推理小説をどんな順番で読む?

 推理小説だけではなく、比較的長い小説をみなさんはどう読むだろうか。「どう読む?」と尋ねると、どんな風に感じるとか解釈するとかにきこえてしまうかもしれないが、ここではまさに「順番」について書いている。
 実は私は200~300ページくらいの小説になると、最初の1/3を読み、その後、最終の1/4くらい、つまり結末を読み、戻って読み進めることが多い。
 この話を人にすると大抵「えー!!」と否定的な反応が返ってくる。中には「作者に対する冒涜やん!」とまで言われることも少なくない。そのあとに、それって「普通の小説だけのことですよね?」「推理小説でも、ですか?」ときかれる。そう私は推理小説でもそんな読み方をする。さらに会話の主は、「信じられない」という顔になる。
 中には最初から順番に作者が意図したように読むものもなくはないが、どうも多くはそうはならない。あ、短編はさすがにそうはならない。
 いつごろからそんな読み方をするようになったのだろう。実はあまり記憶がない。こどものころに読んでいたときはそんなことはなかった気がする。学校や市立の図書館で好きで読んでいた推理小説は順番に読んでいたように思う。ところが高校のときの記憶では、すでにこんな読み方を身に付けていた 笑 から、あまり本を読んでいた記憶のない中学生の時代にこんな読み方になってしまったのだろう。といってもそんなに読む方ではなかった。クラスにはもっとたくさん読む人もいたし、そんなにたくさんの本に囲まれていた環境でもなかったので、お小遣いの中から赤川次郎の短編なんかを買って好きで読んでいたとか、高校の先生にすすめられて橋本治を読んだりもした。そう短編中心。高校を卒業する頃には、司馬遼太郎の歴史小説にはまりまくったが。あー、やっぱりいつからかはわからない。けれど、この読み方で読んだ小説ではっきりおぼえているのは「ベッドタイムアイズ」だ。

 結論を先に知ってしまってから読む読み方を、

 【小説を読むとき作者に挑戦するように読んでいるとも言える。】
 【小説を読むときに、結論までに至るプロセスを楽しむとも言える。】

 おそらく、自分自身の思考性、思考のプロセスにかかわっているんだろうな。結論を見せられても、「間(あいだ)」を楽しむことができれば、その小説は印象に残る。結論がすばらしくても、「間(あいだ)」を楽しむことができなければ、印象に残らない。
 そう、私はなんでもそうだ。「プロセスが楽しい」のだ。

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