林檎論未満の書き物/PVとMVをめぐって
椎名林檎/東京事変について2つnoteを書いたが、林檎論的なものは敢えて打たなかった。元来あまりインタビューやライナーノーツ、出演番組の類に興味がなく、ただただ仕上がった作品としての椎名林檎を血肉とする私は、あまり論じる地位にあるとも思えないし、彼女のデビューと密接にリンクした思春期を過ごしすぎているので客観的にどうこう言えない感じがする。
さらに言うとライブも好きだが実はピンと来ない方で、ライブ映像として仕上がって初めて「これこれ、このセット!この衣装!この角度!この目線!」と得心するのである。画角に収まる彼女を偏愛し、自己投影し、なんだか自分まで妖艶になったような気分に浸るという消費の仕方をする。椎名林檎という人が好き、というより、椎名林檎という存在を収めてある筐(画面)の中の世界、に埋没する趣味を持っているのだろう。
だから、私が椎名林檎という存在について驚嘆するのはその「世界構築力」である。ディレンクションというのだろうか?あの壮大なミュージックビデオやライブセット、アルバムのコンセプトなどをどのようにして構築しているのだろう、イメージをどうやって多数のスタッフと共有して、練り上げて、実在するモノとして立ち現わせしめるのだろうと不思議で仕方ない。この辺りはもしかしたらどこかのインタビューなんかで明かされているのかもしれないが、不勉強なので誰か知っていたら教えてください。
それで「MVってどうやって作ってんだ?」というかなり初歩的な疑問にぶち当たった私は、MVというものの歴史について少し調べてみることにした。そもそも、1つめのnoteを書いた時に、昔は「プロモ」と呼んでいたものがいつの間に「ミュージックビデオ」になったのかが気になっていたのだ。すると何のキーワードで検索したか忘れたが、映像ライターの林永子さんという方が書いたプロ向けのコラム[ナガコが見た!ミュージックビデオ日本史](連載中)に行き当たった。現在Vol.10まで公開されている。
そして早々に、私の疑問に答えが出た。
00年代、PVの呼称をMVに統一したのは、この林永子氏であったらしい。
「MVライター」になって最初に行ったのは、「表記はMV、呼称はミュージックビデオで、統一すること」だった。プロモーションユース(PV)のみではなく、テレビ曲にストックされている単なる音楽情報素材(クリップ)でもない。ミュージシャンと映像クリエイターのコラボレーションによる「作品」だと強く主張したい意図が、そこにはあった。ーーー[ナガコが見た!ミュージックビデオ日本史]vol.06より
ちなみに、コラム内では1960年代〜98年までは聞き書き、調べ書きの形で、98年以降は彼女自身が見聞きしてきたMV制作現場について詳細に述べられており、通読したが、映像ディレクターの名前がビタイチ分からない私にとっては馬の耳に念仏だった。ただ大体の流れを私がまとめるとこんな感じである。ていうかこれ以上の理解ができていない。でもこの「ざっとした流れ」を知るのがとても面白かったので、覚え書きのために、そしてちょっと面白がる人もいるかもしれないので控え目にまとめる。
・MVは1960年代のビートルズを起源とする説がある。
・60年代、SONYによる家庭用ビデオカメラの開発が映像制作を手軽にしたことで、ビデオがアートやジャーナリズムの道具となり得た。
・81年、米「MTV」開局。83年、マイケル・ジャクソン「スリラー」誕生。
・日本では89年「スペースシャワーTV」開局、91年「カウントダウンTV」放送開始によりMVの需要が爆発的に急上昇。
・90年代音楽バブル到来、MVの制作費が潤沢になり様々な映像表現が可能に。
・00年代MVの需要は上昇するが音楽業界が低迷し、低予算高品質のジレンマに製作者は苦しむ。家庭用PC、インターネットの台頭で映像制作が多様化。(この頃、03年に椎名林檎の「茎」&「百色眼鏡」。)
・05年YouTube 開設。当初はユーザーの違法アップロードとレコード会社の削除要請のいたちごっこ。映像が価値を増す中、映像の著作権についてすったもんだあり、07年日本音楽映像製作者協会(J-MVPA)が発足。
・08年YouTubeにて音楽レーベルによる公式MV配信始まる。MV監督、映像ディレクターが人気に。
・10年代、MVはSNSで世界へ拡散される時代に。あたらしい映像技術や発想が次々と取り入れられ続ける。
この林永子氏のコラムを見ながら、映像ディレクター縛りでMVをボチボチ見ていくのも愉しかろうと思う。
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追記
「#林永子」が41件もあったので有名な方なんだと思います(無知
「渋谷のラジオ」パーソナリティ、ご自身のnoteアカウントもありました。