リアルな仮想社会への逃避

以前のnoteで「ソードアートオンライン」について書いたことがある。

そのときは、テクノロジーの可能性という文脈で書いたエントリーだったが、今日はその世界の中にある「自分であって自分でない自分がいる仮想社会」のコンセプトの話である。

ここ数年にある私の中にある「ある違和感」が実はあって、そのことについては、自分のnote Writeルールに合わないのでそのうちにと思っている。今日のエントリーはそれに連続する現実を見つめられない「リアルな仮想社会への逃避」の話である。そして、それは医療、心理、福祉の現場でおそらくは10年前、20年前から言われていることでもある。

「ソードアートオンライン」などで描かれる世界は、現実世界とは違うバーチャルな世界の中での、現実社会との整合性と不整合性の行き来の中で生まれてくる【Drama】を描く。私たちは、現実の社会の中でさまざまなContentsを使いながら、現実の自分とそれを受けいれるため/受けいれないために、直面する現実とは別の現実世界を探そうとする。それは、いまや職場/家庭という二元論ではなく、リアルな自分世界とは違うリアルな自分世界を探しつつメンタルバランスをとっているように見える。それが「ゲーム世界」(ぴったりくる表現がみつかっていないので、あえてこの表現を使う)への傾斜が進んでいるとも思える。

ここ数年、「リアル」という言葉がメディア社会で踊るようになった。おそらくそこには見えていない「真実(true)」というレトリックが込められているように思う。それをあえて拡大解釈すれば、すでに現実世界は二重化しており、私たちの目の前に拡がる世界は、自己/他者 ではなく、自己認知の中で、二重化しているとも思える。
つまり、私たちは現実世界の中で、現実のリアルな仮想社会の中でも生きているといえる。

受けいれない現実 現実をうけいれない人たち、が増えている。
作られた幸せだけを、メディアやSNS、バーチャル世界から見せ続けられている私たちは、肯定的な仮想世界だけを求めるようになる。そこには、リアルな非現実的な世界を受けいれないと決めることができる。いや、そのことすら「決められない」。決めることは生きることを否定すると思うのだ。

リアルな仮想社会はファンタジーであると思うと同時に、ファンタジーではない。幸せが価値感であるということは、人が悲しむ現実を自分が望もうが望むまいが、自らが手にした「リアル」は人に対する幸せの優越感をもたらす。それが、次の瞬間に自らに降りかかる災いであってもそのことは幸せを否定しない。いや、幸せを否定されても、次に来るであろう幸せの世界に生きることができるのだ。

リアル仮想世界はそうして拡がり続けている

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?