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土のにおいとスマートフォン

 11月にiPhoneが故障してから、三ヶ月間ほどスマホのない生活をしている。一ヶ月経った頃に電話がないとガスや電気などの生活インフラさえ保てないという事実に直面し、電話機能だけの携帯を購入した。緊急の連絡が必要であれば電話をしてもらっている。メッセージやLINEはパソコンから返すことができるし、最近は緊急の連絡が必要になる性質の仕事は極力受けないようにしているので、連絡に関しても殆ど困ることはない。

 まず、思っていたよりも不安になることがあるという気付きがあった。心のどこかで、スマホがなくてもへっちゃらだろうなんて思っていた割に、特に外出するときには、まるで服を着ずに外に出てしまったかのようなソワソワとした不安感を覚えてしまうのだ。いつものポケットに、あのずっしりとした四角い重みがない。それだけで、ちょっと何故か不安になる。何か忘れ物をしたのではないかという気持ちになってくる。そして持ってないのにポケットの中でブルっと震えたような気がする。

 スマホがないと、目的地に辿り着くことさえ困難になることを知った。いつも歩いている道ならまだしも、電車の乗り換えさえ分からない。駅を降りても、どっち向きに歩けばいいのかさえ分からない。万が一、道に迷ってしまったときにはもう帰れなくなってしまうんじゃないかと思えてくる。子供の頃からパソコンや電子機器が大好きだった自分にとって、最初の一ヶ月ほどは不安な気持ちになることばかりだった。

 だが二、三ヶ月ほど経つとそれにも段々と慣れてくる。人間は図太いなと思う。そして、街には意外と経路案内の看板があちこちに設置されていることに気付く。そんなの見たことがなかった。駅には路線図が書いてあるし、道に迷ったらその辺りの人に「駅ってどっちですかね?」と尋ねればいいだけだった。

 だが実際は、この三ヶ月の間で道に迷った回数は計り知れない。アプリのマップがないと、地下鉄の駅を出た途端に、今自分がどこにいるかさえ分からないのだ。自分がどこにいるのか分からないから、どっちの向きに歩き出せばいいのか分からない。見覚えのない交差点で、建物を見上げて途方に暮れる。ああ、無力。書いてみたら当たり前のことすぎて阿呆だなぁと思うんだけど、これには最初、とてもびっくりした。

 そしてさらに酷いのは、旅先だ。先月和歌山に滞在したときも、どこのホテルに泊まればいいのか、さっぱり分からなかった。スマホがあれば、一発で近くて安くて割と綺麗なホテルを見つけることができるのに。僕は仕方なく、駅の周りをぐるりと散歩しながら目にとまった適当なホテルに入った。きっとそのホテルは、周辺で一番安くて綺麗なホテルというわけではないだろう。

 スマホがないと、このように「情弱」になってしまう。数多の情報の海から、素早く、最もコスパのよい選択をとることができなくなるのだ。それによって失うのは、お金と時間だ。同じ綺麗さの少し安いホテルを選ぶことはできないし、そもそもホテルを探すのにかかる時間は、街を練り歩くよりもスマホを使った方が圧倒的に早い。

 そうか、電子機器やインターネットは僕に、お金と時間をくれていたのだ、と思った。便利になるとは、自分でやらなければいけなかったことを、やらなくてよくなるということだ。僕が元々しなければいけなかったことを、スマホやパソコンに、知らない間にどんどんと託していっていたんだ、と思った。なくなって初めて分かったが、目的地へ向かうことだけでなく、本当に生活の様々なことをスマホに託していた。

 そして今は、その託してしまっていたことたちを、取り戻している期間なのかもしれない。実際にスマホによって浮いた10分で、僕は何をしているのだろう?仕事をしているかもしれないし、本を読んでいるかもしれないし、YoutubeやNetflixを見ていたかもしれない。後から振り返ってその時間が有意義だったと思えることかもしれないし、無駄にしてしまったように思えるのかもしれない。

 では、便利になって得た10分のために、交換したものは何だったのだろう?恐らくそれは、「土の力」であるような気がする。僕はもうマップアプリがないと、目的地にも辿り着けないし、自分にとって心地のよいホテルを見つけることさえできなくなっていた。勿論スマホがあってもやろうと思えばできるのだろうけど、そもそもやろうなんて思わないだろう。

 そして、スマホ(というよりGoogleやInstagramなどの検索ロジックのことなんだけど)では、情報の質の評価軸は「より多くの人が評価している」という考え方に基づいている。つまり、スマホを使って入手している情報は「他の人がいいと言っている順」なのだ。知らない間に、偶発性の取り除かれた、万人にとって最も便利だと評価されている選択肢から選んでいた。

 僕はそういうこととは別の場所にある、土臭く生きているという感覚、土着性のさなかで生きるという感覚に、憧れているのだろうと思う。そういうことが好きなのだと思う。そしてそういうことを自分が失っていたことに対して、ずっと負い目のような、このままでいいのだろうかという気持ちを抱えていたような気がする。スマホが無くなって、その感覚のことを思い出しつつある。今はそれを取り戻していく過程のことが、とても心地良いなと感じている。

 もう一つ、スマホがなくてよかったと感じていることがある。それは、時間が生まれたことだ。何だか急激に暇になって、一日がすごく長く感じるようになった。気付いたらぼーっと窓から外を眺めている、というようなことが増えた。

 スマホがあると時間を浮かせることができるはずなのに、逆になくなると時間が生まれたというのは不思議だ。だけどそれもそのはず、SNSと、YoutubeやNetflixなどの動画を見る時間がなくなっただけだった。僕は想像以上にそれらのコンテンツに時間を費やしていたみたいだ。

 ある人にとっては、これがなくなることはとても苦痛なことだと思う。暇は、退屈という現象の苗床になる。退屈は、人間にとって最も避けたいと感じる苦痛の感覚のひとつだ。そんな苦しくて避けたい退屈を、手軽に埋めることができない。これはスマホがないことによって生じる弊害だと思う。

 だけど、SNSや動画を見ることよりもやりたいことがあるのに無意識的にそれらから離れられないという僕みたいな人にとっては、これがいい方向の変化になる。これまでSNSや動画を無意識に見てしまうことを、どうしても辞めることができなかった。でも今、世界では一番頭のいい層の人たちが、どうやったら人々がスマホの画面にもっと張り付いてもらえるかについて必死に考えている。だから僕がその人たちの理論を抜け出せないのなんて、考えてみれば当たり前だ。理想としているスマホとの付き合い方ができない状態は、個人の意志や怠惰さとかそういうことなんて関係なく、仕方のないことだと思う。


 スマホを持たずに三ヶ月ほど過ごしてみて、分かったことがある。僕には、自分が理想としているようなツールとしてスマホを使いこなすことは出来なかった。便利さもたくさん享受していたけれど、失っていることの中に大切なことが多すぎた。どうやら、僕にはスマホを持つのは、まだ早すぎたようだった。

#振り返りnote

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