「のんきな患者」 梶井基次郎 感想文
自分と同じ病気の人間が、周りでバタバタと死んで行く。
身動き出来ない畳一枚ほどのその寝床で、目と耳だけが敏感に家族や世間のようすを捉える。「不安、不安」、今の辛さをしのぎながら。
梶井基次郎がこの作品で作家としての筆をおき、その3ヶ月後に亡くなったということをWikipediaで知った。
死に近付いて行ったこの時期なのに、少なくともこの作品からはあまり悲壮感は感じられなかった。
彼は内からの耐え難い苦しみと、一方で自分を客観的に見つめる冷静さがあると感じた。
「不安には手段がある」p.287
医者を呼ぶこと、寝ずの番。その手段が更に彼を苦しめる。それらを頼んだ時の母の理解度、また行き渋った時のことを考えてついにやめてしまう。病人がいかに周りのことに細かく気を遣っているのかが、痛く胸をつく。
そうなると癇癪を起こしてくれた方が周りはわかりやすいと、看病する側の気持ちを思い出した。
また病人の立場になれば、やはり母の疲れを考えて黙るしかないのだと理解出来てしまう。
「本能的な受け身の事ばかりやって」
新潮文庫 p.287
「いっそのこと」と吉田の頭をよぎる言葉が、とても悲しくわかる気がした。
「此処と其処だのに何故これを相手にわからすことが出来ないのだろう」p.289
母だからこそ癇癪を起こしたのか、「胸の中の苦痛をそのまま掴み出して相手に叩きつけたいような」p.290
妻がいたらどうだったのか。妻がそばにいたら、もしかすると「希望」というわずかな光を見出せたのだろうか。
若すぎる吉田の気持ちは、察するに余りある。
いつかは必ず治る、きっとそう考えていたであろう母の呑気さと鈍感さが滑稽であったが痛ましい。
「冬の蝿」にも感じたように、病に向かい「死」を見つめ、どんなに残酷な苦痛や心の渇きにも他人を巻き込まず、たったひとりで憎む心も闘う思索も、客観的に自分を見つめ、最後まで自らの内なる思いで、「決着」をつけているようで、その強い心念のようなものが、何だか力を与えてくれた。
これが梶井基次郎という理知の姿なのだと、その大きさを感ぜずにはいられなかった。弱さも狡さも醜さも自分ひとりで受け入れる。
貧しい人間はろくに医療も受けられなかった当時の現状、迷信のような滑稽な治療法や宗教には、冷ややかな頭を持ち、応対する吉田だったが、勧めた人間にはきつく当たらない。むしろ相手の環境の悲惨さに目を向けていた。
病を通して、彼が見たことのない世間の状況に触れることが出来たと語られていた。
「自分の思っているよりは遥かに現実的なそして一生懸命な世の中というものを感じた」p.316
自分の命、家族の命、身を粉にしてもどんなに愚かな治療法でも、救いを求めて試して見る。
ともすると別の世界に引き込まれて行く恐ろしさもある。冷たい頭で考えなければ見失うものもあるのだと思う。しかし、そんな必死な人々の姿は、誰も笑えない。
引用はじめ
「しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引き摺ってゆく——— ということであった」p,317
引用おわり
「死」が訪れる年齢は早いか遅いか。
病床にある人の、「恐れ」か「不安」か「その先にあるもの」か。
亡くなる前に、天井の一点を凝視する、その姿をみつめる家族は、胸が張り裂けそうだ。