【ショート・ショート】雨の夜の邂逅
会社帰りの男が、突然の雨に傘もなく途方に暮れていた。人通りの少ない通りを歩きながら、濡れたスーツを気にする。
そこへ、1本の傘が差しかけられた。
「よかったら、どうぞ」
振り向くと、そこには1人の女性が立っていた。
「ありがとうございます。でも、そちらが濡れてしまいますよ」
「いいんです。私、もうすぐ家なので。こんな雨の日は、助け合わないとね」
そう言って、女性は微笑んだ。「
「私、井上聡子といいます」
「私は、田中肇といいます」
自己紹介をした後、2人は肩を寄せ合い、雨の中を歩いた。
「こんな天気だと、会社も大変でしょう?」
聡子が聞く。
「ええ、納期に追われてバタバタしています。聡子さんは?」
「私は病院で看護師をしているんです。シフトは不規則だけど、やりがいを感じる仕事ですから」
そう言って聡子は、また優しく微笑んだ。雨音が、2人の会話に寄り添うように響く。
聡子の家が近づいてきた。
「もう着きますね。傘、お貸しします」
「いいんですか?」
「ええ。でも返しに来てくださいね。今度はゆっくりお話ししましょう」
そう言って、聡子は傘を肇に手渡すと、足取り軽やかに家に入っていった。
雨の夜に知り合った2人。20代とおぼしき女性が、同世代とはいえ見知らぬ男に傘を差し掛けることは、普通はない。そう思うと、肇は、聡子の優しさに胸をうたれた。
(今度、お礼がてらお茶でも誘ってみるか)
そんなことを思いながら、肇は帰路についた。聡子の傘の雫が希望の光のように輝いて見えた。
※
数日後、肇は聡子の家を訪ねた。ワインを手土産に、昨夜の礼を伝えるつもりだった。
呼び鈴を鳴らす。しかし、応対に出たのは見知らぬ男性だった。
「聡子という人は、うちにはいませんよ」
「え?でも、この家に入っていったんですよ・・・」
男性は首を傾げた。
「ここに来て半年になりますが、聡子さんという方は見たことがない」
事情が飲み込めず戸惑う肇。
一体あの夜は、何だったのか。確かにあの女性は、この家に入って行った。彼女は何者だったのだろうか・・・。
肇にとってはかけがえのない思い出となるはずの聡子。彼女の行為は純粋に善意で行われたものだったのか、肇にはわからなくなった。
(終わり)