外国語を学ぶことの楽しさについて。またはモチベーションの話。

 大学を卒業した後に、仕事とは全く関係ないのだがフランス語の勉強を始めた。そして今では気がついたら休日の大半をフランス語の勉強をするようになっている。

そう、ハマってしまったのだ。外国語学習に。元々外国語習得のための才能はないので、どれくらいできているか?と言われたらペーペーだけれども。
英語が憎くて憎くてたまらなかった中学-高校時代の自分が見たら同一人物か疑うぐらいに外国語を学ぶことが楽しくてたまらない。仕事のストレスを外国語学習で解消している、というような状況。そんな状況を見た大学時代の友人に外国語に恋でもしているのか。と真顔で言われたことがあるくらいには、外国語学習ばかりしているようになっている。

必須だったのでほぼ義務感で勉強していた英語を自分の好奇心で学ぶようになったのは大学からだったけれど、英語以外の外国語に関心が湧いたのは、留学時のやり取りと、卒業後に友人に出身地であるリトアニアを案内してもらった時だった。

留学時に、講義のフィールドワークでアイルランド語に関する調査をした時、自分がアンケートを取った人々がが口を揃えていったのが、「英語を使った方がメリットはある。ビジネスで役に立つ。アイルランド語は仕事じゃ役に立たない。でもな、アイルランド語を捨てろって言われたらそれはなんか違うんだな。俺たちはアイルランド人なんだ。」ついでにもう一言「正直に言えばアイルランドに英語を学びにくるよりもアイルランド語を学んでほしい。英語じゃなくてアイルランドを知ってほしい。」
「言語」をすごく意識をしたのはその時だった。正確には、今まで「コミュニケーションツール」でしかなかった「言語」が何かもっと違うものに感じた最初のやりとりがこれだった。

その時感じたことを再認識させられたのがリトアニアの友人の元を訪れた時だった。博物館を案内してもらった時、その友人が、「是非見てもらいたいものがある。」と言ってある展示の前まで引っ張っていった。「リトアニアの歴史を変えたものだ」と言って見せてもらったのはやめてリトアニア語で書かれたある雑誌だった。曰く、リトアニア語の使用を禁止されていた時代に流れた闇雑誌らしい。これがあったからこそリトアニア語は残ったのだと、語る友人を見て、「言語」が持つものの強さを思い知らされた。

全く当たり前な話なのだが、「言語」はコミュニケーションツールだけではない。その国の文化やアイデンティティを構成する重要な要素だ。文法、単語、文の構成の中に言語毎の特徴が現れ、その特徴がまた国の文化や国民性に繋がる。

サピア=ウォーフの仮説について昔話しあった。サピア=ウォーフ仮説はだいぶ昔に提唱された仮説で、-言語が「人間がこの世界をどう捉えるか?」に影響を与えている-という学説。その話をしたときにある人が「それはもしかしたら話せる言語の数だけ異なる性格を個人が持ってたりするのでは?」ということを言う人がいた。確かに、日本語で話すぼくと英語で話すぼくはおそらく異なる人間に見える。異なる対応をしていると自分でも思うことがある(英語の方がジョークで返すことが多いとか)

僕たちが英語や言語学ぶ時、「言語」の「コミュニケーションツール」としての側面に注目してその言葉が文化や国民性と繋がっていることを意識しない。その言語が違うと「世界観が変わるかも知れない」ということを意識しない。意識しなかった。意識しなかったからこそ、一度意識をしたら面白くなった。

多くの大学時代の友人たちが、自分と違う世界観で世の中を見ているのならその世界観はどういう世界なんだろう?

そこから外国語を学び始めた。そうしたら、楽しくて仕方がない。たまたま先生や参考書にも恵まれていた。彼らがどういう風に見ているのか。なぜ日本語とは異なる表現をするのか。学べる講師と参考書や語学雑誌が揃っていた。だからこそ楽しかった。何よりも海外旅行をしていたときには無意味な音の羅列だったものが、言語を学ぶにつれて唐突に意味を持ち始めた時の楽しさがたまらなくなった。

こうして、外国語学習にハマった。という話。
もちろん、ツールとしての言語は大事だ。言語を学ぶことでより新しいビジネスやテクノロジーの情報を早く得る可能性が高くなる。何よりも他の国の友人と彼らの言葉で話すのは楽しい。その楽しみだけでも外国語を学ぶことは楽しくてたまらない。
けれども、何よりも言語から彼らの文化を知ること、言語を通して異なる世界観を知ることが外国語学習の醍醐味なんじゃなかろうか。少なくとも僕の外国語学習のモチベーションの源泉は、情報を集められるからではなくこちらのようだ。

あまり海外に行けないこの数ヶ月。行きたいと思っている国の言語を学んで、将来の旅行に備えるのもいいかもしれない。

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