海よ、まだお前が聴こえるだろうか/塚原真梨佳
海よ、まだお前が聴こえるだろうか
塚原真梨佳
2019年の夏、私は台湾・基隆を再び訪れた。二度目の来訪は母を伴ってのことである。
大伯父の乗った艦は、1944年11月21日の夜明け前に基隆沖北方60海里のあたりで撃沈した。基隆の海は大伯父の最期につながる海である。
母と二人、基隆の町を歩く。現在の基隆はウォーターフロントとして賑わう台湾の貿易拠点であるが、歴史的な風情も残すどこか懐かしい港町である。日本統治時代は、基隆要塞として日本海軍が駐留する軍港都市でもあった。
台湾には夜市文化が根付いているが、基隆にも「廟口夜市」と呼ばれる夜市がある。廟口夜市の名物は「甜不辣(天婦羅)」……そう、天ぷらである。天ぷらといっても具材に衣をつけて揚げるいわゆる天ぷらではない。サメのすり身を油でサッと揚げたさつま揚げのようなものである。日本統治時代、九州出身者が台湾に伝えたものだそうで(九州はじめ西日本の多くの地域でさつま揚げのことを天ぷらと呼ぶ)、ゆえにこちらでも天ぷらの名で親しまれているという。基隆では、この天ぷらに甜辣醬というチリソースのようなものをかけて食べる。きゅうりの浅漬けが添えられるのが定番だ。
「伯父さんも、これ食べたのかな」
そんなことを言い合いながら天ぷらを食べ進める。魚介の旨みに甘辛いチリソースが不思議とよく合う。そして塩気の強いきゅうりを合間にポリポリとかじれば、いくらでも食べられそうな気がしてくる。
しかし、この天ぷらのような日本の痕跡を基隆に見つけるたびに、日本がかつて統治という名の植民地支配を行っていた事実に直面するようで、私は申し訳ないような、居た堪れないような思いになる。それはちょうど、家族としてではない、軍人としての大伯父の顔を垣間見たときの心持ちとよく似ていた。
「そろそろ海を見に行こうか。ここからそう遠くないよ。」
私はそう母に水を向ける。ちょうどお盆の頃だったからだろうか。基隆の街のあちらこちらに色彩豊かなランタン飾りが華やいでいた。そのランタンに火が灯る頃、母と二人、基隆の波止場から海を眺めた。
「伯父さん、遅くなってごめんね。」
母がポツリと呟く。
「八千代の娘が来ましたよ。本当は八千代さんも連れてきたかったけれど、それは間に合いませんでした」
八千代とは、母の母つまり私の祖母のことだ。祖母は母が中学生の頃に病気で夭折している。戦後、祖母は戦死した兄の弔いを十分にできていないこと、彼女の母親(筆者の曽祖母)を靖国に連れて行ってあげられなかったことを随分と悔いていたという。そんな祖母も私が生まれる前に彼岸の住人となってしまった。ゆえに、母方の一族の記憶や思い出は、全て母を通して私に伝わってきたものである。思えば、大伯父・谷口常雄へと至る私の追憶の旅は、あの日の母の何気ない一言がきっかけではじまった。
あの時、なぜあんなことを私に言ったのかと尋ねてみても、きっと母は覚えていないと言うだろう。でもそれは、裏を返せば不意に口をついて出てしまう程度には、母の中にあるいは母方の一族の記憶の中に、大伯父の存在が、そして彼への弔いの未完が無視できないしこりとなってわだかまっていたのだろうとも思う。写真一葉、骨ひと欠片帰ってこなかった大伯父。遺された者が彼を悼むには、そのよすががあまりにも遺されなかった。空の骨壺を墓に納めてみたとて、誰がそれを弔いの区切りとすることができるだろうか。そして、きっと他所よりも幾ばくか早い時期に母方の一族は、生きた大伯父を知る遺族と呼べる者たちもこの世を去ってしまった。そう、母が呟いたように、もはや何も間に合わなかったのである。
何も終わっていないけれど全てが手遅れであるというちぐはぐな実感、それが一族のわだかまりだとするならば、そのわだかまりこそが大伯父と全てが過ぎ去った後に生まれた私とを結びつけたのである。それはなんと皮肉なことであろうか。
ねぇ、何もかも遅すぎるのだけれど、まだ何かできることはあるのかしら。全てが刈り取られた後に、拾い上げることのできる落穂はまだ、あるかしら。
ふと、大伯父の戦没地へと続く海に、母が呼びかける。
「伯父さん、遅くなったけど、一緒に帰ろうね。」
海は、何も答えない。
私は、一族の年月が刻まれたような母の横顔を、ただじっと見つめていた。
塚原真梨佳(つかはら・まりか)
『戦争のかけらを集めて』担当章:
戦後七〇年の軍艦金剛会――「追憶」のためのノート