「○○は何を生み出しているのだろう」という問い
いまは、さまざまな分野の人たちが(いいかわるいかではなく)、考えた方としてビジネス思考に拠ろうとされる。こちらもよく見られる「リフレイミング」ももともと心理学・家族療法のことばだが、ビジネスにとてもよく登場する。
今朝は「○○は何を生み出しているのだろう」というセンテンスをみた。
?ん?
問いかけた主は素直なつぶやきでしかないのかもしれない。ただ、あれ?とひっかかってしまった。
最近よく紹介される「アート思考」について書かれた文章とそこに引用されている「ロジカルシンキング」-「デザイン思考」-「アート思考」の図である。
「生み出す」ということばのもつイメージがこの「アート思考」と重なった。そもそも最近のビジネスは「違いを生み出す」ということばもよく使われる。
Criticalな言い方になるが、この「アート思考」による「生み出し」はただの独り善がりになる可能性も否めない。違いを生み出すための生み出しは、結局は、違うことのみに価値感がおかれること危険性が高いからだ。また、要不要論にもなりかねない
そもそも、ロジカルシンキングとデザイン思考とアート思考を横並びにして比較するものなのだろうか。思考方法の説明以上になんの意味も感じない。使い分けの問題でしかないように感じてしまう。「新しさ」のブランディングや単純化したシンボリックな二項論は、底流にロジカルなものがないとすぐにとって変わられる。使い捨てのブランドでしかない。
気がついてみていると圧倒的にそんなものがあふれている。
基本にたちかえってみてみると、すっきりと整理できたりする。何を課題に感じ(それが自発だろうが他発だろうが社会発だろうが)、それを解決する方法を選択し、どんな方法論を使うのかである。それがなかなかうまくいかないからいろいろな思考論や方法論がでてくるのだろうが。
新しいことばやコンセプトが流布するとすぐにそれをとってセルフラベリングするのもやめたほうがいい。いまのことばをあえて使えば「イタイ」。SNSやネットがあたりまえになり、そのスピードと使い捨て感も半端ないが、みている人はみている。疑問をもって、学ぼう。でも、セルフラベリングはやめよう。学ぶには、謙虚な姿勢とアドバイスをしてくださる方へのリスペクトがあればいいではないか。
生み出しているものより、生み出そうとしているそのプロセスに興味をもってほしい。そう思う。