わらべは見たり野なかのパラ
若さだけが持つ輝きというものがあります。
ぼくは今年五十二歳になりますが、定職にもつかずにふらふら生きている人間なので、気ばかりは若いのですが、二十歳(はたち)くらいの人たちの持つ若さというものに、まばゆいばかりのエネルギーを感じることがあります。
いや、本当は二十歳とは限らなくて、三十でも、四十でも、まばゆさを放つ人は年代に関わらず存在するのですが、今は、若さの持つ特別の生命エネルギーについて、話したいのです。
歳を重ねてから振り返ってみて、若いということは、エネルギーは溢れているのに、それをどこに向ければいいのか分からない年代のことを指すのかもしれないな、と思います。
この世界の全体像がうまくつかめない中で、どっちに進んだらいいのか、どうにも分からない。分からないけれども、手探りで進んでいかざるを得ない。ほかにしようもないので、悩み、苦しみながら、一歩いっぽ歩いていく。あるいは盲滅法かけ抜けていく。
けれど、そんな姿を仲間に見せるのはかっこ悪いですから、表づらだけは整えて、いい子ぶったり、悪ぶったり、その人その人の仮面をかぶって生きることになったりするというわけでしょう。
そして、そのとき、誰だって、ある程度は周りに合わせなければ、生きていけないには違いないのですが、けれども、周りの圧力に負けて、無闇に周りに合わせてしまい、自分を殺して生きることになるのではなく、自分の魂の声を信じて、周りとの軋轢に苦しみながらも、あふれるばかりの魂の輝きを発しながら生きている、そんな若者が、数は少ないかもしれませんが、今の世の中にも確かにいますよね。
小松パラさんという人は、そんな若者の一人だなと、ぼくは思っています。
周りに流されることなく、自分の信念をしっかり持とうと、苦しみ、もがきながら、学生という幼年期の終わりを目前にして、パラさんは今、嵐の中、ちっぽけな船を漕ぎ出そうとしています。
パラさんの人生が、これからどんな方向に向かうことになるのかは、だれにも分かりはしませんが、このnoteという擬似世界での経験を糧に、豊かな人生を送ってくれるはずだと希望するのは、パラさんを知るほかの皆さんとも共通する想いだと確信しています。
わらべならぬ、おじさんが野に見つけた一輪のバラは、折り取られてnoteという小さな世界に留まるのではなく、いつまでも野の中で鮮やかに咲き続けることでしょう。
以上を、noteという世界に鮮やかな彩りを添えてくれたパラさんへの手向けの言葉とさせていただきます。
[2016.03.01 タイ・ルーイにて]
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