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Chibayish, Iraq 9/23

落日間際の太陽は大きく見える。北に進んでいたから、左手側が橙色に染まって、その対岸は遠く夜の色を深めていた。マルシェ。背の高い葦の草に囲われた細い水路を木舟が緩やかに進む。水牛の水浴び、立っては消えゆく波紋、湿った熱気とともに立ち上る水草の青々とした匂いと、微風に吹かれて互いに擦れ合う音々。木舟の尖った先端がそのただなかを裂いていく。青緑の葦に混じった秋に色づいたいくつかの草木。夕色に鮮やかだった水面鏡は、今やただ深まる黒を映すだけである。

懐かしい匂いがした。しかしそれは具体性を伴わない朧げな郷愁だったから、この景色が一体、私の人生のいかなる時点と呼応したのか、私はまったくわかり得なかった。それは私をいつの時代に連れ戻してくれたのだろうか。

東の空に灰煙が揺れていた。白壁の軒先で古びた漆色の布を全身に纏って、女が気だるげな様子で火を起こしているのは、実に秋であった。下端の細い煙は、その幅を広げながら、滲むように夜の空に同化していき、浮かぶ星に被さってその光さえ鈍らせた。湧水の成す川が細々と流れ出で、いずれ大海に広がるように、煙と夜に境界はなく、はじめから一つとしてあるようだった。

軒先の火は闇情景に浮かんでいた。十分に水分を混ぜ合わせずに画用紙に擦り付けた絵の具のような鈍く重ったい色で、夜の中に死んでいるように見えた。船が進んで、濃紅の一点は視界の端に追いやられていずれ失われた。私は何か非現実的なものに乗って、時間や距離の感覚も失い、ただ虚しく身体を運ばれていくような感覚を得た。目に映る景色が、全て遠い過去の出来事のようにも、あるいは未知の神秘性さえ含んでいるようにも思えた。

果たして呼応しうる時代など実際には存在しなかったのだろう。あの郷愁は、具体的な過去との呼応によるものでなく、凡庸な日常と対比される形で私の内心に無意識に描かれた想像上の、そして恣意的に理想化された過去への郷愁に他ならない。

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