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009 電網恢恢疎にして漏らさず。あるいは、シリコンチップ方丈記抄。|日々是随想

1. ニセ方丈記

流れゆく川の流れは決して絶えることはないのだが、けれども元と同じ水ではありえない。流れの淀みに浮かぶ泡々も、現れたかと思うと、消え去ってゆき、長い間そこにとどまるものはない。

この世に存在する人も、その住みかも、まったく同じことである。

コンクリートとアスファルトで地面をおおい、高層の集合住宅が高さと眺めを競い、あるいは豪壮な戸建ての屋敷が高級住宅街に構えられる。

それほどの稼ぎのないものは、見栄えだけは整えられた安普請の木造アパートに住むか、都心からは遠い不便の地に家を建てて、長距離・長時間の鉄道通勤で骨身を削る。

そうして一代限りの人生を全うすることが、浮き世の定めなのである。

生まれては死んでゆくこれらの人々は、どこからやってきて、どこへ去ってゆくのだろう。

仮初めのこの人生で、誰のために頭を悩ませることになり、何に喜びを見いだすのだろう。

住まいも、そこに住む人も、やがて消え去る運命に翻弄される様子は、スマートフォンとその上で使われるアプリの関係と異ならない。

思い出深い携帯を大切に使っていても、気に入っていたアプリはいつの間にか開発が止まり、時代遅れとなって、もはや使えない。あるいは同じアプリを気持ちよく使い続けていたとしても、元々使っていた携帯はキャンペーンに踊らされて機種変更してしまったので、手元にはもう残らない。

夜露が朝日に当たればどこへとも知れず消え失せ、しぼんだ花が夕べを待つことなく落ちてしまうように、製品も家も、技術も人も、儚く消えてゆく運命にあるのだ。

2. 「方丈記私記」についての私記

鴨長明の方丈記に似せて、ニセ方丈記なるものを綴ってみたのは、ネットで堀田善衛の「方丈記私記」(https://amzn.to/3hnBEzC)について書かれた記事を見たことがきっかけで、これはまったくの戯れにすぎない。

戯れの元となった堀田氏の文章を孫引きしておこう。

❝❝
私は大空襲の期間中に、とくに1945年3月10日の東京大空襲のあとに、ああいう大災殃についての自分の考え、うけとり方のようなものが、感性の上のこととしてはついに長明流のそれを出ないことを口惜しく思ったものであったが、そのことと、そういう人災、大災殃を招いた責任者を人民が処刑をする、あるいはリコールをする政治的自由、思想的自由のない長い長い歴史とは並び立つものであろうと思う。(p166-7)
❞❞
以上、https://maxowl.blogspot.com/2019/12/blog-post.html より引用。

今を生きるぼくらは大空襲の代わりに、地下鉄サリン事件や東日本大震災、そして2020年初頭から続くパンデミックというものについて、そうした「災厄」をどのように受け留めたらよいのかを考えるためのヒントを、鴨長明や堀田氏の思考からもらうことができるはずだ。

ここでぼくは、今も続くパンデミックに関して、自分が「長明流」の仏教的な諦めの気持ちで受け留めていることを特に残念に思うものではない。

個人の力では変えようのないことを、「現にこれは変えようがないのだ」とありのままに理解することは、何ら間違った態度ではないからだ。

けれども同時に、このパンデミックについて、政府や財界やその他の権力を持つ集団がどのようにそれを扱い、またそうした権力集団からの分配にあずかろうとして、したたかな民衆である「皆さん」がどのように振る舞っているのかということに関しても、できる限りの現状把握をすることが大切だし、そうした現状について意見をいうべきときには臆することなく意見をいうべきものと考える。

堀田氏の時代には、仏教的諦めと体制への抵抗が両立するようには思えなかったのかもしれないが、地球規模での思想の融合と統一が、それぞれの文化の違いを尊重した上でなされるなければ滅びに至りかねない現代においては、明らかに見て諦めると同時に、一人の人間の中に同居する支配する者と支配される者の葛藤に、適切な批評のくさびを打ち込むことは、完全に可能であるという以上に、積極的になされることが望まれる歴史上の課題なのだと感じる。

今どきの若い人には「何を熱くなって大風呂敷を拡げてんの?」と言われること間違いなしの文章になってしまったようにも思うが、おおよそこれが今のぼくの実感そのものなので、これはこのままでさっぱりと公開することにしよう。

3. 電脳の石版(タブレット)の上で

神も仏も驚くほどに細密な集積回路で造られた紅米(レドミ)と呼ばれる小石版は、縦横厚さ 146.3 x 70.41 x 9.55 ミリの大きさの筐体にオクタコアのシリコンチップが収められていて、その重さは165グラ、化学物質(ケミカル)にやられて筋力の衰えたこの両手にはやや重い。

大量生産の安物の、けれども滑らかなガラスの表面(おもて)に左右の親指を滑らせながら、電網の虚空に描き出されていく言の葉の連なりは、長明さんがいみじくも述べた通り、ひたすらに煩悩の塊でしかないのだが、同時にその言霊には仏性と呼ばれる悟りの種が秘められてもいる。

というのも、煩悩という名の現世への恋患いは、あなたがそれと意識していないとしても、つまるところ真実と神を欲する気持ちから生まれた純粋そのものの感覚が元になっているのであり、多くの場合に不完全な充足しかもたらしてくれないとはいえ、全宇宙の触手の一本である「あなた」という存在を通して投影される、救済の写し絵に違いないからだ。

800年以上も前、乱世の鎌倉時代に、三メートル四方の庵を京の都の外れに結び、枯淡の暮らしを求めた隠遁者の晩年の心境が、165グラムの小石版の重みを通して「わたし」に語りかけ、「わたし」はただの導体となってその想念を「あなた」に受け渡す。

人が生まれ、死に、苦しみ、喜びを繰り返す、その無常にして変転を続ける宇宙の営みに、絶望を越えて、希望を捨てて、倦むことなく今この瞬間に寄り添うことは果たして可能なのか。

中継地点である「わたし」の心で生まれた、そんな疑問の切れ端が「あなた」の心に、幾ばくかの光を灯す可能性を信じて、今日もぼくはこうして切れ切れの文章を、電河の流れに放つのだ。

☆今回触れた本
堀田善衛「方丈記私記」
https://amzn.to/3hnBEzC

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※見出し画像はネットで拾った東京空襲の写真を勝手に加工した海賊版です。

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