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Time Over 連載長編小説 Second14~Second16《再掲》
現実時間が慌ただしく多忙なため、最近はnoteに限らずどのSNSも覗いたり読んだりしていない。気晴らしのために片手間にスマホからこの長編小説を再掲している。そのことに特に意味はない。
全く他者を意識しないページなのだが、何の気まぐれか手違いか、忘れた頃にフォローをしてくださる奇特な方がチラホラといる。
他者を全く意識せずにこのnoteを利用しているので、スキ数とかフォロー数とかブロックとかいうものをいちいち確認することもない。仕事以外ではPCを使わないと決めているので、SNSは全てスマホで操作しているから、指の動きで勝手にいろんなボタンを押していることもある。意図せずフォローやスキボタンを押したり消したりしていることもあるやに思うが、確認もしていない。
読んだり見たりして頂くのは自由なのだけれど、フォロー返しとかスキ返とかを望まれてのことなら、大変申し訳ないがそのようなことはしないページなので、御容赦頂きたい。
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Second14
キハラ・リョウと私の間にあった振幅計。
ずっと0の値を指したまま動かなかった針が、一瞬のうちに極限の100にまで跳ね上がったあの日。
その激しい振幅力でゼンマイが切れてしまった振幅計の針は、今だ100の値を指したまま動かない。
けれど、ゼンマイの切れた針が指す100の値、それはもう値としての100ではない。
10にも20にも戻らない、機能を失った針が指す値は、値としての意味を持たないのだ。
動かないのだから値としての数値は0と同じなのかも知れないが、何の振幅もなかった時の0とは明らかに違う。
明らかに違うことは分っても、だから、何が、どう、というものでもない。
あの日以来、キハラ・リョウとの関わりが途絶えたのかと言えばそうではない。
仕事を依頼したものと受けたもの、その関わりは変わらずにある。
あれからも幾度かやり取りはあった。それはいつものようにごく事務的な会話だった。
ああいうことがあったからといって、受けた仕事を放棄するほど彼は無責任ではなかったし、私もまた、私的な感情を仕事に持ち込み自爆するほど幼稚ではない、ということだろう。
サワコ曰くの、あの”乱闘”の日から、再度彼と向き合うことになったのは、依頼していたシステムが完成しそれを初めて作動させる日だった。
その日、私は朝から依頼された企業に詰めていた。
大企業とはいえないが、それでも全国にいくつかの支店を持つ企業だ。
その支店と本社をひとつに結ぶオンラインが、キハラ・リョウの作ったシステムによって今日始行される。
システムの出来如何では、この後の私の本契約にも大きく影響する。万が一の事を考慮して、作成者であるキハラ・リョウにも同席してもらっていた。
統括である部長を始め、この部署の担当者や、受持ちの社員、オンラインを請け負った通信会社の人間、支店でも担当部署の人達が、それぞれにスタンバイしていた。
それは完璧なシステムに仕上がっていた。
営業日報、売上日報、仕入送受信、発注受注、人事管理、顧客管理、オンラインZOOM、・・多岐にわたる膨大な項目が各項目事に的確に仕分けられ、しかも複雑な操作を必要としない、迅速で簡潔な動作環境で組まれていた。
システムを作り上げるのはその道のプロであっても、それを操作するのは一社員なのだ。いくら完璧なシステムであっても、一般の人間が使いこなせなくては意味がない。
最小限の簡単な動作で最大限の機能を果たす。
そうであって始めて優れたシステム・プログラミングといえるのだろう。
改めて彼の持つ能力と技能の優秀さをそこに見た。
「いやあ、完璧な仕上がりでした。
無理な修正をお願いして、尚且つ期限も延ばせなくて、それなのに、この仕上がり。もうお礼のいいようがありませんよ。出来れば制作料の上乗せでも出来ればいいのですけれどね。僕のような下っ端ではその力がなくて。」
このシステムの担当者である顔見知りの社員が、満足気な顔と申し訳なさそうな顔を交互に見せて頭を下げた。
「いいえ。最初からのお約束ですから。
でも、お礼を言われるのは私ではありません。
このシステムの作成者は彼です。言われるなら彼に。」
「そうでしたね。でも、いいお友達をお持ちですね。
そんなにITに詳しいわけじゃありませんが、システム・エンジニアとして優秀な方なのは分ります。」
いいお友達・・か。この人に弁明する必要もないことだけれど。なんとも苦笑してしまうしかないが。
朝から彼とは一言も私語は交わしていない。そういう時間もなかったし、そういう状況でもなかった。
また、仮にそういう場面があったとしても、おそらく私達は何も話さなかっただろうことは、何となく分っていた。
すべてが滞りなく終り、忙しい仕事の隙間を縫って来てくれていた彼を見送るために、私は彼と向き合って企業ビルの玄関口の外に立っていた。
「お疲れ様でした。みごとな仕上がりでした。
お蔭様で私の顔が立ちました。
作成料のほうは、この会社から直接あなたの口座に振り込まれるようにお願いしてあります。
改めて、お礼を申します。ありがとうございました。」
彼に向かって深く頭を下げた私に、少し戸惑った様子を見せながらも、やはり彼も仕事人の顔で私の言葉を受けた。
「いや、こちらこそ。お疲れさまでした。」
そう言って彼も同じように深く頭を下げた。
少しの空白な沈黙が二人の間に流れる。
ふと目が合った一瞬、彼が何か言いたげな顔をしたのを私は見逃さなかった。けれど、その表情は次ぎの瞬間には彼の顔からきれいに消えていた。
「お気をつけて。」
再び頭を下げた私に、軽く会釈をして、彼は私に背を向けて歩き出した。
少し俯きかげんな、スーツのスラックスに両手を入れて去ってゆく彼の後姿を私は少しの間その場に立って見送った。そして、それがキハラ・リョウの姿を見た最後だった。
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Second15
今日の一日はこの仕事のためにすべてを空けていた。
何のトラブルもなく事が運び、本契約の詰めも思ったよりスムーズに話が進み、すべてを終えてその企業を出たのは、夕刻にはまだ充分に間のある時刻だった。
ぽっかりと空いた時間。見上げれば5月の空。
コバルト色というのはこういう色なのだろうと思わせるような空の色だ。
5月というのは春なのだろうか、夏なのだろうか。
時折夏の陽射しの強さを見せながらも、どこかまだ踏ん切りのつかない弱さを含んでいて、行き過ぎては戻り、思い返しては突き進み、どっち付かずな日を、そんなふうに少しずつ慣らしながら、季節は答えを出してゆくのだろう。
亀仙さんのところに顔を出してみようか・・。ふとそう思いついた。
この都心と事務所のある郊外の衛星都市を、一直線に結ぶ私鉄沿線の丁度中間に亀仙さんの入院している病院がある。
この私鉄の特急も急行も、小さな駅は当然止まらずに飛ばして過ぎるが、終点の駅に近い数駅は何故かすべて各停になるのだ。
私は午後の空いた電車のドアに凭れてぼんやりと流れる景色を見ていた。都心を離れていくごとに、風景の中に緑が多くなる。
都心までは30分もかからない衛星都市で、どの駅前も同じような瀟洒なステーションビルや商業ビルが並んでいて、都心とさほど変わらぬ機能的な顔を見せていても、その向こうに続く街は、遠くに薄く山々の稜線を描いて、古くからの緑豊かでのどかな町並みを残している。
電車は小さな駅に滑り込んで止まった。
「オオサギ神社前」 その名前に押されるようにホームに降り立った。少し寄りたいところを思い出したのだ。
この駅は、この「オオサギ神社」のためにだけに作られたのではないか、と思わせるほどの小さな駅だ。
改札口を出るとすぐに神社の参道へと続く道がある。
神社の本堂はそこからかなり歩く小高い山の中腹にあった。
本堂へと続く緩い傾斜の長く細い道の両端には様々な店が並んでいる。ガラクタを集めたような骨董屋。神具を売る店。四柱推命の易断所。袋物、履物屋。みやげもの屋に茶店。駄菓子屋。薬草や縁起ものの観音竹などを売る植木屋・・。
どれもずっと昔から変わらずそこにあったのであろう古い店ばかりだ。何代も代変わりをしながらも、店を受け継いできた人達が、先代と少しも変わらぬ店構えで商いを営んでいる。
今日のような平日は歩く人も少ないが、休日ともなれば大勢の人がこの参道を登ってゆく。「オオサギ神社」は地元の人達のみならず、近郊でもかなり有名な神社なのだ。
1年前くらいになるだろうか。この参道を亀仙さんと歩いたことがある。
季節も丁度、今頃ではなかったかと思う。
そして今日と同じように平日だった。
どちらかが誘ったのだったか、それとも偶然行き会って歩いたのだったかは、もう記憶には残っていないけれど。
そこで私は、亀仙さんのひとつの顔を偶然にも見たのだった。
古い店並の続く道を登ってゆくと、あるところから地店は途絶えて森の道に変わる。道の片側は断崖になっていて、その下には沢が流れていた。
そして、その森の道に沿って出店が並び始める。いわゆるテキ屋と呼ばれる人達が営む店だ。
そのどれもが簡易に作られた粗末なものだった。
あの日も平日だったこともあって、それらの店の多くが青いシートで覆われて閉まっていた。
おそらく人出のある休日にしか開けない店が多いのだろう。その他の日はどこかの神社かお寺のお祭りや街のイベントなどに店を出しているのかも知れない。それでも所々の店は開いていて、それらの店の人達が手持ち無沙汰な顔で、それぞれに立ち話などをしていた。
不思議なことに、それらの人達が亀仙さんを見つけると、一斉に深くお辞儀をするのだった。
まるでそれは、黄門様のお通りを迎える人達のような雰囲気さえあった。亀仙さんはといえば、いつもの瓢とした顔で小さく会釈をして過ぎる。
「わっ、亀仙さんって、この辺じゃ顔なんだ。」
私の言葉に亀仙さんは ふぉほほ と小さく笑いながら
「何、ちょっと顔見知りなだけじゃ。」 と、平然とした顔で答えた。
ほどなくして、亀仙さんは一軒の露店の前で足を止めた。
それは、ぎょっとするほど目立つ店だった。
その店すべてが真っ赤なのだ。
露店の横棒にずらりと並べて吊下げられている真っ赤なシャツ。台の上に並べられているものもすべて真っ赤だった。赤い腹巻、赤い靴下、赤い足袋、赤いパンツ。
そして、そこには手書きで書かれた大きな紙がいくつも吊るしてあった。
「幸運を招く赤いパンツ」 「無病息災、厄避け赤腹巻」 「健康赤肌着」
その店の前にはハンチングを被った痩せた老人が立っていて、亀仙さんにニコニコと笑いかけていた。
「よう、源、来たか。ほおぉ、今日はなんと、べっぴんさんと一緒じゃな。
まさか、お前の娘・・ってことはなかろうな?」
「まあ、何じゃ。そうさな、娘みたいなもんだがな。」
「なるほど、お前のことじゃ、あちこちに娘がおっても不思議ではないわな。」
そう言い合って二人はカッカッと笑い合っていた。
そして亀仙さんは私に向かって言った。
「ナオさんよ、ワシはこいつと少し話しがあるんじゃ。
先に本堂まで上がっていてくれてもええぞ。このまま歩いていけば辿りつくからな。」
「いいよ、待ってるよ。私はこの辺でぶらぶらしているから。ゆっくりしててよ。」
「そうか・・すまんの。」
そう言うと亀仙さんは赤パンツの老人と出店の奥の青いテントの中に入っていった。
断崖から覗く沢からの風が心地良かった。
風が吹くたびに木々が揺れて、さわさわと緑の漣の音がする。
ふと振りかえると、赤パンツの店の隣にも同じように開いている出店があった。近づいて見ると、そこには様々な木の実や乾燥させた薬根草が並べられていた。
金柑、高麗人参、クコの実、大豆、黒豆、向日葵の種、胡桃、乾燥唐辛子・・
いわゆる健康自然食品といわれるものだろう。
それらを売っているのは、まだ二十歳を過ぎたばかりのような青年だった。なかなかのビジュアル系で、テレビにでも出ればアイドルにもなれそうな顔立ちをしている。
青年は物珍しそうに眺めている私にニコッと笑いながら話しかけてきた。
「おネエさん、源さんの娘さん?じゃないよね。」
この青年も亀仙さんを知っているようだ。
「じゃないよ。そうね、ちょっとした知り合いみたいなもんかな。」
「だろうね、源さんとはぜーんぜん似てないもの。」
「亀仙さん、じゃなかった、源さんってここでは有名な人なの?」
青年は、何も知らないの?とでも言いたげな顔をして言った。
「この界隈の露店で源さんと隣のジイチャンを知らないやつはいないよ。ここのテキ屋の親方でも頭上がらないほどの人だからね、あの二人は。
もっとも、源さんはもうこの道からは外れてる人だけど。
ここに店出してる人間はみんな、一度は源さん達の世話になってるさ。」
青年は私に、ここに座ったら?と小さなスチールの丸椅子を勧めてくれた。
私は青年と並んで椅子に腰を下ろした。
「そうなんだ。でも君は若いのに偉いね。
平日で店閉めているところ多いのに、がんばってるんだね。」
「そりゃあ、がんばらなくちゃ。カアチャンとムスメが口あけて待ってるし。」
「へえ・・君、結婚してるの?そんでもって子供までいるんだ。見えないね、そんなふうには。」
青年はでへへと少し照れながら笑う。
「ほら、馬鹿なやつほどくっつくのも早いだろ?その典型みたいなもんよ。くっつきゃ出来る、自然の節理ってやつだね。」
「なるほどね、経験者は語るか。」
「あんまり誉められた経験でもないけどなぁ。」
と、青年は遠くを見るような目をしてぼそっと呟いた。
そして、つまんねえ話だけど・・と、ぽつぽつと話始めた。
「オレ頭悪くてさ、だから当然勉強なんて、てんでダメの落ちこぼれ。高校くらい出てなきゃ仕事もないぞ、って母親も先公も言うしさ。
でも、頭悪いオレが行ける高校なんてロクな高校じゃねえのよ。落ちこぼれのディスカウントストアみたいなところでさ。そういうやつらの行きつくところは決まってるだろ。一人じゃたいしたワルにもなれない癖に、赤信号みんなで渡れば怖くない、って群れりゃ暴れてた。当然、高校はお払い箱。
女騙すのなんてちょろいもんだと思ってたしね。
実際、オレ達みたいなやつにくっついてくる女もそれなりの女だったし。
うちのカアチャンもそうだと思ってたよ、最初はさ。
だからカアチャンが、子供が出来たみたい・・って言った時も、なんだそれ、って感じでさ。知るか、みたいなさ。
だけどカアチャン、ガンとして産むってきかねえのよ。
その時、カアチャンまだ17だぜ。
ガキがガキ産んでどうするんだってことだよな。
そう言ったら、わぁわぁ泣かれるわ、モノ投げるわ。始末におえないやつでさ。
その時はマジ思ったな、カス引いちまったって・・。」
「それが実は大当たりクジだったってことね?」
「どーだかなあー。当たりクジなのか、仕組まれたイカサマクジだったのか分んねえけど。
オレさ、親父の顔知らないんだ。小さいガキの頃に死んじまったから。オレの親父と源さんとは昔仲間だったらしくてさ。それでお袋は源さんをずっと、いつも頼りにしてた。どういう関係かはしらないけどね。
だからそんなこんなのイザコザをみんな源さんは知ってたんだろうなあ。
カアチャンとオレ、源さんに呼び出されてさ。
オレはどうせ辛気臭い説教されるんだろうと思ってたわけよ。その頃は大人なんてみんなロクなやついねえ、って思ってたからさ。
口では偉そうなこと言ったり、オレ達のこと分ったふうに諭したりするくせに、裏じゃ蝿かゴミみたいな目でしか見てねえって。
ま、実際、ゴミみたいなもんだったけどさ。」
「で、やっぱり説教されたの?」
「あれは説教なんてもんじゃなかったなあ。
思いきり崖から突き落とされたって感じだったね。
お前みたいなクズな小僧がどう暴れようと、世間に唾吐こうと世間なんてもんはビクともしねえ。
お前の腕が一本なくなろうが、壁に激突して死のうが、世の中何も変わりゃせん。お前の存在などそんなもんだ。
お前がどう生きようがそんなもん他人は気にも留めちゃいねえ。好きにすりゃいい。
テメエの始末はテメエでつけるしかない。
もっとも、今のお前じゃその始末も自分じゃつけられんだろうが。お前がどうなろうと誰の知ったことでもないわ。
但し、真っ白のまっさらで産まれてくる赤ん坊を、産まれた時からうす汚れた赤ん坊にする権利などお前には一切ない、ってことだけは覚えとけ、ってボロクソさ。
正直なところ、ウザイじじいだと思ったよ。オレをコケにしやがって・・って。
ムカついたさ。それから、カアチャンも言われたよ。
あんたも同じじゃ。男を引きとめるために赤ん坊を利用しちゃいかん。赤ん坊は人形じゃねえ。
逃げられたら捨てるちゅうわけにはいかんのだ。
こいつはクズな洟垂れ小僧だ、今に尻尾巻いてあんたから逃げるかもしれんぞ。
もうすでに尻掲げて半分逃げかかっとる。
それでも産むというなら人生かけて産むんじゃな。
そして自分ひとりの力で育てる覚悟をすることだ。
その覚悟もなしに、ドラ猫みたいに男に摺り寄るんじゃねえ、って。
だけど、女ってのは鈍づまりに強いよなあ・・。
オレは唯、源さんの前でふてくされてただけなのに、カアチャン、その時きっぱり言ったんだ。
私は誰が何と言おうと産みます。
この人に頼ろうなんて思ってません。
学校もやめて、働いて、この子と二人で生きていきます、ってさ。
源さんは、ほぉ・・なかなかええ根性しとるわ。
ま、その根性や覚悟がいつまで続くか見物だがな、ってニヤニヤ笑ってたよ。で、オレに向かって言ったんだ。
どうだ、女がここまで覚悟しとる。
それに引き換えお前はコソコソ逃げるだけか。
まあ、お前ならその程度だわ。
1円の金も自分の手で稼いだことのないお前のこった、人の親になる資格も度胸もねえわな。さっさと尻尾巻いて消えろ。
そこまでコケにされたら、誰だって腹立つっしょ。
で、オレ言っちまったのさ。
馬鹿にすんな。ガキの一人や二人ちゃんと食わせて育ててみせらぁ。今に見てろ、ってね。
とっさのほっさで、言っちまったのよ、これが・・。」
青年はくっくっと肩で笑いながら私を見た。
「そう、とっさのほっさで、言っちゃったんだ・・。」
「そう言ったが最後、後に引けなくなっちゃってさ。
オレ、源さんにその足で隣のジイチャンに身柄預けられちまって。覚悟決めたが吉日ってもんだ、とかなんとか言われてさ。」
「それで、今日までがんばってるってわけなのね?」
「ぶー。甘いなぁそう簡単に非行少年は更正しないって。」
「あらま。」
「大体がだよ、努力とか忍耐なんて、職員室の壁の額縁でしか見たことないやつがだよ。そう簡単に改心出来るわけないつうの。1週間でうんざりしちまったさ。
なんでオレが毎日毎日ジジババ相手に赤パン売らなきゃなんねえんだ、馬鹿くさ、ってね。
そのまま、トンずらこいちゃった。」
「なるほどね・・で、源さんに引き戻された?」
「ぜーんぜん。隣のジイチャンも源さんもお袋も知らん顔でさ。
オレ、シメタ!って、最初は思ったさ。
カアチャンともそれっきりだったし。
はっきり言えばこれでうまく逃げられる・・って思ったもの。相変わらず、クズなツレとダラダラとゴミ箱蹴り倒すみたいな小賢しい毎日送ってたさ。
でもさ、時々、何となく、こう、うまく言えないけど、胸ン中のどっかが、何かさ、チクッって痛いのな。
そういう自分に腹立てるんだけど、だから何なんだよ・・って。
家にも何ヶ月も帰ってなくて。金もなくなって。
で、お袋に金せびりに帰ったのよ。
どこまでもクズだよなあ。
あ、オレのお袋、この駅の向こうの線路際でちびこい小料理屋してんの。
その時さ、お袋いつものように店に出す料理の下ごしらえしながら、何気なーく、オレに言ったのよ。
醤油と味噌が切れかかっちゃったよ。
あんた悪いけど、駅前のスーパーに行って買ってきて。
頭悪くてもお使いくらいは出来るだろ?
幼稚園の子だってお小遣い貰うためにゃ、それくらいのことするよ、って。
ケッって思ったけどさ。
まあ、いいか、とスーパーまで行ったわけさ。
そこで、見たのよ。カアチャン・・。」
「そこで働いてたんだ。」
「そ、デカい腹してさ、レジ打ってた。
オレ、ショックで。
何がどうショックなのかわかんないんだけどさ。
あいつの顔まともに見られないオレが、何ともブサイクに思えてね。オレ、醤油も味噌も買わずに、コソコソ逃げてきちまった。
そんなオレをじぃーっと見ながら、お袋が言ったんだ。
女は産もうと決めた時から強くなるもんさ。
お腹の子の命と自分の命と二つ抱えているんだからね。
あの子からは逃げられても、情けない自分からは逃げられないだろ。どこまで逃げても、情けない自分は一生ついてくるよ、ってさ。
オレ、それからまた隣のジイチャンのところに戻ったんだ。
もう一度働かせてくれ・・って。
ジイチャン、何にも聞かずにたった一言、そうかって。
きったねえよなあ、源さんも、隣のジイチャンも、お袋も。誰も何も打ち合わせなんてしてないのに、口裏合わせたみたいに、みんなが見えないところで結託してんだもの。
オレ、知らないうちに抜き打ちテスト受けさせられたようなもんだよな。
赤点くらった馬鹿が、カンニングも、ズルも出来ない追試受けたようなもんだよ。なんとか落第、追放だけは逃れた欠点ギリギリボーイってところだけどね。」
青年はふふっと小さく笑って見せて、あ、ごめんよ、つまんない話につき合わせちゃった、と言いながら立ちあがり、小さな篭を持って戻ってきた。
篭の中には試食用の金柑の砂糖漬けがいくつか入っていた。青年は、食べてよ、と私に篭を差し出した。
ありがとう、とひとつつまんで口に入れる。
一口噛締めると、金柑を包んでいる乾燥した砂糖がシャリシャリと崩れて、その甘さとともに、金柑の実のほろ苦さが口の中いっぱいに広がった。
甘くて、ほろ苦い・・金柑の味・・。
幼さ故に、迷い、進むべき道を見失い、戸惑い、荒れて、崩れ落ちそうな子に、手を差し伸べ、支え、抱きしめてやりたいと、こころある大人なら誰でも思うことだろう。
けれど、そのまま崩れ落ちて、再び立ちあがることなく流されてしまうかも知れないと知りつつ、差し伸べ、抱きしめるべき手を下ろして、黙って見続ける覚悟と決断を持ちつづけることは、そんなに容易に出来ることではない。
それが自分にとって、大切で愛しい者であればあるほど、その決断と覚悟の辛さを自らが背負い、あるいは思わず手を出し、動き出してしまいそうなこころを、押さえ込む強さがなければ出来はしないのだ。
青年が何処かで感じていた、胸の中でチクリと刺す痛みの在処を、彼が自らの手で掬い取り、それが何であるのかを、自らのこころが感じ取った時、かたちない、自分に差し伸べられていた、見えないくつかの手の温もりを知ることができたのだろう。
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Second16
「ね、ムスメさんいくつなったの?」
「今年で4つ。これがまたカアチャンに似て口が達者なんだわ。毎朝オレが保育園に送って行くんだけど。
カアチャン、まだあのスーパーで働いてて朝早いからね。
で、保育園の入り口でバイバイする時、必ず言うんだ。
たいして回らない口でさあ。
トーチャン今日もしっかり稼いでくるんだよ!って、カアチャンとそっくりな口調でさ。参るよなあ。」
青年の顔が嬉しそうに崩れる。
ふと足元を見ると、小さな水槽が置いてあって、その中には沢山の沢蟹がいた。
「これ沢蟹よね。そこの沢にいるんだ。飼ってるの?」
「そう、土日はここも忙しいから、カアチャンもムスメ連れて手伝いにくるんだ。それ、ムスメの友達。」
私と青年はしゃがみ込んで水槽を覗き込む。
指で触ると沢蟹はセコセコと水槽の中を動き回って逃げる。
「ひょっとして、名前がついてたりする?」
「ついてる、ついてる。このでかいのがボスのマイケルでしょ。んで、こいつがジョージで、このひ弱いのがトム、この色が変わってるやつがスミス・・。」
「なんかさ、妙に、洋風だよねえ、それ。」
「そ? 実はこいつ等、ニュヨーク生まれのオオサギ育ちだから。」
「それ、マジ怪しい。どう見ても純粋なオオサギの沢生まれだよ、これは。」
青年と私は顔を見合わせて、同時にプッと吹出した。
青年は一匹の沢蟹を掴んで、手のひらに乗せながら言う。
「おネエさん、あのさ・・オレの店はこんなちっぽけな店だけどさ。だけど、これは世界にひとつしかない、オレだけの店なんだ。だから、ムスメにだって誰にだって、胸張って言えるよ。オレは誰にも負けない店のオーナーなんだって。」
「そうか、金柑カンパニーの社長ってわけだね。」
「金柑カンパニーって、ちょいとそれ、ダサくない?」
「そお?だってとっても美味しかったもの、金柑。」
「ま、いいか、金柑カンパニーでも。オーナーたって日銭稼ぎの露店だしなあ。結構厳しい商売してるしね。
おネエさんみたいに毎月きちんとお給料貰えるOLさんには分かんないだろうけどさ。」
青年は沢蟹を私の手のひらにそっと移しながら、少しだけ眩しそうに私を見た。
沢蟹は手のひらの上で小さな鋏をくいっと上げ、シャコシャコとせわしく足を動かしてもがいた。
「それ、ぶー ハズレ。私、OLさんじゃないよ。君と同じ日銭稼ぎ人だし。」
青年は、嘘だろ・・と言いたげな目をしている。
「そんな綺麗なスーツ着た日銭稼ぎ、見たことねえよ。」
「あら、でもここにいるよ。
私だって、君みたいにジーンズとTシャツで仕事したいけどね。そうもいかない相手だから仕方なく着ているだけよ。中身は君と同じ。その日の食い扶持稼がなきゃ明日は路頭に迷う、ってやつよ。」
「へええ、そういう人もいるんだねえ。
どう見ても優雅なOLさん風だもの。」
「人は見掛けじゃないからね。
でもね、私、日銭稼ぎ人やってる自分が、決して嫌いじゃないのよ。今日稼いだお金は、明日の自分を確実に生かせてくれるでしょ。毎日毎日、明日生きるためのお金を稼いでるんだ・・って実感持てるじゃない?
君が今日稼いだお金がいくらでも、そのお金があればこそ、明日もまた今日と同じようにムスメさんと保育園の前でバイバイって、手を振れるんだもの。
今日どれだけ自分が明日のために動いたのか、はっきりとかたちになってこの手に残る、って素敵な商売じゃない。」
青年は笑わない目で真っ直ぐに私を見た。
「なんか嬉しいなあ。
オレ達みたいな仕事、素敵な商売なんて言うの、おネエさんくらいだよ。おネエさん、変わってるね。でも、嬉しいなあ、なんか。」
通りすがりの初老の婦人が店先を覗いていた。青年は、らっしゃい!!と元気よく立ち上がった。
「あ、これね、高麗人参、本場もんのホンもんだよ。これ煎じて飲んだら、オトーチャン元気モリモリだ。」
初老の婦人はコロコロと笑う。
手のひらの沢蟹を水槽に戻すと、沢蟹は慌てたように早足で大きな石の間に隠れた。
青年のムスメもここでこうしてしゃがみながら、沢蟹を相手に休日の一日を過ごすのだろう。
父親と母親が並んで忙しく立ち働く背中を見ながら、少女はこころに何を映しているのだろう。
少女のこころはここでどんな風景を刻み込んでゆくのだろう。やがて彼女も刻み込んだ沢山の風景を、ひとつひとつその手で並べ替え、組み立てて、自分のかたちを作り上げゆく。
君は、誰の何色にも染まってはいけない。
君は、誰かのために、何かのために、自分を捨ててはいけない。
君が誰かとその手を結いだのは、すがるためでもなく、引き寄せてもらうためでもない。
明日に続くその道を、真横に並んでしっかりと自分の足で歩くために結んだのだ。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
いつか少女も誰かと手を結ぎ、自分の明日を歩き始めるだろう。かつて、父と母が行きつ戻りつ、決して綺麗な曲線ではない、ジグザグな線を描きながらも、それぞれに自分達の明日を見つけたように。
きっと、彼女も自分の足で自分の明日を歩いてくれるだろう。二人の背中を少女が見つめ続けている限り。
沢からの強いひと風が、谷へと連なる緑の斜面をざわっと揺らして過ぎた。
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