バチェロレッテは実家・家族対面回が楽しみということ周辺を書いたら4,000字越えたnote(ネタバレあり、ファイナルまで)
バチェラー、バチェロレッテシリーズで私が楽しみにしているのが「実家回」。このために見ていると言っても過言ではない。ケースワーカーという職業柄、家族関係や自宅の様子が気になる(「家」は家族の構造や関係を如実に映す)というのもあるが、何より、家族という濃密な複数者の関係の渦中に放り込まれた時に起こる波紋のような、さわさわとした感情の波が見たい。それは出演者にも起こるし、見ている私たち視聴者の心も撫でるように「触られる」感じがする。
バチェロレッテの母
バチェロレッテの母を見て、私は「ちょっと怖いな、苦手」と感じた。物腰は柔らかいし、何事もポジティブに捉え「感謝」と菩薩のような面持ちで言うのだが、言っている内容は結構ジャッジメンタルである。真綿で締められるような感じ。こういう事ね、こういう人ね、と評価を下し、「こう感じるべき」と締める。(あと、バチェロレッテとイマイチ会話が噛み合っていない。編集したからこうなっているのか、編集してもこうなのか…。)
しまいに“杉ちゃん“こと杉田氏(プロのアーティスト)に対して、「絵本でも描いたら…」と言い出した時にはヒュッと縮み上がってしまった。バチェロレッテの、反射的に提案するようなところは母譲りなのだろうか。
(湖南省出身の黄氏に対して、「ウルムチ(新疆ウイグル自治区)や敦煌に行った」と言った時も別の意味でヒヤッとしたが…黄氏は台湾を「国」と言うあたり中国共産党的価値観とは距離を置いているものと思われるが、昨今の情勢を見るにちょっと考えさせられる。)
「いい人達じゃな〜い!」「ねえねえどっちが好みなの?」「あんたがああいう人選ぶなんて、意外だった」みたいな砕けた会話がないのは番組だからだろうか。「ああいう風に言ってくれる、この場を通じてそれを伝えてくれたそれぞれに感謝する」とか言って涙ぐむ母は、言外に「両方ナシ」と言っているように私には感じられた。なんていうか、「他でもないあなたが選んだなら私は支持する」というのではなく、一般論的に落とし込んで感謝で締める。出会いにありがとう、さようなら。その体裁にセレブ的拒否を感じ取ってしまうのは考えすぎだろうか。
バチェロレッテの家族関係、家庭観とは
父は写真にも出てこない。兄らしき人物が写っている写真はあるが・・・。Kevinは親しい年下の男子ということで実弟ではないようだし。(親しい人や時にペットを家族関係で呼ぶ習慣が今ひとつ理解できないのですが、沖縄あるあるなのでしょうか??)
仕事で忙しいだけなら写真なりメッセージなりあるはずだが、父からは何もないのだ。出演拒否だろうか。それなら最初からその条件(父は出演しない)でバチェロレッテを引き受けたと推測されるが、娘が真剣に婚活するというリアリティショーを、この「父」はどう捉えているのだろうか。こんなショーに出なくても、結婚相手もお見合い相手も世界中から引く手数多であろうこの才女の決断を、父はどう受け止めたのだろう。そして他ならぬ彼女は、父にどう受け止められていると感じているのだろう。
お金持ちの家族関係がどうなっているのかよく知らないが、乳母に育てられたみたいなエピソードはないので、近代家族的に父母に育てられたということなのだろうが…仲の良い家族、一目惚れの初恋(でしたっけ?)で結婚した父母のロマンス、天然で素敵な人だという母像に縛られているかのような彼女。「バチェロレッテ」物語の随所で語られるこの父母と彼女は、一体どんな関係にあるのだろうか。そして、彼女自身はどんな家庭を築こうとしているのだろう。正直そこは見えなかった。どんな基準で候補男性を落として行くのかは明白すぎるくらいだが、どんな家庭を築こうとしているのかという方向のビジョンは伝わらなかった。
バチェラー・ジャパン・シリーズにおける番組フォーマットの限界
「恋愛→結婚」というロマンティックラブをフォーマットとするバチェラーシリーズだが、非日常(バチェラー/バチェロレッテにとっての日常に一般人がどこまでついて来れるか、なのかもしれないが)をメインとするために構造的に恋愛寄りで、「結婚→(性愛)→出産子育て」についてはあまり扱われない。その人とどんな日常、どんな家庭を築くのか?については、言葉の上では出てきても、構造的には放置されている。(本当に考えたいなら出産育児についてのミッション等もあるはずだが、全く無い。その面でも彼女の「子どもが欲しい=子作り、子育てのパートナーを探したい」というニーズには応えられない。)
そもそも、恋愛とか結婚というのは「落としていく」過程ではなくて、実際には「ピックアップする」過程であることが多い気がする。「落としていく」フォーマットを持つバチェラー・シリーズは、本来的に恋愛や結婚と逆のベクトルが働いている。(日本の)バチェラー、バチェロレッテを通して、ひと組も「ファイナリスト=成婚者」となっていない事には構造的理由があるのかもしれない。視聴者もわかって観ているように思うが。
バチェラー1号、2号は、いや絶対結婚向いてないっていうかそもそも指向してないよね?!なぜコレに出たし…という感じだったので、付き合って別れたって「せやな」と思うし(むしろあれで結婚されたら怖いし)、バチェラー3号は本気婚活だからこそ「言い出したら聞かない子」って感じの彼にはあのラストで納得だし。同様に、「子どもが欲しい、赤ちゃんがほしい」と言ってリミットありきの本気婚活に臨むバチェロレッテのあのラストにも納得できる。番組は彼女のニーズに応えられないし、(多くの人が書いているように)“この人こそパートナーだ“と確信できない相手に費やす時間はないのだから。
杉ちゃんフィーバーへの素朴な疑問
少し話が変わるが、私は多くの人が杉ちゃんに熱狂するのがよくわからない。“少年漫画的なプロットでのし上がるオクテなアーティストの成長譚“というのは理解できるが、それだけだ。彼の言葉の多くはピンとこないし、出会ってすぐ半裸の油絵はちょっと引く。番組内でチラッと映る彼の現代芸術作品達の方が圧倒的な伝達力を持っている。
アーティストという「生き物」はしばしば、先鋭化させた一つの面以外では「思ってたんと違う」ように経験上思う(当たり前のことだ)。私は、彼の作品は愛せても、彼自身については「なんか違う」と感じるタイプ、もしくは芸術家の「一般人への歩み寄り」に今ひとつ価値を感じられないタイプなのだろう。もっとアーティストとして爆裂してもよかったのに。
バチェロレッテは誰をも傷つけない
最後の3名、バチェロレッテは「こういう人なら愛せるかも」「こういう人を愛したい」という人を残したように感じられる。無限の愛を囁く人(ローズ)、自分に似た人(黄)、きょうだいのように童心に帰してくれる人(杉田)。
しかしそのどれをも愛せない自分自身への絶望とも取れる涙を拭い、「私の道は私が決める、旅の終わりは自分で決める」と放つ。ナイフは彼女自身に向いている。彼女は誰をも傷つけない。最愛の人以外を傷つけまくって成婚したバチェラー3号の逆を行く。ただそのこと自体が、彼女に誰をも選ばせないという皮肉を伴って。
それはあたかも、お見合いの末に「恋をするって人を分け隔てるという事じゃない」と言って修道女になった若林(よしながふみ『愛すべき娘たち』)のようでもある。
自分の履いている下駄に無自覚な男たちの死屍累々
そんな彼女を「ルールに従わない、ズルい女」と糾弾する男達は陳腐で滑稽である。彼らが乗っかってきた(番組内だけでなく社会全体の)「ルール」がどれだけ彼らを甘やかしてきたか、ルールに従えば道が用意されている、生まれながらに下駄を履かされている男という性をどれだけ行使してきたかに無自覚である。マラカイは若さもあろうが、最後に白人男性としてのソレが露呈してしまったように思う。番組的な盛り上げ、シナリオはあろうが、製作側も「男達がルール逸脱を糾弾するのは当然の“権利“」という視聴者のマスキュリニティを先取りしたのではなかろうか。
最後に残った4名は「彼女らしい」と、ルール逸脱自体をジャッジしない。彼らはただ男性というだけでは通用しない高みを、ただ男性というだけでは切り抜けられない局面を乗り越えてきたことがあったのではなかろうか。(もちろん、その後のキャリアを考えて、ということは十分にありうる。)
まあ、そこを掘り下げちゃうと、仕事場に彼女を連れて行って事業アイデアを聞き、真剣に取りあうことなく「女性ならではのアイデアですね!」などと持ち上げる(ここまで予定調和)黄氏には唖然としてしまったのだが…ダイバーシティをインプルーブしたい、女性をチアアップしたいというバチェロレッテには最大級の屈辱的扱いである。
「男の子向け」ファンタジーの定型に耽溺する男たちの死屍累々
“バトルやスポーツで勝利して社会的成功を手にした男が、自動的に恋愛的成功も手に入れる“という「男の子向け」ファンタジーの定型に耽溺しがちな男性の姿勢については、太田啓子著『これからの男の子たちへ』における、桃山商事 清田隆之氏との対談中で触れられている。清田氏、たいへんな慧眼である。
当番組では、社会的成功(こんなに頑張ったという努力)と恋愛的成功をごっちゃにして、視聴者女性達に盛大な「?」を浮かばせてしまう男たちの姿もうっすらと見え、「あなたの頑張りはわかった、エクセレント!それで?私とはどうしたいわけ?」と突きつけてはバッサバッサとなぎ倒すバチェロレッテの姿に世の女性たちは快哉を叫んだ。
フェミ的マニフェストを掲げたバチェロレッテに惜しみない拍手を
なんだか話がフェミ寄りに逸れてしまったが、私はフェミニストなので仕方ない。フェミ的マニフェストを掲げて番組オファーに応えたバチェロレッテに惜しみない拍手を。WE SHOULD ALL BE FEMINISTS!
※福田萌子氏その人、ではなくあくまで「バチェロレッテ」としての番組内の彼女について、という思いから、バチェロレッテという呼称で統一しています。