八千年紀の怪物 【掌編小説】
怪物はなぜ生まれたのか 怪物が怪物になる以前 お騒がせな台風があったと云う ふつう台風と云えば夏の暮れから立秋ほどの間にかけて来て 大雨と暴風で洪水を起したり 稲穂を先に刈って行ったりしてしまう しかし 此度の野分というのは 特段に力を持っていた訳ではなかったと云う タイフーンは結局 災いを齎さなかった ひとり自転車に乗った少年が 田圃に落ちると云うこと以外は 少年は予想外だった なぜならば 田圃に落ちると云うのは 田舎の小学生が 立夏の陽気にうっかりして落ちるものだと 泥んこになって登校してきては先生に怒られてる小学生と 全く同じということに納得がいかなかった それもそうだし なぜこれだけの台風が 水張りの時期にきて つまり春部の終わりにやってきて 自分の洋服も肌も泥まみれにして 自転車のメタルコーティングも泥製に上書きされているのかと 兎に角の災難だった 少年が田圃に落ちる直前の最終コーナー 彼は疾風怒濤に 本統にそんな形相をしながら 走り抜けた もはやうっかりでなく真剣に田圃に落ちた と云えるまでに 向かい風の所為で一向に進まない自転車を上体でゆらゆら左右に振りながら 雨が頬に下りても横流しの雨がちょちょ切れるように 競輪選手のようなコーナリングを見せたのである だから不思議なのだ 少年は横風を喰らったのでもなく 集中が切れてしまったのでもない 落ちるべくして落ちたのだった ここに怪物の必然的な誕生がある もはやモンスーンの狂いも偶然にしない八千年紀の怪物である 少年は中々帰りたくなかった やっぱりこんな醜い姿になって家に戻れば なにを云われるか分からない だからしばらくは田圃に埋まった儘考えることにした 少年は泳いだ ドジョウと一緒になって泳ぐことにした ドジョウはなにか知っているかもしれなかった しばらくは泳いでいた ドジョウはなにも知らなかった また困ってしまって 兎に角それなりに大粒の雨を感じていた 少年はどれだけの雨が この町に降り注がれているのか かつて知らなかった そんなこんなで非常に判りづらく 夕景が過ぎた 少年の決意は頑なだった 兎に角 一晩中は帰りたくなかった 辺りはすっかり真っ暗になってしまって それから少しして 捜索隊と思しき人を見つけた やけにライトを振り回して しきりに自分の名前を呼んでいるのが 怖くて堪らなかった 泥の妖怪になってしまった自分を見れば きっと驚くだろう だから見計らってやり過ごしたのである 少年は木になることができた 自分の体を泥で弄れば こうやって擬態して 追手から逃亡することができる 少年は自分の自転車が見つかってしまったとき 危機感を抱いた 出来るだけカモフラージュするべく緑地へと それも出来るだけ遠くの場所へ行けるよう 緑地から緑地へと亘った 田圃から離れるたび それでも人の声が聞こえると 嫌で嫌で堪らなかった 少年は悲しかった 八千年紀の怪物 それは永遠に人間に好かれることなど無く 孤独な存在なのだと 空腹感が逃亡の時間を報せるとき 田圃に落ちてしまった運命の時間にただ一瞬帰りたくないと思ってしまったことが そして今もこうして逃げ続けていることが 自分が本統にそう思っているのだと云う 確信に歯止めをかけず さらには睡魔や空腹が八千代のものだと思われ 如何にも餓鬼道の怪物らしくなってきた と云うことを思った 少年は逃げ切った 朝が来ていた もう眠かった 竹林の奥ほどに眠れるだけの空間に そのまま寄り掛かって寝てしまった やがて台風が止んだ後 しばらく晴れ間が続いた 田圃は怪物の仕業らしく荒らされて 同時に神隠しがあったとのことで 町民の話題はそれで持ち切りだった 少年はしばらく経った後 竹藪の中で発見された が その痩せ細った体には 怪物の爪痕らしき皮膚の割れがあったとのことである