中央区に住む女
中央区に住む女は考える。
私は、仕事をすることが、怖い。
仕事とはなんだろう。
彼女は想像する。
仕事とは、思うに、魔物のようなもの。例えば毒を染み込ませたカマを持った巨大な紫色のカマキリのような、そういう存在。
時間感覚を麻痺させ、ストレスを与え、じわじわと心と体力を搾取しながら、何十年にわたって人を拘束するもの。
やっと解放されたと思った頃には疲弊し力がなくなっており、目の前には死の丘があり、その頃にはぼんやりした頭で、狭くなっていく道をただ一人で歩かねばならない。
彼女は鬱々としてきたので、深呼吸をし、また想像する。
仕事とは、思うに、風のようなもの。人が老いていく過程、その途上を伴走している仕事は、もしかしたら風のように軽やかなもので、色々なものを運んでくれるものかもしれない。その想像は少し楽しげで、何処かの国のカーペットの香り、縦笛の音、人々の賑わい、色々なものを運んでくるのだろうと思わせる。
しかし、そうだ、その風はいつ毒を運んでくるかわからない。どこかの誰かが麻薬をたきこんでいるかもしれない。その風は見えない、見えないのに、いつも周囲を取り巻いている。いつ毒されてしまうか、わからない。中毒。きっと気付けない。息をするのが、怖い。
彼女は膝を抱え、ひとり、また想像する。仕事とは、思うに、心を狂わす財宝のようなもの。持っていないと、死んでしまう。好きでもないのにいつ失うかわからないという恐怖に怯え、奪われないよう暗い森の中をほとんど盲目的に迷走しながら、自信のない両手で必死に守っている、しかし、その両手に抱えたものは心臓に近い場所で、少しずつ命を蝕んでいっている。
そのことに気付いてもそれなしには生きることができない、そんな人間をはたと見つめると、生き物として不自然な姿をし、弱々しく、無残で、悲しい。
中央区に住む彼女は想像を断ち切った。
仕事。
抗えないままに押し付けられ、命を蝕んでいくもの。
満ち足りた時間を信じ、代償として命を、時間を力を可能性を希望を、人生の全てを捧げていくもの。
それを恨んでいる。
仕事の先に、今、希望が見えない。死の丘に、一歩一歩、中毒者のように、おぼつかない足で進んでいるよう。目が赤く疲れる、肩が固まる、腰に痛みを抱える、そう体中にその触手は伸びてくる。心も、押しつぶされ、乾き、凍っていく。自分の全てが冷えていく。足を引きずりながら向かっていく未来に、光が、見えたら、どれだけいいだろう。
もし、仕事という存在と打ち解けられたら、また違うのだろうか。
魂を売ってしまうようにではなく、同じ目線の高さで、あの魔物と話をしようと思えば。
もしかしたら背中に乗ってともに空を旅することができるのだろうか。
魔物に時間を捧げるのは、とても怖い。
でも、空を飛ぶ、風を感じる、その想像は、なにもかも忘れられるくらいに心地いい。
中央区に住む女はただ子供のようだった。