4/29 日記というか雑感というか#8
日本には有名な作家が数多くいる。夏目漱石は学校でも作品を習うだろうし、他にも芥川龍之介や太宰治のような偉人もいる。現代の小説でも有名な作家というと東野圭吾や村上春樹がいる。だが私は有名作家が書いた作品の中でも合う、合わないが存在するように思える。
私は特に読書家というわけではないのだが、教養として太宰治は嗜んでおくべきだと思い斜陽や人間失格を図書館で借りたことがあった。その二つは有名な太宰治が執筆したというだけでなく、実際に優れた文学作品なのだろう。だが全く頭に内容が入ってこず、面白いとは感じられなかった。もちろん、私の能力不足が多分にあるのだとは思うのだが、同時期に読んだ三島由紀夫の金閣寺はすぐに読破でき、また読みたいとすら思えたことがあり、私は相性というものを考えるようになった。
本が嫌いだという人は多くいると思うが漫画やアニメを嫌いだという人は少ない。漫画やアニメは頭を空っぽにして見ても、変化が激しく楽しめるものだ。それに比べて小説とは自分の頭の中に本の世界を想像して構築する必要があるところに理由があるだろう。構築するのに必要な情報は当然ながら本に書いてあるのだが、その情報の伝え方は作家によって違ってくる。私個人の感覚では、PCのファイルでいうところの拡張子が異なる、というふうに思っている。
大衆小説のようなものであれば万人受けするように作られているだろうからpdfだろうか、純文学は作家ごとに差があり、独特の癖があるイメージを私は持っているのでmacOSの専用ソフトの独特の拡張子をイメージしている。
だが、相性の良し悪しというのはまず読んでみないと分からないものだ。面白いと思える作家に出会うためにはたくさんの本を読む必要がある。世の中にはたくさんの本で溢れおり、その本一冊一冊に異なる世界が広がっているというのに、私はその世界のほとんどを知らないのだと最近気がついた。
小学生の頃からあまり読書は嗜んでこなかった私だが、もう少し本を読んでみたいと思うようになった。幸い、親戚からもらった本が今家に数冊ある。夏目漱石と森鴎外だ。外出自粛中にはちょうど良いだろう。この機会に読破し、私の教養レベルを上昇させておきたいと思う。せっかくこうして文章を執筆するようになったのだ、web小説ばかり読んでいる私だが、たまには本物の文学に触れ、目を肥えさせておく必要がある。いつまでも目が安いままでは見える世界は限られているだろう。