死にたいと言わなくなった日
※自殺、鬱病などのショッキングな内容を含みます。
かつて鬱病を患っていた。働くことは出来ず、ご飯は喉を通らず、寝ても疲れは取れず、あばら骨が浮き出るほどガリガリに痩せ、人間関係の大半を失った。あんなにも苦しくて苦しくて仕方ない日々だったのに、寛解した今では、まるで何事もなかったかのような顔をして暮らしている。忘れた訳ではない。確かにあの日々は存在していた。けれどなるべく見ないふりをしている。
「死にたい」という気持ちも完全には無くならない。鬱は寛解はしても完治はしない。今でもそう思ってしまう日がある。けれどその感情は日に日に薄くなっている。
だからと言って今苦しい人に無責任にきっと良くなるから大丈夫とは言えない。かつて「友達なんていらない死ね」を歌っていた神聖かまってちゃんが「きっと良くなるさ」をリリースした2016年に、それで良かったはずなのに、なんだか置いてけぼりにされたような寂しさを覚えてしまったからというのもあるし、そんなに良い人生を送っている訳でもない自分が人生の先輩面するのも厚かましいからだ。けれどもし、今が辛い誰かがいて、その人に「これをしている時だけは少しだけ苦しみを忘れられる」というものがあるのなら、どうかそれを大切にして欲しいとだけ伝えたい。
さて、本題に入る。
鬱病による数年にも及ぶ無職生活を経た後は、なかなか仕事が決まらなかった。ようやく決まった仕事は、明言は避けるが、それなりにハードで、休みは少なく、ストレスフルな職場であった。そんなところに一度メンタルを壊した人間が入っていいのかとも思ったが、職を選べるような立場ではない。決まってしまった以上どうにかするしかなかった。
そこで出会った一人が、自死遺族であった。
つまり家族を自殺で亡くしていた。
それを知ったのは他人の噂などではなく、本人の口からだった。その人の普段の様子はそんなことを考えさせられない程、陽気で、底抜けに明るかった。亡くなった家族の事を、あの人は本当にお金にだらしなかったんだから、なんて冗談めかして言うけれど、とても大切に思っているのが、愛しているのが、伝わってきた。
そのことを知った日、私は「死にたい」と口にしないと決めた。
言えるはずがなかった。その言葉は、その人が一番聞きたくないであろう言葉だからだ。
そもそも職場で「死にたい」なんて一般的には言わないものだ。だから職場ではそれまでも、もちろん言ったことはなかった。けれど、友達同士の会話だと気が緩んでつい言ってしまう人もいると思う。私は失言が多い自覚があった。だからそのうっかりが起こらないよう、気を引き締めて、口を堅く閉じた。
以前手帳について書いた記事で「死にたい」と書かれたページを公開したことについても述べたい。冒頭で書いた通り、その気持ちは私の中に今でも確かに存在しており、消えてなくなってはいない。しかし、あのページは公開するべきではなかった。今では深く反省している。よって、文章の流れを崩さない程度に、別のページに写真の差し替えを行った。言い訳のように聞こえるかもしれないが、私がその日を最後に、「死にたい」と声に発することを止めていたのは事実だ。
それから何年か経った最近になって、とある親戚が仕事が上手くいっていないようで、「死にたい」と口にするようになった。とても優秀で、友達も多く、私のような暗いオタクとは対照的な人だった。今までその人がそんなことが言うのを見たことはなかった。
死にたいって言われた時、人ってこんな感情になるんだ。そう思った。私はその人にどうにかして生きて欲しい。出来ることなら長生きしてほしい。好きだから。そんな人から死にたいと言われて、思わず「なんでそんなこと言うの?そんなこと言わないでよ」と言ってしまった。ただただショックで、どうしようもなく悲しくて、手は震えて、胸が締め付けられた。当の本人はへらへら笑っていて、どこまで本気でどこまで冗談なのか分からない。
二度と言わないと誓った言葉。けれどそれは鬱の時、私自身が数えきれないほど口にしてきた言葉だった。当時はそうするしかなかった。けれどその言葉でこれまで私は他人をどれだけ傷つけてしまったのだろうか。その言葉には私が思っている以上の力があったのだ。決して口にして良いような言葉ではなかった。因果応報って本当にあるんだね。自分のした行いはこうして全部自分に返ってくる。
死にたいと言われた時、なんて答えればいいのかも、死にたいと言っていたかつての自分はなんて言ってほしかったのかも、そのどちらも私には分からなかった。
どうか今、死にたいと言っているあの人が、ふとどこかへ行ってしまわないで欲しい。私のわがままかもしれない。例え本人がそれを望むのだとしても、やっぱり行かないで欲しい。だからこれからもあの人に話し続ける。出来ることはなんだってする。私の気持ちがどこまで届いているのか分からないけれど。特別な事はしなくていい。ただ、会って、挨拶をして、くだらない話をしようよ。それ以外は何もいらない。
この記事はただの日記だ。だからこの記事を読んだ誰かに何かを届けようなんて崇高な考えもないし、自分の考えを強要するつもりも更々ない。誰しもそういう気分になってしまう日があるだろう。そのことも十分すぎるほどに分かっている。
けれどもう、例えそう思ってしまったとしても。私はあの言葉を二度と口にすることはないでしょう。
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