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[全文無料] 蒼い宝石と月の雫

人生というのは、全くままならないものだな。

道端のチャイ屋で、一杯15円ほどのチャイをすすり終わって、男はそう思った。

北インドの巡礼地の駅前から続く賑やかな通りを目の前にして午後4時半、曇天に薄日が差し、ブルーシートの日除け兼雨よけで囲まれたチャイ屋は蒸し暑く、通りをゆく巡礼者のざわめきも、ツーストの三輪タクシーのエンジン音も、男の冴えない意識にねっとりと絡みついてきては、気持ちをどんよりと盛り下げる。

しかしそこまでを意識が捉えた瞬間、低空飛行を見事に演じていた心は、すっと上昇に転じて大空に舞い上がった。

ふわり、ふわり。

万物の息吹に乗って、滑らかに軽やかに、男の意識は飛んだ。

*  *  *

人間の気分というのは、まったく気まぐれなものですわな。

ちかしい人間の気持ちをはかりかねて機嫌を損ねてしまい、結果その人物に嫌味を言われると、今度はこちらが機嫌を損ねる。

そうして一旦感情がこじれますと、なかなか簡単には修復できませんから、三十六計逃げるにしかず、捨て台詞を残して部屋をあとにして、路傍の茶屋で阿呆を決めていたのでございます。

*  *  *

ヒトの脳の大脳皮質には側部帯状回とかいう部分があるそうで、そこの活動によって自意識が発生するものらしい。

わたしのように自分を持て余し気味な人間は、この自意識の生成に難があったりもするようで、余計な過去を考え、あるかどうかも分からぬ未来にうんざりして、自己像を灰色に染めては人生を無為に過ごすわけだ。

けれどもこの、灰色の筆使いを意識することさえできれば。

灰色の中の微妙な色の使い分けを味わうこともできるのだし、灰色からセピアへと世界を塗替え、いつか虹色の次元へ転生することだって……、不可能という訳じゃない。

少なくともこうして自己散策のコトノハの道行きで、薔薇色の宇宙への案内図を確かめ、熱死地獄の入り口に「危険、立入禁止」と看板を立てることくらいはできるわけで。

夕日が橙色に照らすヒンズー寺の巡礼宿の一室で、蒸し暑い空気を背中に感じながら、携帯につないだ安物の英語鍵盤を叩いては、ぼくは無意識の泉から言葉を救い上げていた。

*  *  *

ネットの友から博覧強記という言葉をいただいて、おれはどちらかと言えば博覧狂気だなと思った。

興味だけは雑多に持っているから、断片的な知識は腐るほどある。あるいは返り見られることもないような倉庫の片隅でほこりをかぶって埋もれている。そうしてすべてはおおむね忘却の彼方、曖昧模糊とした記憶は強記されることなく妄想の菌糸に覆われて、あちらとこちらが突拍子もなく結びつけられては狂気乱舞を始めるという始末だ。

あるいは別の新しい友は、ぼくの文章を見てとても社交の場が苦手なようには思えないと言ってくださる。

書き言葉に現れる人格は、喋り言葉に現れる人格とは大いに異なりもするもので。

ネット上に生息する自己像と現実世界で息をしている身体像と果たしてどちらが本物のぼくなのだろう。

もちろん仏教的に考えれば、「本物のぼく」などというそもそも存在しないものと自分を同一視することがすべての苦しみの始まりなのであり、現代の脳神経科学は、その同一視に大きな役割を担っているのが側部帯状回なのだと説明するわけで。

*  *  *

午後の六時を回っても、まだまだ空は明るいが、暑さはだいぶ和らいできた。

静かに回る天井扇が優しく送ってくれる涼風に吹かれながら、ぼくは意識を天に飛ばすことにする。

側部帯状回にはしばらくお休み願うことにして、自己意識を緩ませ、あわいの世界に心を遊ばせる。両手の指々は鍵盤を叩き続けていても、自意識過剰からくる緊張がほどけてしまえば、全身の筋肉から余分な力は抜けて、心地良いさざなみの感覚がからだを駆け抜ける。

物理法則に愚直にしたがい、重力にしばられ続けることも、結局自我の鎧の働きにすぎないことに気づいたら、さあ皆さんもご一緒に、この地上の地獄と天国の重なり合いからはしばし離れて、成層圏を突き抜けて天空を駆け回り、取り敢えずお月さまで一休み。

地球という名の、水に満ちた蒼い宝石の神秘の光に照らされながら、人類の愚かさに月の雫で乾杯いたしましょう。

#自由落下の言葉ども

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