書き遺されたものから祖父と出会い直す/清水亮
書き遺されたものから祖父と出会い直す
清水亮
戦争だけはしちゃいかん。1927年生まれの祖父は、よく言っていた。
メッセージは覚えているのに、祖父の戦争体験について記憶も記録も曖昧だ。私が大学2年生のとき、戦争体験について詳しい話を聴く前に亡くなってしまった。自分史の類は書かなかった。
2022年8月、新型コロナウィルス流行後に久々に訪ねた祖父母宅で、書棚を漁っていたら、祖父が生前に書いた文章がいくつか出てきた。1つだけ、戦争体験について書いていた。A4で、たった1.5ページの小文だ。
専修大学昭和31年卒業の同期生会「どうした会」の手作り『50周年記念誌』への寄稿だ(図1)。祖母によれば、同期生会は毎年のように集まって旅行をしていたという。
もちろん戦争体験記集ではない。会長は「時には「どうしたかい」と集まって、この充実した仲間の会で楽しもうではありませんか」と序文を書いていて、各執筆者は他愛ない近況・思い出話を寄せる。
その目次のなかで、ひときわ長くて硬くて浮いているのが、祖父の「戦時激動期の旧中学時代を背景に—太平洋戦争と靖国問題の一考察—」だった。研究者などではなく、サラリーマンだった。
ごく淡々と書かれた文章のなかで目に留まったのは、伊那商業学校時代、1945年に疎開してきた陸軍登戸研究所に勤労動員された際のエピソードだ。
「私達の班は電波兵器と時限爆弾(俗に当時風船爆弾と呼ばれ、これを気流に乗せてアメリカ西部地域を空から攻撃した兵器)の製造に当たった。他班は、黄燐等を使用し毒ガス製造の前行程を受け持った(毒ガス兵器使用は国際法違反)。」
書かれた内容には若干検証が必要かもしれないが、単に体験談ではなく、( )内に、戦後に学んだ知識が反映されている点が重要だ。書棚には、上伊那郷土史研究会発行の『伊那路』405号「特集 登戸研究所」(1990年10月)や、私が生まれた1991年発行の『高校生が追う陸軍登戸研究所』(長野・赤穂高校平和ゼミナール/神奈川・法政二高平和研究会、教育資料出版会)などの文献がいくつかある。朝日新聞や地方紙の色褪せた記事も挟まれていた。
文章後半では、靖国神社参拝をめぐり、「近隣諸国、特に旧支那への侵略を企てた戦争であり、戦争を主導した軍上層部(特にA級戦犯)の責任は、永久に問われなければならない」と述べている。祖父は、自身の体験から出発して、自身が巻き込まれた出来事の意味や背景を、彼なりに探り、学び、表現する歴史実践をしていたのだ。
祖父は、敗戦後「私達は軍の秘密兵器製造に携わっていたため、これ等の兵器を深い穴に数箇所に分散して埋めて、残務整理」をして一か月後に帰宅した。祖父にとって、商業学校時代は「進学すれど戦いのために修学も思うに任せず、誠に残念な若い時」だった。その「残念」さは、占領下の焼野原の東京に出て働き、やがて専修大学の夜学に入った祖父の戦後の人生の動力源でもあったと思う。
ちょうど押し入れから発掘された、1950年代前半の教科書や便覧、大学入学案内は、戦時下から「向学心に燃え」続けた日々の名残だ(図2)。埃被った書斎の大きな書棚に詰まった本が、一人の人間が積み重ねた歴史実践の痕跡だと気付く(積読も多そうだけど)。
実は、文章に既視感があった。ふと蘇ってきた記憶がある。私は、中学3年生の夏休みに『ユキは十七歳 特攻で死んだ』(毛利恒之著、ポプラ社、2004年)の読書感想文を書いて、自治体教委の文集に載った。翌2007年の夏休み帰省時、テレビで甲子園の中継をみていたところ、祖父は、自分も戦争のことを書いたことがあるのだけど、どう思う? と手書きの原稿をほいと渡され、感想を求められた(図3)。
私がどんな反応をしたか、記憶はさだかではない。読書感想文でも「軍の上層部を決して許せない」と書いているので、共感したことはたしかだろう。しかし、登戸研究所などについて当時はよくわからず、さほど関心をひかれなかったと思う。
せっかく手渡された体験を、私はちゃんと受け取れなかった。おそらく対話も成立しなかった。そんな体たらくで、13回忌も過ぎた頃に、いまさら痕跡を拾い集めている。
「歴史の時代」に、このわずかなかけらから、どのような歴史実践ができるだろうか。出会い直す相手は、私の脳裏で親しく微笑む「じいちゃん」ではなく、若かりし日の見知らぬ「彼」だ(図4)。あの手この手で、断絶の彼方の祖父に出会い直す旅の第一歩を、ここに記す。
清水亮
『戦争のかけらを集めて』担当章
・プロローグ あの戦争は「歴史」になったとしても
・歴史への謙虚さ——非体験者による歴史実践の可能性
・エピローグ 環礁の屑拾い——「未定の遺産」化の可能性
・あとがき
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