[詩小説] 夏至の日のゲシュタルト

うちの奥さんの実家が、熊本の植木というところにありましてね。

昨日はお義母さんのお見舞いで博多から熊本まで車を走らせたんですが、植木の家でお義父さんから本を一冊いただいたんです。

お義父さんは薬剤師でして、若い頃は外資系の製薬会社で営業をやってたんですが、親に呼び戻されて薬局を継ぐことになって漢方を勉強したという人なんですわ。

その漢方薬局の看板をつい先日五月の末に下ろしまして、というのは一年ほど前に脳梗塞を起こしてできないことが増えたというのもありますし、お義母さんも体調を崩して入院することになりましたから、事務のほうも手が回らない。お義父さんとしては仕事が唯一の生き甲斐だから、あと六年、百歳になるまででも続けたいところだけれど、長女にもうやめろと言われて仕方なく店仕舞いをしたというわけでして。

ええ、うちの奥さんは次女でして、お義父さんの好きにやらせてあげたいという感じなんですが、近くに住んでるのはお姉さんですから、お義父さんとしても従わないわけにもいかないってところで。

そのお義父さんが漢方相談にカウンセリングの手法を取り入れてるというモダンな人でして。いろいろと勉強熱心なんですが、エゴグラムを使った交流分析を基本にしてらっしゃいます。人間の中には「親」と「大人」と「子ども」が住んでいて、人によってその三者の力関係が違う。そして人と人がやり取りをするとき、その三者の役割の強弱によって様々な関係性が生まれてくると説明するやつです。

お義父さんがくだすったのはデュセイの「エゴグラム」という本でして。自分が仕事で使ってた本だが、もう使うこともないから、よかったら勉強に使ってくれと言われましてね。

ぼくなどはロクに仕事もせずにふらふらと遊んでばかりですが、心理系に関心があることは知ってくだすってるもんで、わざわざ勧めてくだすったというわけで、全くありがたいことです。

で、その本をぱらぱらとめくっていたら、合州国西海岸の心理療法に関連してエサレン研究所やヴァージニア・サティアの名前と並んで、フリッツ・パールズのゲシュタルト療法の話が出てきましてね。

それで思い出したのが2010年に西海岸のサンフランシスコに行ったときのことです。

生まれて初めて太平洋を飛び越えて、着いたサンフランシスコという街があまりに快適な土地柄なもんで、ひねくれ者のわたしなぞは「こんな恵まれたところで生まれ育ったやつは、世界中にあふれる矛盾のことなど理解できないに違いない」と感じてしまいましたが、その素敵なサンフランシスコに「ゲシュタルト」という名前のカフェがあったもので、大いにおかしく思ったのです。

筒井康隆あたりの書いているもので覚えたゲシュタルト崩壊という言葉ですが、人間の認識というものが、ある「総合的・全体的」なまとまりとして成り立っていることに注目してそのことを、ドイツ語で形を意味するゲシュタルトという言葉で表すわけですが、そのゲシュタルトが崩壊すると、部分部分は認識できても、全体としての意味が理解できないというような、奇妙な理解不能状態が生じるわけですな。

よく知った字を見ているのに、じーっとその字を見ていると、あれ、この字は本当にこれで正しかったかな、何だか見たこともない字のような気がしてきたぞ……、なんて経験をしたことがありませんかね?

たとえば、この「字」という字をよくよく見てください。この「うかんむり」の格好、そしてその下にある「子」の字、そんなものがどうして「文字」の意味になるのか、果たして「子」の字はどうしてこんな格好をしているのか……。

そんなことを考え出した果てには、そもそもどうしてこんな世界があるのか、この世界で生きていることに一体何の意味があるのか、そもそもそんなことを考えている「わたし」とは一体何者なのか……。

……、……。

まあ、あんまり考えすぎると面倒くさいことにもなりますから、この話はこのくらいにしときましょう。

さわやかな初夏のサンフランシスコの街に、ゲシュタルトという奇妙な名前のカフェを見かけた。ただそれだけの話なんです。特に入ろうとも思わなかったその店のことを、多分ぼくは死ぬまで忘れないような気がします。

ところで十年ひと昔という言葉がありますわな。若い頃は十年といったらとんでもなく長い時間に思えますが、還暦も近くなると時間の感覚もずいぶんと変わってくるもので。

そうは言っても、歳を取ったから、時間がびゅんびゅん過ぎていくかというと、これもまた違いましてね。

わたしの場合は、この十年ほど仏教瞑想をやるようになったことが大きいんですが、時間の流れというものの主観性というものを強く意識するようになってきたんですな。

時間の流れというものが、楽しいときにはどんどん流れてゆき、苦しい、いやなことがあれば、なかなか過ぎ去ってくれない。そんな経験は誰にでもありましょうが、現に今体験しているこの瞬間の感覚、一瞬一瞬移り変わってゆく意識の状態というものを、体の感覚を通してしっかりと捉え、選り好みせず、毛嫌いもせず、ただありのままに受け止めようとするとき、十年の時の流れも一瞬に過ぎず、今この瞬間という刹那の中にも永遠の時の流れが隠されているという不可思議な理解が、実感として、体の隅々に至るまで染み渡ってくる。

そんな経験につながったりもするわけでして。

ええ、それで昨年の6月のことなんですが、パスポートの書き換えをインドのデリーですることになりまして。元々は日本に帰ってするつもりでしたが、例のパンデミックでしたからね。
それでうちの奥さんが2021年だから6月21日にすれば発行日が覚えやすくていいと言うもんで、そりゃいい案だなと。はい、出入国の折りなど、パスポートの発行日は書く機会が多いもんですから。

それでその書き換えのときに、2011年の夏に日本を逃げ出すためにパスポートを取り直して、あれから十年が過ぎたのかと、長いような短いような、様々な想い出が詰まった十年を思い返してみたときに、ああ、この新しい十年パスポートとともに、新十年期が始まるんだなと考えたんですわ。

で、そのときは気づかなかったんですが、昨日が夏至の日でしてね。とすると、と思って念のため調べると昨年もやはり6月21日が夏至でして、これは切りがよくて覚えやすい。

中国の陰陽の考え方からすれば、夏至は陽気が極まる日となりますから、言わばこの現実世界のゲシュタルトが最大限に実現する日とでも申せましょう。

そのくっきりとした世界像を出発点として、陰の気の極まる冬至の日へと向けて、渾沌と闇の持つ力を探る旅路を楽しませていただく。理性の及ばぬ曖昧模糊とした原初の世界との往還なくして、この世の歓びも哀しみも所詮価値を持ち得ないのですから、実のところゲシュタルトの崩壊も何ら怖れるべきものでも不気味なものでもなく、ただ生成と消滅を繰り返すこの世の理(ことわり)にすぎないことを確認しておきたいじゃないですか。

とはいえ、その理のうちに、幾多の幻滅も絶望も存在しうるわけですから、どんな苦境にも潰されないだけの強さと優しさを身につけることができるかどうか、そのことがぎりぎりのところでの俗世の試金石ということになるやもしれません。

願わくばあなたの命が闇の中、限りなく柔らかさに満ちた輝きを放ち続けますように。

そのことだけを祈ることにして、この愚かな口はもうつぐみ、静かに口笛でも吹くことにいたしましょう。

(了)

[2022.6.23. 博多。誤字脱字陳謝]

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