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古事記をはじめて学ぶ-12 出雲族のルーツはインド? 古代の海洋交易と情報伝達の謎
出雲族のルーツは、本当にインドなの?
古事記や出雲口伝書を読み解き、古代の海洋交易と情報伝達の痕跡を辿りながら、出雲族の起源に迫ります。
只今、大元出版の「出雲王国とヤマト政権」を読んでいます。2章に、出雲族の起源が記述されているのです。
1. 出雲族はインドのクナ国
出雲族のルーツはインドのクナ国(現在のマディアプラデーシュ州グナ)という説があります。これは、出雲口伝書や、一部研究者の間で提唱されているもので、クナ族の文化や風習と出雲族の類似性が指摘されています。
Google Mapで表示するとニューデリーの南に位置するエリアのようです。この民族がクナ族。
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2. アーリア人の侵略と口伝と言霊
紀元前1000年頃、クナ国はアーリア人の侵略を受け、東へと移動を余儀なくされます。
この移動は永い年月を経て達成されるのですが、この民族移動の過程で、一族の結束を固め、知識や文化を伝承するために、「口伝」と「言霊」が重要な役割を果たしたと考えられます。
「言霊」とは、言葉に宿る力のこと。
出雲族は、言葉を通じて祖先の教えや歴史を語り継ぎ、困難な時代を生き抜いた種族であると考えられます。
アーリア人は中央アジアの遊牧民の一族。その後、アフガニスタンを経由して、イランやインドへ南下してきます。
アーリア人がガンジス川流域に定着したのが、紀元前1,000年頃。その後、インドへ侵入し、クナ国は東へ移動(侵略)となります。
インドから日本への旅は、気の遠くなる距離です。何代も何代も経由して東の果ての地である日本に着いたと考えられます。
その間、「東に良い土地があるから目指せ!」と口伝の様に、リーダー(一族)に行動指針が継承されたのではないかと想像します。
出雲族の口伝はこのような民族の主義主張を、何世代も引き継ぐ力を持っていたのかもしれません。
そして、永い旅の道中でも、一族の結束を維持するには言葉の力が必須です。ここに、言霊の真髄が秘められています。
出雲国では、「言代主」(事代主)という官職があったようです。まさに、インドを旅立った時から一族に継承された、言霊による政が行われていたと推測されます。
今回の記事に載せていませんが、清水徹郎氏の「日本語タミル語起源説について」も読ませていただきました。
日本語がインド語の一部と類似している様子です。インダス文明とアーリア人の侵入、ドラヴィダ語エリアなどが記されています。
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3. なぜ、クナ国の人々は情報を得られたのか?
クナ国が東方の情報を得られた背景には、「おもてなし文化」があったのかもしれません。
異邦人を快く迎え入れ、交易を積極的に行うことで、様々な情報が集まりやすかったと考えられます。
この姿勢は、現代日本の「おもてなし文化」のルーツの一つと言えるかもしれません。
当時をイメージしてみます。
紀元前1,000年の時代に、インドの内陸部の王国が、なぜ、東に良い土地があると知ることができたのでしょうか?
東に良い土地があるとの「情報」と、内容の「信頼度」が重要だったはずです。
商人、外部からの客人に対する自国の姿勢が閉鎖的であれば、外部情報は密に得られません。
したがって、当時のクナ国は外部の人々を手厚く迎える姿勢に満ちていたのではないかと、想像しています。
この姿勢が、現在の「おもてなし文化」の源流なのかもしれません。
クナ国の方々は「おもてなし文化」を有しており、この一族が日本に移住したため、今の私たちも「おもてなし文化」を引き継いでいるのかもしれません。
とすれば、クナ国の一族が日本に移住説は真実と言えるのかもしれません。
クナ国には「おもてなし文化」による商人や外部人からの情報伝達仕組みが、紀元前1,000年に成立していたと考えらます。
4. 東の国情報の伝達と伝播の仕組み
では、日本の情報を誰がインドまで伝えたのでしょうか?
日本の情報の出発点は、海で隔てられた日本の情報を、どのように大陸へ伝えたのか?となります。
海で隔てられた日本ですから、「船を用いた交易が情報源だった」と考えるほうが自然です。
この考えから導かれるのは「太古から、日本は大陸と交易を行っていた」となります。
商人は大陸の人たちだった可能性が高いのかもしれません。彼らは、広い海で、位置を特定し、方向を定め、天候不順でも航行できる高度な航海術を身に着けていた人々と考えられます。
日本の情報が海を渡ったために、情報がインドへ伝わったのです。インドに情報が伝わるには、さらに永い年月が掛かったと思われます。すなわち、「紀元前1,000年頃には日本は大陸と交易を行っていた」と断言できるのです。
交易相手の日本側の窓口は、大陸から移住してきた一族かもしれませんし、縄文人なのかもしれません。しかし、日本の情報が伝わらない限り、インドからの移住はあり得ません。
5. まとめ
今回の考察を通して、出雲族のルーツがインドにある可能性、そして古代の海洋交易が私たちの想像以上に活発だった可能性が見えてきました。
太古の時代から、日本は世界と繋がっていた。
この視点を持つことで、日本史の新たな一面が見えてくるかもしれません。
これから多くの研究者の方々が解明してくれることを、大いに期待をしております。
私達は日本史を学ぶにあたり、古代史はあっという間に過ぎ去り、江戸時代の鎖国文化を学びながら「海上の閉鎖的な島国」意識が根付いてしまいます。
しかし、紀元前1,000年には日本の情報が、インドに到達していたとすれば、私たちの歴史観は大きく変わると思われます。
紀元前の時代は、私たちの予想をはるかに超えた、大きな海上交易が盛んにおこなわれていた可能性が見えてきました。
例えば、和邇族はどうでしょうか?
私は稲羽の素兎から和邇族を知りましたが、彼らは兎を島から陸に渡す役を行っていますので、海洋民族の可能性が高く、琵琶湖から瀬戸内海の海運を担っていた可能性があります。
今回の海洋貿易の見解から、和邇族は瀬戸内科に留まらず、大陸との貿易も行っていた可能性も見えてきました。
また、アズミ族も同じように海洋族ですので、和邇族と同じように海洋交易の主力だった可能性があります。
航海術には「北極星」がとても重要です。したがって、貿易商の種族は、夜の月、北極星と北斗七星がキーワードになると考えられます。
ツクヨミの神は彼ら海洋族の信仰を古事記の中に埋め込んだのかもしれません。
今回の古事記をはじめて学ぶ記事では、以下の4項目について独り言見考察させてもらいました。
① 太古から海洋貿易が盛んであった。末裔が安曇族や和邇族の可能性もあり。
② クナ国の「おもてなし文化」が情報を得るキーワードであった可能性がある。
③ インドからの移住の過程で、口伝の技術、言霊の重要性が高められ、現在の出雲口伝や日本の言霊文化に継承されている可能性がある。
④ ツクヨミ神は海洋族のシンボルだったのではないか
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