」
そう言って初老の小男は『箱』へと近付いて行った。その足取りは跳ねるように軽い。
青年は驚くべき光景に、立っているのがやっとだった。
「バン!」
少女達が教授に気が付いたのか、一斉に硝子を叩いた。その音に、ついに青年は腰を抜かしてしまった。
「き、教授……これ……いや、これ、マズいですって!」
「ハハハ、大丈夫だよ」
「いや大丈夫なわけ──」
「大丈夫、この子達は人間じゃないからね」
「……え?」
「ほら、もっとよく見てご覧」
教授の言葉に促され、青年は恐ろしくも美しいその『箱』を再度凝視した。
「あ……」
先ほどは気が付かなかったが、よくよく見てみると同じ顔がひとつ、ふたつ……。四十個あるこの狂気じみたショーケースの中には、実際には『五人の少女』しかいなかった。
「そんな……こんなことって……」
「少し、昔話をしようか」
教授は薄闇の中を迷いなく歩く。先ほどは気付かなかったが、『箱』の前にはコントロールパネルのような機器が並んだ台があり、教授はそこに置かれた椅子に慣れた動作で小さな身体を沈めた。
「あれは十八世紀末だから、もう二百と……数十年前か。イギリスの片田舎に一人の男が暮らしていた。男は錬金術師を自称しており、日々世界の真理に到達するための研究に没頭していた」
気持ち良さそうに語り始めた教授の言葉に、少女達がガラスをバンバンと叩く音が重なる。少女達は口々に何か叫んでいるようだったが、その言葉までは聞き取ることが出来ない。
青年は驚いて後退りしようとしたが、突然、ガクンと膝から崩れ落ちた。身体に力が入らず、その場にへたりと座り込んでしまった。その様を、教授は冷静に見つめている。何か薬を盛られたのは明白だった。
「その頃にはすでに錬金術という学問は最先端からは外れ始め、今でいう化学が台頭し始めていた。しかし、男が目指すものは薄っぺらい化学などでは到底実現出来るものではなく、深淵なる錬金術の法でなくては成し遂げることが出来ないものだった」
教授は再び立ち上がり『箱』のガラスにそっと手を当てる。その表情は恍惚そのものだ。
「そう。男が目指したもの。それは永久不滅の美だ」
その時、ピーッという甲高い電子音が無機質な空間に響いた。見ると教授が触れていたガラス板が真ん中から左右に開き始めた。気付かなかったが、どうやら先ほどコントロールパネルで何らかの操作をしたようだ。
教授が横に避けると同時に『箱』は口を開け、中の少女がずるりと這い出してきた。『箱』は教授の顔の高さにあった。少女は右肩を下にして、べちゃっと無様に床へと落下する。よく見ると、離れた場所の『箱』でも同様の現象が起きており、床には合計五人の少女が無残に横たわっていた。
「さて、永久不滅の美。それを作るには何が必要か」
うつ伏せに床へ倒れたまま身動ぎ一つしない少女達には目もくれず、教授は『講義』を続ける。
「まずは美しい少女だ。乙女がもつ処女性はもはや人類のクオリアに刻まれた『美』そのものと言えるだろう。しかし、美しい少女なら誰でも良いというわけではない。永遠をその身に宿すためには、神から愛されている必要がある。その証明として、何か奇跡的な体験を、神がかっていると確信させるだけの劇的な経験をしている必要がある。そして最も重要なことは、そんな少女が五人必要ということだ。五人をそれぞれ五芒星の頂点とし、錬金術を用いて彼女達を永遠の時の中へと封じ込める──。いやあ苦労したよ。そんな娘を五人も見つけるなんて簡単なことじゃない。だから男は一計を案じたんだ。ある村に五人の美しい少女達がいるという噂を聞きつけた男は、夜陰に乗じて村を取り巻く森に火をつけたんだ。そうして──」
「あ、あの、すみません教授」
気持ち良さそうに語り続ける教授の言葉を青年が遮った。教授は明らかに不愉快そうな表情を青年へと向ける。
「どうしたのかね?」
「それで、僕は何のために……」
「やれやれ。せっかちな男だな。まあ良い、教えてやろう。錬金術師の男──まあ私のことだが──は結果的に、少女達と自分自身を不老不死の存在とすることに成功した。しかし、私自身は五人の少女という呪法の中心に存在し永遠を手に入れたが、少女達に完全な永遠を与えることは出来なかった。とはいえ、定期的に人間の精気と血を吸わせてさえやれば老いることも朽ちることもないのだから失敗とはいうまい」
「じゃあ僕は……?」
「聞くところによると、君は親兄弟もなく、独り身だそうじゃないか。ひと一人消したところで隠蔽することなぞ容易いが、後処理は簡単に越したことはないからな」
その時、床に這いつくばっていた五人の少女達がゆっくりと立ち上がり、青年の方へと歩き始めた。その足取りは重く、引き摺るようだ。
「彼女達は腹ペコなんだ。まあなんだ、この先つまらん人生を送るより、美少女達に食われる方が幸せだろう」
ず……ず……と歩を進める少女達はまるでゾンビ映画にも出てきそうな有り様だ。五人が五人とも青年の方へ手を伸ばし、意地汚く口をパクパクとする姿は哀れでさえあった。青年はそんな少女達をまっすぐに見つめながら、何かを覚悟したような表情で言った。
「教授……もうひとつお聞きしたいことがあります」
「なんだ? 冥土の土産に聞かせてやろう」
教授はこれから起こる凄惨なシーンを楽しみにしているかのような口ぶりで言った。
「ここには五人の少女達が……同じ少女が何人もいるように見えます。それは何故ですか」
「ああ……いやこれは恥ずかしい話なのだが……。二百年近く前に、少女達に逃げられてしまったことがあってね。万が一、五人の少女のうち一人でも死んでしまっては私の不老不死が解けてしまう。だから、念のためだよ」
「バックアップのためにクローンを作ったと?」
「その通りだ」
「あなたの目的は永久不滅の美を作ることであって、あなた自身の不老不死ではないのでは?」
「それはもちろんそうだ。しかしそれを見届けるためには私自身が永久不滅でなくてはならないだろう。私はね、彼女達を一度失った。何処の馬の骨とも知れぬ狩人の男によってね。再会を果たすまでの二百年余りは本当に気が狂いそうだった。だからね、私はもう彼女達を手放したくないんだよ。永遠に彼女達の美しさに酔い痴れていたい……。大酒飲みのことを『うわばみ』というが、私はこの美しい花達を永遠に愛で続けたい『はなばみ』といったところだろうか」
「そうか……。では、今度こそ死ね!」
そう言うと、青年は驚くべきスピードで立ち上がり、教授に向かって何かを投げつけた。
「ぐっ!? な……いったい……」
完全に不意を突かれた教授の胸に、美しい装飾を施された、針のように細いナイフが突き刺さっていた。
「お、お前は……?」
「そのナイフは抜けないぞ。二百年前の借りを返させてもらおう」
「お前……あの狩人か? バカな! お前はあの時、私が殺したはず……」
「何の対策もせず、自爆覚悟で特攻するわけないだろう」
「く……そんな……こんな、こんなところで……」
突き刺さったナイフの柄から、煙のようにキラキラとした光が溢れ出していた。その光が闇の中に広がっていくに従って、教授の身体が枯れ木のように細っていく。
あっという間の出来事だった。床に倒れるまでもなく、傾いた教授の身体は塵となって虚空へ消えていった。
「お前には、別れの言葉さえ残させるものか」
語る者が消え、静寂に没した空間に少女達の足を引き摺る音だけが響いている。
青年はスタスタと軽い足取りでコントロールパネルの方へと向かった。そして少し戸惑いながらもいくつかのボタンを操作すると、閉じたままだった全ての『箱』が口を開いた。
ひとり、またひとりと、哀れな少女が床へ落下していく。
どさり、
ぐちゃり、
その様子をまっすぐに見つめながら青年──いや、狩人の男は、静かに涙を流していた。
ずるり、
ずるり、
少女達がゆっくりと、狩人の方へとにじり寄っていく。
狩人は逃げようとせず、まるで少女達の帰りを迎えるように両手を広げた。
ずるり、
ずるり、
ひとりの少女が狩人の腕に取り付いた。そして、彼の耳元で何かを囁いた。その言葉を聞いた狩人は少し驚いた様子だったが、すぐに笑みを浮かべ、そっと目を閉じた。
ひとり、またひとりと、少女が狩人に取り付く。
狩人は幸せそうな表情のまま、少女の群れの中へと没していった────。
HANAGATMI
「ねえ、これからどうしよっか」
小高い丘の上から、火に包まれた洋館を眺めつつ一人の少女が誰にともなく呟いた。
「さあね。でも……少なくとも『自分自身』とはオサラバしたいわね」
狭い丘の上には犇めくようにして四十人もの少女がしゃがみ込んでいた。しかし、同じ顔がひとつ、ふたつ──五人の少女が八人ずつと狂気的な光景だった。
「また五人で暮らすの?」
「もう『あいつ』もいないし……別にバラバラでも良いんじゃない?」
「でも、ある程度示し合わせておかないと。同じ顔が八人もいるのよ? 少なくとも、同じ国にいられるのは二人までね」
「ねえ、灯翠さあ、一人で相談するのやめてくれる? 独り言みたいでキモいんだけど」
一人の美雨が声を上げ、残りの七人が同じ目つきで灯翠達を見つめていた。
「……言いたくないけどさあ、美雨、そもそもこの状況はあなたのせいでしょう?」
「は? 確かに私は自分だけ助かろうと思って皆を騙したけど、別に私が裏切らなくたって遅かれ早かれこうなってたから」
「開き直り? 逆ギレ? あなたが早く皆に相談してくれていたら逃げる方法だってあったかも知れないじゃない!」
「タラレバで怒鳴らないでくださる? 日本にいるってバレた時点で国内にはいられないし、どうするどうするって言ってるうちに捕まってたわよ」
「じゃああなたが結界を張ってた意味がないじゃない。本当に食い意地だけの役立たずね」
「私だけのせいみたいに言わないでよね。百花の計画がこの百年近く上手くいってたからって、安心しきって見つかった時にどうするか考えもしなかったのは皆さんも一緒でしょう?」
「ねえ、やめなよ!」
その時、数人のもかが同時に叫んだ。四十八の瞳が、一斉にそちらへと向く。
「やめなよ……凜花の気持ちも考えてあげてよ……」
八人の凜花は、全員が虚ろな目で丘の下の光景をじっと見つめていた。一人は、その手に真っ赤なリボンをぎゅっと握りしめている。
「……つらいのは、凜花だけじゃないわよ……」
百花の一人がぽつりと呟いた。
真夏の夜の、息苦しいような空気の中。洋館が──彼女達の花筐が、ガラガラと燃え落ちる音が響いていた。
いつの間にか、四十人の少女達全員が、声を上げて泣いていた。
朦朧とした意識の中、あの場所から抜け出そうと、いつだって考えていた。いつだって願っていた。
願いは成就した。
最悪の形で。
「──で、本当にどうしよっか。これから」
まだ燃え燻る館から目を離さずに、凜花の一人が場の雰囲気にそぐわない明るい声で言った。
「私は、死にたくない」
百花の一人が吐き捨てるように言った。
「そうね。『あいつ』の思う壺みたいで癪だけれど、私もまだ死にたくないわ」
同意する翡翠の言葉に、その場にいた全員が頷いた。
「昔みたいに簡単に国外に出られないし、使える手下もいないし……」
「おんなじ顔がうろついてたら、すぐに晒されそうだしね」
「八つ子って言い張れば?」
「いや、見つかった時点で有名になってアウトでしょ」
「何をするにしても、まずは隠れ家をどうにかしないとね」
「自分が死んだら館が燃える仕掛けとかさ、マンガじゃないんだからさあ」
「どちらにせよ、あそこにはもういたくないでしょ? もう見つかる心配をする必要もないし、存分に力を使って潜めば良いでしょ」
「確かに」
四十人の少女が思うままに話す様は、見様によってはまるで修学旅行のようで楽しげであった。
「とりあえず、狩りよ、狩り」
美雨の一人が大きな声で言った。
「さっきの食事──凜花ごめんね──さっきの食事でとりあえず正気には戻ったけど、しばらく食事制限させられてたせいであれこれ術を使う力はないわよ」
「そうね……普通の人間一人分よりは桁違いの精気だったけど、それも四十人で分けちゃあね」
「ひとによってはあんまり食べられてないんじゃない?」
「そうね……」
「じゃあそれぞれ元気な一人が代表して、狩りに向かいましょうか」
特に相談するでもなく、三十五人が座り、五人が立ち上がった。八人は別の存在ではあるが、分割された魂は何処か細い糸で繋がっているかのように通じ合っていた。
「ねえ、あれ、お祭りじゃない?」
もなが館とは逆の方向──街の方を指さして言った。
「あら、本当ね」
「絶好の狩場じゃない」
美雨と百花が顔を見合わせて笑った。
「じゃあ親鳥は餌を取りに行ってくるので、雛鳥さん達はここで待っていてくださいね」
灯翠が座っている少女達に向かって言う。
「じゃあ行きましょう」
三十五人の少女達を後にして、五人の少女が歩き出した。その足取りは軽く、まるでパーティーにでも向かうように楽しそうだ。
その姿はまるで、
火に向かって飛び込んでゆく、
怪しくも美しい、
蛾のようであった。
ゾクゾク
「──ねえ、本当に彼氏いないの?」
「はい」
「えー、めっちゃ可愛いのに意外だわー。浴衣もめちゃくちゃ似合ってるし」
「ありがとうございます」
人熱れでむせ返るような夏祭り会場。青い浴衣を着た少女が男に手を引かれ、人混みを掻き分けていた。男は背が高く肉付きが良い。しかし表情は軽薄そうで、お世辞にも利口には見えなかった。
「じゃあこの後どうする? 花火まではまだ少し時間あるけど……」
振り返った男の手を少女がグイッと引っ張った。そのせいで体勢を崩し、よろめいたその隙に少女は男の唇を素早く奪った。
「え……あ、あの…………?」
「知ってますか?」
「え?」
男は頬を赤らめ、少女以外何も見えていない様子だ。いつの間にか周囲のざわめきも祭囃子も聞こえなくなっていることにすら気付いていないらしい。
「唇って、内臓のはしっこなのよ」
赤らんでいた男の頬からサアっと血の気が引いていく。ようやく異変に気付いたようだが、それこそ後の祭りであった。薄れていく意識の中、少女の恐ろしい高笑いだけが真っ暗な世界に響いていた──。
**********
「そこの美人のお姉さん! 一人なら俺達と一緒に飲まない?」
人波から少し外れたところ。手頃な大きさの石に腰掛けながら瓶ビールを飲んでいた男二人が、白い浴衣を着た少女へ声をかけた。少女は「美人」と呼ばれたのが自分と疑うそぶりもせず、さも当然のように振り返ると男達の方へと向かって歩き始めた。
「すごい自信だな」
声をかけた方の男が、蚊に食われた逞しい腕を掻きながら苦笑した。
「……私のお酒はどこかしら?」
少女は座ったままの男達の前に仁王立ちになり言った。腕を組んで顎を上げ、冷たい視線はまるで冷酷な女王のようであった。
「あ……えっと、呼んでおいてなんですけど、ハタチ超えてますよね?」
今まで黙っていた男が言った。隣の男よりは柔らかい印象だが、身体つきはがっちりとしている。
「ええ、もちろん」
「あ、じゃあ──」
脇に置いていた缶ビールを手渡すと、少女はニッコリわらってそれを受け取った。
「良かったら、ここ、座りますか?」
「ああ、でも浴衣白いから汚れちゃいますかね……。って、あれ、ここ。ここほら、何かちょっと汚れてますよ?」
男が指摘した箇所、浴衣の袖あたりに血のような赤いシミがついていた。少女は冷めた目つきで袖をチラリと見ると、すぐに笑顔に戻って言った。
「あらやだあ、さっき人混みでぶつかった時についたのかしら……。ねえ、そんなことより──」
男達の方へと一歩近づいた。その少女の瞳が、燃えるように紅く煌めく。すると二人は急に蕩けた目つきになり、いつの間にか周囲の音が聞こえなくなっていることにも気付かない様子だ。
「私、すっっごい、お腹が空いているのよ──」
**********
「どうしたの? 君、迷子?」
道の端にちょこんとしゃがみ込んでいる少女へ、一人の青年が声をかけた。
「やだ……私、そんな子供に見えますか?」
そう言って立ち上がった少女は、遠目に見た印象とは打って変わって大人っぽい表情で笑った。少し着崩した紫色の浴衣も、アップにした長い髪も魅力的だ。
「あ、ああ、ごめん。遠目に、幼く見えたから……」
「近くで見たら、どうでした?」
「ああ、うん、すごく、素敵だね。驚いたよ。でも、こんなところでどうしたの?」
「何だか疲れちゃって。少しうとうとしてたんです」
「そうだったんだ。そ、それじゃあ気をつけてね」
「行っちゃうんですか?」
「え?」
「行っちゃうんですか?」
「あ……いや、僕は……その、ナンパするようなタイプじゃなくて……」
「じゃあ、こうしたらどうです?」
少女が素早い動きで青年の腕に絡みつき、上目遣いで次の言葉を待った。
「ど、どうって……?」
「ねえ、二人っきりで遭難ごっこしましょうか」
「遭難ごっこ……?」
「ほら、こっちへ来て」
腕を引かれた青年は抵抗ひとつせず、少女の歩みにふらふらと付いて行く。いつの間にか雑踏は遠くに消え、辺りには深い森が広がっていた。
「ごめんなさいね、こんなことして」
少女の笑顔がふっと曇る。
「ああ……いやあ……そんな……全然……」
「本当に?」
「本当だよ……」
「これから何をしても怒らない?」
「ああ……」
「『誓います』って言って?」
「誓います…………」
「ふふふ……はい、よく出来ました」
暗い森の四方八方から少女の嬌声が響いてくる。その様はまるで悪い夢のようだった。
**********
「ちょっとそこのお姉さん、こっちで一緒に呑みません?」
耳元でふいに囁かれた気がして女は立ち止まった。しかし、祭の喧騒の中にしてはあまりにはっきりと聞こえた気が──。
「お姉さん。ほら、こっち……」
また、聞こえた。声の主を探そうと、人混みの中、視線を巡らす。すると、通りから少し離れた木の陰から誰かが手招いているのを見つけた。普通なら怪しくて無視するところだが、何故だが目を離すことが出来ず、女は人の流れを外れてふらふらと近寄ってしまう。周りの人々はそれに気付いてすらいない様子だ。
「あらあ、いい子ね……さあ、こっちこっち……」
木の陰から現れたのは、緑色の浴衣を着崩した妖艶な女であった。女は可憐な掌を蝶のようにひらひらと動かしながら、木立の奥へと誘っていく。奥へ進むにしたがって祭囃子が遠ざかっていく。いつの間にか木々の隙間から見え隠れしていた楽しげな人間の群れすら見えなくなり、まるで深い森に迷い込んだかのような景色が広がる。しかし、ふらふらと歩く女の虚ろな目には景色の変化は映っていないようだ。
「さ、ここにかけて」
妖女は不自然に置かれたベンチに腰を下ろすと、自分の隣を細い指先で軽く叩いた。その仕草に導かれるように、女は素直に腰掛けた。
「ちょっとだけ、味見させてちょうだいね」
妖女の指が女の頬をなぞる。するとそのラインにそって、つうっと血が流れた。傷は見えない。女は何も感じていないのか、ぼんやりと虚空を見つめている。
「うん、甘くて美味しいわ。これなら皆もデザートとして喜んでくれるわね。あら、あなた……よく見ると可愛らしい顔してるのね」
頬を撫ぜたときと同じ手つきで女の顎をクイッと上げる。そして品定めするかのように顔を見つめた。
「ねえ貴女……人間、辞めてみる?」
「あ……あ……わたし……」
「冗談ポイ」
妖女が手を素早く動かすと、骨の折れる鈍い音を響かせて、女の首が反転した。一瞬遅れて、その身体が地面へドサリと崩れ落ちる。
「これ以上『おともだち』はいらないの。ごめんなさいね」
**********
「なあ、本当にこっちに『おともだち』がいるの?」
「このまま行ったら祭り会場から出ちゃうぜ?」
「連絡してこっち来てもらいなよ」
「そうだな。これ以上離れると、飲みもん買いに戻るのもめんどくなるし」
「ごめんね、もう少しだから!」
そう言って、ピンクの浴衣を着た少女は振り返って顔の前で手を合わせた。その可愛らしい姿に、今の今まで文句をたれていた男達も、鼻の下を伸ばして黙った。
「えー、つかさ、ホントに女の子だけのグループで来たの?」
「何それー。ホントだよー?」
「いや、だってさあ。彼氏いないとかありえなくない?」
「何でそんなこと言うの?」
「だって、なあ?」
「なあ。こんな可愛い子がさあ」
「えー、そんな可愛くないですよー。私の『おともだち』の方がずっと可愛いから」
「そんなこと言って、自分が可愛いのわかってるんでしょ?」
「もー、そんなことないですって」
そんな中身のない会話をしながら、男四人を連れて、軽い足取りで少女は祭り会場の外れへと向かって行く。
「ねえねえ、この中で付き合うとしたら誰が良い?」
一番軽薄そうな男が言った。
「おま、そういうの聞くのまだ早くない?」
「別に良いだろ? ねえ、誰?」
「えー、私はぁ──」
ふいに少女は振り返り、パンと手を叩いた。その瞬間、四人の男は膝から崩れ落ちる。それと同時に、景色も何処かの森の中へと姿を変えていた。
「誰か一人の物になれなんて、やんなっちゃうわ」
**********
──ドン、と大きな音を伴って、大輪の火花が夜空に散った。
ひとつ、またひとつ。
人々は火に飛び込む羽虫のように、その視線を奪われている。
ふたつ、みっつ。
打ち上がる花火を、あの五人の少女達も各々別の場所から見上げていた。
脳裏に浮かぶのは、あの、少女の日の思い出。
細かいことは忘れてしまったが、ずっとずっと昔──神父様に街へ連れて行ってもらった時に見た花火……。こんな華美な物ではなかったが、皆初めて見たので驚くと共に、少し怖かったっけ……。綺麗で……怖い……。
……あれ?
ああ、そういえば、あの時一緒だった男の子は……?
ああ、そっか。
彼はさっき、私達が……。
月のない夜。
よっつ、いつつと打ち上がる花火だけが、少女達の頬を照らしていた。
了