デイヴィッド・ヒューム『イングランド史』:啓蒙思想と近代歴史学の黎明
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デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の『イングランド史』(The History of England)は、18世紀啓蒙期のイギリスを代表する歴史書の一つであり、ヒュームの生前から高い評価を受けた作品です。哲学者として名を馳せていたヒュームが、その経験論的手法や懐疑論的気質を歴史叙述にも応用し、イングランド(中世からスチュアート朝、ハノーヴァー朝初期まで)を広い時代的射程で描いた点に大きな特徴があります。
背景・成立過程:
1. 執筆の動機と環境:
ヒュームは哲学的著作やエッセイで知られていましたが、当時の出版市場や知識人社会では、歴史書が高い需要と知的名声をもたらす主要なジャンルでした。彼の哲学著作は当初大きな議論を呼びましたが、一般大衆には難解あるいは非正統的とみなされ、彼自身が満足する名声や収入を得るには到りませんでした。一方、歴史書は、当時のロンドン文化圏で著者が大衆的かつ学問的な名声を得る好機であり、ヒュームはこの分野へ進出することでより広い読者層に訴えることを試みました。
2. 刊行状況:
初版は1754年から1762年にかけて、6巻構成で段階的に刊行されました。ヒュームはまずスチュアート朝(1603年以降)の歴史から手を付け、以後、テューダー朝、ノルマン征服以降の中世を遡る形で執筆し、最終的にイングランド史全般を網羅的に扱う一大叙述に仕上げていきました。この逆時系列的な執筆は結果として版を重ねるごとに体系化され、最終的には中世から近世までの一貫した「イングランド史」として整序されます。
3. ヒュームの歴史観と啓蒙主義的特徴:
ヒュームの歴史叙述は、彼の経験論的・懐疑的哲学と啓蒙思想の影響が反映されており、単純な王朝年代記ではなく、社会的・政治的諸制度、宗教対立、議会と王権の相克などを、モラル・習俗・法体系の進展と関連付けて描き出します。また、彼は編年体的な事実羅列ではなく、原因と結果の連関や人間性・制度の漸進的変化を重視し、合理的な説明を与えようとしています。この点で、単なる昔話ではなく、近代的な歴史叙述の先駆けとみなすことができます。
全体の構成:
ヒュームの『イングランド史』は、その成立過程の関係上、当初は断片的・逆年代的に出版されましたが、最終的な形ではおおむね以下のような時代区分に整理されます。
1. 古代ブリテンとノルマン征服以前(ローマ支配~サクソン・デーン支配期)
イングランド社会の初期的基盤として、ローマ支配以降のブリテン島の情勢、アングロ・サクソン社会、デーン人(ヴァイキング)侵入による政治的・社会的変動を取り扱います。ここではまだ資料が限られており、習俗・法・政治制度が流動的であったこと、王権の性質や支配様式がまだ確立していない段階が描かれます。
2. ノルマン朝から中世後期(ノルマン征服~プランタジネット朝)
1066年のノルマン征服以降は、封建制度の導入と定着、教会との関係、マグナ・カルタ(大憲章)を含む憲政的発展と王権・貴族・教会・都市との複雑な力学が重要テーマとなります。ここでは中世イングランドにおける制度的安定化と、後の立憲的伝統の源泉となる中世的諸条件が整っていく過程が示されます。
3. テューダー朝(15世紀末~16世紀)
ヘンリー7世からエリザベス1世まで続くテューダー朝期は、宗教改革・王権強化・議会との関係再編といった大きな政治的・宗教的転換点が相次ぎます。特にヘンリー8世による英国国教会の成立や、エリザベス朝期の宗教的均衡と国際関係(スペイン、スコットランド、フランスとの駆け引きなど)が描かれ、近世的国家の形成過程が浮き彫りにされます。
4. スチュアート朝から名誉革命まで(17世紀)
ジェームズ1世、チャールズ1世、清教徒革命(イングランド内戦)、クロムウェル政権、王政復古、ジェームズ2世の治世と1688年の名誉革命までが扱われます。この時代は、王権神授説と議会主権の衝突、宗教的対立(ピューリタンと国教会)、そして近代的立憲君主制への基盤が定まっていく非常に動的な時代であり、ヒュームも特に注力してこの政治過程を叙述します。
5. 名誉革命以降、ハノーヴァー朝初期(18世紀初頭まで)
名誉革命以降の社会・政治体制の安定化、ホイッグ政権の確立、立憲的な君主制と議会政治の成熟、商業・経済発展を描くことで、近代イングランド社会の出発点としての18世紀初頭へとつながります。
まとめ:
全6巻からなる『イングランド史』は、初出時の順序は複雑であったものの、全体としては古代ブリテンから18世紀初頭までのイングランド史を一貫して描く大著です。ヒュームは、哲学者としての洞察を用いて、政治権力、宗教、社会習俗、経済状況など多面的観点から歴史事象の因果関係と意義を捉えようとしました。その結果、この作品は啓蒙期の歴史学的観点を体現し、後世の歴史学や政治思想研究にも大きな影響を与えたものとなっています。
1. 古代ブリテンとノルマン征服以前
ローマ支配(紀元前43年~紀元410年)
紀元前43年、ローマ帝国はブリテン島を征服し、ブリタニア属州を設立しました。この時期は、ローマ文明の影響を強く受けた時代であり、道路網、都市の建設、浴場、寺院など、ローマ的な都市文化が広まりました。特にロンドン(Londinium)をはじめとする都市は商業と行政の中心となり、ローマの法と制度が支配的となりました。これにより、ブリテンはローマ帝国の一部として、他のヨーロッパ地域と連携を強化しました。しかし、4世紀末になるとローマ帝国自体が衰退し、410年にローマ軍が撤退すると、ブリテンは再び自立を求められることになります。
アングロ・サクソン時代(5世紀~11世紀)
ローマの撤退後、ブリテンにはケルト系の部族が残り、アングロ・サクソン人が移住を開始します。アングロ・サクソン人は、現在のドイツ北部やデンマークから渡ってきたゲルマン系の民族で、彼らは最初、海岸線を中心に定住を始めました。その後、アングロ・サクソンの七王国が形成され、最も強力な王国はウェセックス王国でした。アングロ・サクソン社会は封建的であり、土地の所有権と忠誠の関係が重要な役割を果たしました。
この時代、教会の影響も重要であり、6世紀にはアウグスティヌスがローマ教皇の命令でイングランドに布教に来て、キリスト教が広まりました。アングロ・サクソンの王国はまた、外部からの侵略にも悩まされました。特に、9世紀のヴァイキング(デーン人)による侵入は大きな影響を与え、デーン人が一時的にイングランドの広い領土を支配することになります。ヴァイキングの支配は、アングロ・サクソン社会に大きな変化をもたらし、文化的・社会的な融合が進みました。
ノルマン征服(1066年)
1066年、ウィリアム1世(ノルマンディー公ウィリアム)がイングランドを征服し、ノルマン朝が成立します。このノルマン征服は、イングランドの政治、社会、文化に革命的な変化をもたらしました。ウィリアムは、征服地の土地を貴族に分配し、封建制を導入しました。また、彼はイングランドの教会の組織改革を行い、ローマ教皇庁に対する忠誠を強化しました。ノルマンディーとイングランドの支配者が同一であったことは、両地域の結びつきを深めるとともに、後の百年戦争(14世紀)などの原因にもなります。
ノルマン征服から中世後期(プランタジネット朝)の時代を取り上げます。
2. ノルマン朝からプランタジネット朝へ:封建制度と中世イングランドの発展
ノルマン朝(1066年~1154年)
ノルマン征服後、ノルマン朝(ウィリアム1世、ウィリアム2世、ヘンリー1世、スティーヴン王)下でイングランドの社会・政治構造は大きく変革されました。ウィリアム征服王は『ドゥームズデイ・ブック』(Domesday Book, 1086年) を編纂し、全国的な土地台帳を整えました。これは国王が貴族からの年貢や軍役を確実に徴収する基盤となり、強力な中央集権的王権の基礎が築かれます。
この時代、フランス大陸側の領土(ノルマンディー公領)を併せ持つイングランド王は、封建契約を通じて国内を統治し、教会との関係にも深く介入しました。一方で、王家内部の相続争いやフランス大陸側領地を巡る大陸との関係は、しばしば内乱や対外戦争を引き起こし、国政の不安定要因となりました。
プランタジネット朝成立(1154年以降)
1154年、ヘンリー2世(アンジュー伯ヘンリー)が王位に就くことでプランタジネット朝が始まります。彼は広大な「アンジュー帝国」を支配し、イングランドとフランス領土(アンジュー、アキテーヌ、ノルマンディーなど)を一体的な君主領として治めました。この時代、王権はさらに強化・中央集権化され、コモン・ロー(Common Law)の形成や王室裁判所の整備を通じ、全国的な法と司法制度が整えられます。また、ヘンリー2世とカンタベリー大司教トマス・ベケットの対立に見られるように、王権と教会権力の競合は中世イングランド政治の大きな課題でした。
マグナ・カルタ(1215年)と封建貴族との対立
ヘンリー2世の後、リチャード1世やジョン王の時代、対外戦争(十字軍やフランス領失地)と重税、専横的王権行使が貴族たちの反発を招きます。ジョン王に対し、封建貴族は1215年、ラニーミードで「マグナ・カルタ」を承認させました。これは王権を法的拘束下に置く文書であり、自由人(主に貴族階級)の権利保障や恣意的課税の制限、正当な裁判手続きの保証を謳っています。マグナ・カルタは後のイギリス憲政史や近代的人権理念の先駆けとして高く評価されます。
中世後期の動乱と議会制度の胎動
プランタジネット朝後期には、領土紛争(特に百年戦争、1337-1453年)や内紛(薔薇戦争、1455-1487年)を背景に国王と議会の関係が変容します。百年戦争はイングランド王がフランス王位継承権を主張してフランスと戦った長大な戦争で、長弓兵部隊の活躍や農村経済・社会の変化、王家財政の逼迫による議会召集の頻度増大など、政治・社会面に大きなインパクトを与えました。
同時に、封建貴族層は王権に対して議会(最初期は貴族会議的性格が強かったが、のちには庶民院が形成されていく)を通じて影響力を行使するようになり、14世紀末から15世紀にかけて徐々に立法と課税承認のための議会制が定着し始めます。薔薇戦争による有力貴族家門の衰退は、王権強化と次なる王朝の発展に道を開き、やがてテューダー朝の下で近世的国家形成へと繋がっていくことになります。
テューダー朝(15世紀末~16世紀)およびその周辺期のイングランド史を見ていきます。
3. テューダー朝:宗教改革と近世国家形成の始動
テューダー朝成立の背景(ヘンリー7世)
15世紀末まで続いた薔薇戦争において、ヨーク家とランカスター家という二つの王家系統が王位継承を巡って争いました。最終的にランカスター派として台頭したヘンリー・チューダー(ヘンリー7世、在位1485-1509年)が1485年のボズワースの戦いでリチャード3世を破り、テューダー朝を開くことになります。ヘンリー7世の治世は戦乱後の王国再建期にあたり、王権を強化し財政を安定化、そして商業振興に努めることで、国内の秩序回復と経済発展への基盤を作りました。
ヘンリー8世と宗教改革(在位1509-1547年)
ヘンリー8世は、初期には「信仰の擁護者」としてローマ・カトリック教会を擁護していましたが、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題を機に、ローマ教皇権と対立を深め、ついにイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)を成立させました。1534年の首長法(Act of Supremacy)により、国王が教会首長の地位を得て、教皇からの独立を宣言します。この宗教改革は教会組織のみならず社会的・政治的構造に深遠な影響を及ぼし、修道院の解散による土地・財産の没収と再配分を通じて新たな貴族層や地主階級が生まれ、王権と国政支配の基盤がより安定しました。
エドワード6世、メアリー1世、そしてエリザベス1世(16世紀中頃~末)
ヘンリー8世の死後、イングランドは息子エドワード6世(在位1547-1553)や長女メアリー1世(在位1553-1558)の短い治世を経て、エリザベス1世(在位1558-1603)の時代に突入します。エドワード6世期はプロテスタント的改革を更に進め、教義的にもローマ的カトリックからの離脱が決定的となりました。一方、メアリー1世は母系のカトリック信仰に立ち戻り、カトリック回帰政策を行い宗教弾圧を行いましたが、その政策は国民の不満を高めました。
エリザベス1世は、宗教上の「中道主義(Elizabethan Settlement)」と呼ばれる折衷案を打ち出し、国教会を安定させました。この宗教政策は、プロテスタント的色彩を保ちながらも急進化を避け、国内の安定と国際関係の均衡を図るものでした。また、エリザベス期にはイングランド海軍力の強化と世界進出が進み、スペイン無敵艦隊(1588年)の撃破はヨーロッパの勢力図を変え、イングランドの海洋国家としての自信と繁栄に寄与しました。同時に、シェイクスピアに代表されるルネサンス文化の爛熟期でもあり、文化・芸術面でも「エリザベス朝ルネサンス」が花開きました。
テューダー朝の意義
テューダー朝の諸君主は、中世的な封建構造を解体し、王権と議会、貴族・地主階層間の新たな均衡を築きました。特に宗教改革を通してローマ教皇権から脱却したことは、国王・国家・教会の関係性を根本的に変え、近代的主権国家形成への一里塚となります。エリザベス1世の統治下で議会は依然として王権に従属的だったものの、国政に影響力を増し、後にスチュアート朝での議会との相克へと繋がっていきます。
スチュアート朝(17世紀)と名誉革命(1688年)までの動揺と変革の過程を取り上げます。
4. スチュアート朝と清教徒革命、名誉革命:立憲制への転換点
ジェームズ1世とチャールズ1世の時代:王権と議会の軋轢
テューダー朝最後のエリザベス1世が崩御した1603年、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、スチュアート朝(1603-1714年)が始まります。ジェームズ1世は王権神授説を強く信奉し、国王権力の絶対性を主張しました。だが、テューダー朝後期から発達してきた議会は、課税承認権と政治参加を足掛かりに、王権に一定の制約を加えようとします。この緊張関係は息子チャールズ1世(1625-1649年)の時代に深刻化しました。
チャールズ1世は議会を度々解散し、専断的な徴税や特別税を行うなど、王権と議会の対立を先鋭化させました。また宗教的には、国教会儀式を華美に保とうとするチャールズ1世やカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの政策は、清教徒(ピューリタン)をはじめとするプロテスタント急進派を刺激しました。スコットランドやアイルランドでも宗教政策が抵抗を招き、内外情勢は混迷を深めます。
イングランド内戦(清教徒革命)と共和制期(1642-1660年)
1642年、チャールズ1世と議会派(ピューリタンや商工階層、市民層)との対立はついに武力衝突へと至り、イングランド内戦(清教徒革命)が勃発します。議会派軍はオリヴァー・クロムウェルの指導下で「ニューモデル・アーミー」を組織し、1649年には王党派を破ってチャールズ1世を処刑。イングランドは王制廃止を宣言し、共和制(コモンウェルス)へと移行します。
クロムウェルは「護国卿」として事実上の軍事独裁的統治を行い、ピューリタン的な道徳規範を社会全体に押しつけつつ、オランダとの貿易戦争やアイルランド制圧など対外政策を進めました。しかし、その強権的・厳格な体制は国内に不満を呼び、クロムウェルの死後、政局は混乱します。結局、1660年に王政復古が成就し、チャールズ2世が帰国・即位することで、共和制の試みは終焉を迎えます。
王政復古と名誉革命(1688年)
王政復古後、チャールズ2世(在位1660-1685年)は前回の革命の痛ましい記憶を踏まえ、議会との妥協をある程度行いつつも、専制的傾向を残し、カトリック寄りの姿勢も見せました。次のジェームズ2世(在位1685-1688年)は公然とカトリックを擁護し、議会や国民の不信感を一層高めます。当時、宗教上の対立はなお鋭く、カトリック復古への恐れが強くありました。
1688年、議会指導者たちはジェームズ2世の娘でプロテスタントのメアリーと、その夫でオランダ総督ウィリアム(ウィリアム3世)を招き、クーデター的政変「名誉革命」を起こします。ジェームズ2世はほぼ抵抗なく退位・亡命し、ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治者として即位しました。この名誉革命は流血を伴わない政権交代であり、議会が国王を「選ぶ」という画期的事態を生み、以後、王権は議会に対して従属的な立場に置かれていきます。
名誉革命後の政治体制の意義
1689年の権利章典(Bill of Rights)は、国王の権力を議会の立法と課税承認権の下に置き、法の支配と人民の権利を明確化しました。これはイングランドが立憲君主制へ移行する大きな一歩であり、後のイギリス憲政主義発展の土台となります。こうして17世紀における王権と議会、宗教と政治の激しい対立と変遷は、新しい政治原理―「議会優位の立憲君主制」―を生み出し、近代国家形成において大きな画期をなすことになりました。
名誉革命以降からハノーヴァー朝成立初期(18世紀前半)までを扱い、議会主権・商業繁栄・近代立憲君主制の定着の過程を見ていきます。
5. 名誉革命以降、ハノーヴァー朝成立と18世紀イングランド社会の変容
名誉革命後の政治体制:ホイッグ・トーリー両党派と初期立憲政治
1688年の名誉革命は、議会の優位性を確立する決定的な転換点となり、国王はもはや専制的な政策を強行することが困難になりました。1689年の権利章典(Bill of Rights)と1701年の王位継承法(Act of Settlement)は、法制面で国王権限を大幅に制約し、国王が議会の同意なしに課税・立法・軍備保持などを行うことを禁じました。また、王位継承法は英国王位がカトリック系統に渡らぬよう明確化し、宗教的紛争を緩和するとともに、安定した統治基盤を築くことに貢献しました。
このような枠組みの中で、議会内では二大派閥――ホイッグ党とトーリー党――が政策や王位継承問題を巡って対立しつつ、政治を主導していきます。ホイッグ党は、プロテスタント的自由主義、商工階層や都市の利益を代表し、議会主導の政府運営を志向しました。一方、トーリー党は国教会支持と伝統的土地貴族層、王権との協調路線を重視しました。この党派的競合は、後の二大政党制の原型となり、議会政治の発展を促しました。
ハノーヴァー朝(1714年~)の成立と「責任内閣制」へ
ステュアート朝の断絶後、1714年にドイツ・ハノーヴァー選帝侯家のジョージ1世が即位し、ハノーヴァー朝が始まります。ジョージ1世やジョージ2世はドイツ語話者であり、大陸領地(ハノーヴァー)との関わりも深かったため、イングランド(イギリス)政治に直接統治者として深く介入することが相対的に少なくなり、その結果、政治実務は閣僚と議会が主導する方向へと進みました。
この過程で、首相(当時は「第一大蔵卿」)ロバート・ウォルポール(在職1721-1742年)の時代には、国王ではなく、議会多数派を背景に政権運営を行う「責任内閣制(Cabinet Government)」の萌芽が見られます。行政権力は国王個人よりも、議会で多数を握る政党勢力を基盤とする内閣が行使する仕組みが生まれ、イギリスにおける近代立憲君主制の特徴的モデルが形成されていきました。
商業・金融革命と国家財政基盤の強化
同じ時代、イングランド(1707年の合同法以降は「グレートブリテン王国」)は商業・金融革命を経験します。17世紀末のイングランド銀行(Bank of England, 1694年)の設立は、国家債務の管理や信用創造を可能にし、戦費調達や商業活動の円滑化を支えました。国際貿易拡大、植民地経営の加速、大西洋三角貿易やインド・東南アジアへの進出などにより、イングランドは大西洋経済圏の主要プレイヤーとして台頭。ロンドンは国際金融センターとして発展し、商工ブルジョワジーが政治・社会の新たな担い手となりました。
経済成長と安定した財政は、議会への課税承認権や財政監督機能の強化を意味し、議会が国家運営の中核的存在となる好循環を生み出しました。この結果、王権が議会同意なく冒険的な戦争や政策を進めることは一層困難になり、国内政治は安定し、外交・軍事政策も議会を通じた合意形成を要する制度的基盤が整います。
社会・文化の変遷と「イギリス」アイデンティティの醸成
18世紀初頭までに、イングランド、スコットランド、ウェールズを包含する「グレートブリテン王国」が成立し、ブリテン諸島内部での政治・経済的一体化が進行しました。また、海外植民地や通商網の発達を背景に、国際的影響力は拡大し、国内には活発な印刷文化が花開き、コーヒーハウスで議論が交わされ、啓蒙主義的な思想潮流が根づいていきました。
こうした環境の中、イギリスは名誉革命以降続いていた内的混乱を克服し、立憲主義的な政治基盤・国民経済の成長・文化的成熟を備えた近代国家として歩み始めました。18世紀中葉以降には産業革命の胎動も見られ、これらは後にイギリスを世界史的規模の「近代」の先駆者とする土台となります。
名誉革命からハノーヴァー朝初期にかけて、イングランドは議会優位の立憲君主制を確立し、国家財政を健全化・強化し、商業・金融を基盤に海外へと飛躍した時代を経て、近代的な「イギリス」へと変容していきました。これによって、後世にまで影響を及ぼす英国家制と国際的地位が確立され、近代ヨーロッパ史と世界史に大きな足跡を残すことになります。
おまけ
それでは、「おまけ」として、ヒューム『イングランド史』の歴史叙述手法や後世への影響に関して、いくつか興味深い点を挙げてみます。
1. ヒュームの執筆姿勢と同時代批評
ヒュームは哲学者として自らの懐疑主義や経験論に基づき、歴史記述にも事実精査と因果関係の慎重な検討を反映しようとしました。彼は同時代の読者向けに、過去を生き生きとした物語として提示しつつ、同時に人間性や社会構造の特質を解き明かそうとしたのです。この二面性は、単なる王朝年代記でもなければ、固い学術分析だけでもない、独特のバランス感覚を彼の叙述に与えました。
2. 政治的・宗教的中立性への配慮
ヒューム自身は宗教的には自由思想に近く、政治的には急進的でも保守的でもない中道的観点を示すことが多かったため、後世の読者から「公正な裁き手」と評価されることがありました。ただし、18世紀という時代背景ゆえ、現代的基準から見ると必ずしもニュートラルとは言えない部分も残っています。例えば、女性や下層民衆の位置づけ、非ヨーロッパ地域への言及などには限界があり、後の新しい歴史学的手法の観点からは批判的再検討が可能です。
3. 後世への影響
ヒュームの歴史叙述は、後のイギリス史研究者(ギボンやマコーレイなど)や、さらに19世紀的な専門的歴史学確立へと繋がる重要な転換点に位置します。また、そのスタイルは当時の文学的な歴史書への需要にも応えたため、一般読者にとっても「読みやすく、学べる歴史叙述」として評価されました。結果的に、ヒュームの歴史は一時期、イングランド史に関する「定番的標準テキスト」の地位を占め、18~19世紀の英国インテリ層に大きな影響を与えました。
4. 歴史哲学的意義
ヒュームは明確な「進歩史観」を掲げていませんが、人間社会の慣習、制度、思考パターンの変化を積み重なるものとして描写することで、読者に過去を合理的に理解し得る対象として提示しました。彼の『イングランド史』は、歴史を単なる神意や英雄伝説ではなく、人間社会の行動と選択、制度的漸進によって形成されるプロセスとして理解しようとする姿勢を具体的に示しています。
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このような点は、『イングランド史』本文には直接記されていない「周辺的考察」ですが、ヒュームの歴史書をより深く味わう上でのヒントとなるでしょう。