温故知新(詰パラ266号)
今回は詰パラ266号(昭和53年4月号)である。ページをめくると、まず「待宵」全51局が大塚播州氏の手によって紹介されている。しかし、編集部の「あとがき」によると、大塚氏の原稿には解説が殆ど書かれておらず、主幹が佐久間幸夫氏に依頼して解説文を書いてもらったらしい。これで渡瀬荘治郎と大塚播州の名が大きく取り上げられ、佐久間氏が関与していたことは「あとがき」を読まないと分からないというのは、ちょっと不公平な気がする。
それから、今号も「詰将棋合評室」の吉田氏のお言葉を引用しておこう。
ぽつぽつ昔が懐かしくなる年代にさしかかったせいか、或いは「××の手習い」というわけか。今、思い立って読んでいるのはL・D・ターナー「英文学をどう読むか」という本ですが、その中の「言葉の正確さ」という項で、著者が「われわれは難しさと解りにくさとを区別する必要がある」と明言しているのが目にとまりました。「難しい内容を扱っているが故に難しい」のと「ただ単に簡潔に書くことができないために、あるいは簡単に書きたくないという理由から解りにくい」のとは全然違うというのです。反射的に、ふと詰将棋のことを考えていました。
こんなに他ジャンルの評論がそのまま詰将棋にぴったり当てはまる例も珍しい。「解りにくさ」と「難しさ」を区別するだけの力量が求められるのは、作家だけでなく解答者もだろう。
単に紛れが多いために、或いは作者が表現したいことがはっきりしていないために「解りにくい」詰将棋はいくらでもある。詰将棋の評価基準のひとつとして「難易度」があるのは、解答者が評価するのだから当然なのだが、「解りにくい程いい作品だ」という評価が幅を利かせることがないようにして欲しいものだ。本来、難易度と作品の良し悪しには、必ずしも相関はない筈である。
もう一つ、中学校の故清水氏の担当の言葉を。
毎年春夏とも、甲子園まで出かけ、高校野球を見る。どこのチームを応援するわけでもないが、球に食いつく動作は真の人間の姿を見る思いがするからだ。魂が入っている。
魂の入った作品、それがアマの作品である。余技で作った週刊誌向けは、なじまない。
魂の入った作品か…。久々にいい言葉を目にした気がする。