桜の記憶

日本(本州、四国、九州、一部北海道)に住むものにとっての桜は、春の訪れを感じさせる風景である。
それが歴史的には、政治的に構築されつづけてきたものであったとしても、いまの時代を生きる私たちにとっては、こども頃からなじみにある風景であり、目前に拡がるピンク色の世界と、そのあとの新緑の世界は、強く印象づけられている。
(日本文化の儚さと結びつける議論は個人的には好きではないが)

春になると、もしくは春の訪れを知らせる桜は、あたりまえのように毎年春になると咲くようにも錯覚する。春という季節の訪れを桜とともに、そして、強く桜に記憶づける方も多いのではないだろうか。

年を重ねてくる(それが何歳であっても)、印象に残る「桜のある風景」というのが、それぞれあるのではないだろうか。

日本は戦前、教育の一環の一つとして、学校の校舎まわりに桜(ほとんどがソメイヨシノ)を植えたと言われている。なので、学校の入学式や卒業式、などの記憶と桜が結びついている方もすくなくないだろう。

昨年の4月1日は?と思えば、私は雨の中、大阪ではないあるところで桜をみていた。山村の廃校あとの桜、そして、真新しい木の建物の窓から見える雨に濡れた桜の記憶。

そんなことを思いながら、大学のときは4月1日には桜はなかった(大学は山梨県都留市だったので)。その地の寒さと東に引っ越した(いまのことばなら移住?)実感をもった。

記憶をたどっていくと、実はこどものときの闘病時代の桜がフラッシュバックしてきた。

ベットからすら降りることが許されない病院での治療の中で、看護婦(師)さんたちが連れて行ってくださったのは、病院の庭の桜だった。場所から考えると大阪市の中之島になる。病院も移転してしまっているのでもうあの桜はないのだろうな。
パジャマで、看護師さんにおぶってもらって、庭にいき、小児科に入院していたこどもたちが10数人、桜の下にいる。見上げると言うよりも、そこにいる風景。身体にあたる風の冷たさと、しゃべっているのが、看護師さんたちだけという頭の中にのこり、記憶と白黒の写真のような一枚の風景記憶。

45年前

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