【短篇小説】閉ざされた聖域—サンクチュアリ—
——早くここを開けなさい!
扉を叩く激しい音と共に私自身の怒声が脳内を駆け巡った。嫌な汗がじわりじわりと背中を濡らす。
逡巡するような一瞬の沈黙を経て扉の向こうから帰ってきたのは「やだ」という短い一言だけだった。
かっと頭に血が昇るのが分かった。
「ふざけるな!」
どん、という激しい音が鼓膜を揺らして、初めて無意識に扉を殴った事に気が付いた。同時に扉の中からうわぁぁぁという泣き声が聞こえた。
子供相手に私は何をやっているんだ。
私の中の理性が叫んだ。
そんなことは百も承知だ。こんな言葉遣いで子供を威圧するべきではない。
普通の大人であればそう思うだろう。私だって例外ではない。
しかし、今は状況が違う。
一刻も早くこの扉を開けさせねば、私自身どうなるか分かったものではない。
「早くここを開けろ、祐也! 出てこい!」
私の強い言葉に、祐也はより一層声のボリュームを上げ、泣いた。
私は思った。このままでは埒が明かない。子供相手に脅迫的な言動を続けても議論が進まない事は分かっていた筈だ。しかし、焦りが私自身の理知的な考えを溶かしていく。
いっその事、扉を壊して祐也を引き摺り出そうか。
恐ろしい考えが頭をもたげる。いや、そんな事をしては後々自分の首を絞める事になるだけだ。
「祐也、私が悪かった。謝るからここを開けてくれないか?」
一転、穏やかな口調に切り替えた。自分でも気持ち悪くなるような猫撫で声だ。
「いやだ」
嗚咽まじりだが、祐也ははっきりと言う。
「どうしてだ。祐也はそんな意地悪をする子じゃないだろう? ここを開けてくれたらパパなんでも言う事を聞いてあげるぞ」
怒りを抑え、静かに問いかける。
「なんでもきいてくれるの」
「ああ、なんでも聞いてやる。男と男の約束だ。だからここを早く開けなさい」
「じゃあ、マスクドファイターの変身セットが欲しい」
マスクドファイターは今、男児の間で流行しているヒーローだ。年少の祐也も例に漏れず、夢中になっている。
「分かった。今度買ってやろう」
「いまじゃなきゃだめ」
「今——?」
不可能だ、そんな事をしている時間があるはずがない。
「今はだめだ、祐也。今度必ず買ってやるから。な、ここを開けてくれ」
「いまじゃなきゃやだ」
その一言に私の理性は吹き飛んだ。
「祐也!!! いい加減にしろ!!!」
その言葉を発したと同時に、耐え続けた私の肛門括約筋に力が入った。
まずいと思った時には既に遅い。一度決壊したダムにはどう足掻いても、もうその役目を果たすことはできない。
私は扉の前で静かにくずおれた。
後に残ったのは祐也ではない、私の嗚咽だけだった。
【完】