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[随詩想] 音階の夢幻に昇りゆく踊り場にて
相変わらず体が重い。
広島の19年後に生まれ、47のときに福島をタイで経験したぼくには、その体の重たさと、もつれた心の因果複合体こそが、この世界と関わるための細い通廊になっている。
* * *
扉の向こうに見下される駐車場に観光バスが停まり、朝から巡礼客がたくさんの荷物を持ってやってくる。そのざわめきが響いてくる。
そんな巡礼宿の一室で、ぼくは天井扇が静かにかき回す空気とともに、頭の中をかき回して文章を綴っている。
* * *
完璧な物理法則によって盲目に動き回り、にもかかわらず予測の不可能性から意志が仮想されるヒトという奇天烈な存在であることからぼくらは逃れ得ない。
とすれば、そろそろ自分の人生は自分で選び取ったものなのだということを、はっきりと自覚したほうがいい。
「自分で選んだだって?」
そうだ、この道を選ばざるをえなかったのだ。弱い自我が生き延びるためには。
しかしこのまま無自覚に選び続けているだけでは、不確かな足元のきみには、世界への不満から八つ当たりする以外の人生はありえない。
* * *
自分の愚かな選択の結果を、喜々として受け入れようじゃないか。
初めはいやいやかもしれない。
それでもいい。
いずれ全てを笑い飛ばせるようになるさ。
* * *
ついふた月ほど前、タイの南の島の人気のない海で、波に漂い、世界と一つになったときのことでも思い出そう。
いやな思い出をわざわざ書く必要などないのだから、苦しかったあのときを振り返る中で浄化していくことの可能性も確かめながら。
明日と昨日のはざまで、今ここにある無為を全身でしゃぶり尽くして。
[以下の文章を先に書いたのですが、固苦しくも莫迦ばかしい議論なので、おまけとして最後に置きます]
完全な世界に不完全な認識が生まれる。不完全な認識によって完全な世界が仮想(*)される。
上昇し続ける音階は現実には存在しないが、認識によって仮想することはできる。十分に練られた想念の力をもってすれば、それを体感することもできる。その意味において無限上昇音階は現実に「存在」する。
物理的な実在としての存在を直接認識することはできず、感覚器官によって知覚された写像を通して間接的に認識する以外の方法はない以上、存在と「存在」を区別することはできない。
ここで存在というのは物理的な実在のことであり、「存在」というのは認識された写像のことである。
従って実在としての世界が完全であるかどうかにかかわらず、認識された世界を完全とみなす立場は全く合理的である。
(認識の不完全性は織り込んだ上で)
ヒトの不完全な認識は、完璧な世界を仮想するために無限の上昇を続けうる。
(*) 仮想は「実在」である。
仮想が実在として認識される以上、全ての言明は真にもなれば偽にもなる。
すなわち以上述べた議論は、すべてアブラカダブラである。
ओं अमोघ वैरोचन महामुद्रा मणि पद्म ज्वाल प्रवर्त्तय हूं
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや ふん
不空なる君よ 毘盧遮那仏よ
偉大なる印を有する君よ
宝珠であり蓮華である君よ
願わくば光明を放ち給え
[以上、ヴィシュヌ神が降り立った地として信仰される北インドの聖地ハリドワルにて]
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