都心回帰と「移住」ということば
昨日「移住」ということばについて書いた。なぜか、また今日もあれ?と思う「移住」ということばが目についた。「都市移住」ということばだ。
この記事の中では都市移住ということばが使われている。それも集団で移住するではなく、人の都市への移動すなわち引っ越しを都市移住ということばを使っている。文脈からすると都市中心部への移動のことのようだ。とすると、そもそもこの20年ほどにいわれていた都心回帰のことではないのか?と思っていると別の記事に出会った。
こちらの記事では都市移住ということばば使われず、都心回帰を共働き夫婦と通勤時間の短縮をもとに、都心回帰というより、都心から郊外に住宅をもとめることをしなくなっていることが言われている。
都市が五十嵐泰正氏の規定するように「異質性の高い人が高度に集積した場所のこと」を価値として「流動性が高い」特徴をもつという空間を表しているのであれば(当然、それは社会学的な見方であるが)、それは必ずしも都心に住むことを意味しない。そこに彼は共働きというエッセンスを組み入れる。奇しくも2つの全く視点の違う記事に共通項がある。
つまり、都市中心部に移住するというのではなく、暮らすという行為を収入を得る「仕事(稼ぎ)」という行為に収斂して考えるようになっているということである。その意味で、高度経済成長期におこった集団就職のように暮らしの場からきりはなされて、労働力化している私たちの現代生活を色濃く表しているのかもしれない。都心部に住居を設定し、高い家賃、高い生活費を支払う、つまり都心コストを払っていくと同時に、上がらない賃金の中で、著しく私たちは貯蓄額をさげていっているだ。そのことは、この15年で進んできたこととマッチしている。
しかし、それでもなぜ、「移住」ということばをあえて使わないといけないのか、その理由がわからない。昨日の文章にも共通するような日本人の文化的ノスタルジーを彷彿させるような「土地」への愛着心をあおるような言葉づかいなのだろうか。もし、そうであれば、そもそもそれは批判されなければならないようにも思う。それとも、このような個人の家計状況にもかかわらず、持ち家志向、マイホーム志向をもっている私たちをこれも彷彿させるようなことば使いなのだろうか。
なんとも「移住」ということばはむず痒い。